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獣の王は花嫁にもう一度恋をする  作者: けもこ


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第6話 剥製の部屋

最初に見えたのは、赤い布だった。


次に、磨き上げられた木の台座。硝子の棚。銀の名札。壁に飾られた影。


それらは、まるで貴族の美術品を収めるための部屋のように整えられていた。


けれど、そこに飾られていたのは美術品ではなかった。


獣人だった。


胸から上だけのもの。

首だけのもの。

手だけ、耳だけ、尾だけを切り取られ、美しく整えられたもの。


毛並みは異様なほど艶やかに磨かれ、瞳には硝子玉がはめ込まれている。生きていた時の表情を奪われ、代わりに作り物の穏やかさを与えられたそれらは、こちらを見ているようで、何も見ていなかった。


ビアンカの喉が、ひゅっと鳴った。


ロイドが反射的に彼女の前へ出る。


「見るな」


押し殺した声だった。


「ヴィー、外へ出るぞ」


肩を包む手が、いつになく強い。


その手の温かさに触れた瞬間、ビアンカは自分が震えていることに気づいた。足元が崩れそうだった。けれど、目を閉じることはできなかった。


甘い香水の匂いが、記憶の底をこじ開けていく。

幼い頃の記憶にいつもこびりついていた匂い。


薄暗い屋敷。

重たいカーテン。

廊下に染みついた、甘く濃い香り。


脳裏に浮かぶ病に伏した母の、痩せた手。


『すぐに戻るわ』


そう言って、母はビアンカの頭を撫でてくれた。


母は白銀の毛並みを持つ、美しい狼獣人の女だった。幼いビアンカの記憶の中で、その姿はいつも少し疲れていた。それでもこちらを見つめる目には愛情が溢れ、笑う表情は、春の光のように優しかった。


伯爵の恩情で遠くの病院へ療養に行くのだと聞かされた。


良くなったら、必ず戻って来ると。


けれど、母は二度と戻らなかった。


屋敷の執事は、残されたビアンカに残念そうな顔をして言った。


主人は随分と手をかけてくれたが病には勝てなかったのだ、と。


幼かったビアンカは、それを信じるしかなかった。ロイドの母であるマチルダに抱きしめられ、ロイドの小さな手を握りしめて、母を失った悲しみを乗り越えて来た。


けれど、本当は。


「……嘘だったのね」


掠れた声が落ちた。


ロイドが振り返る。


「ビアンカ」


その声には、恐れが滲んでいた。


ロイドは知っている。ビアンカが強いことを。傷ついても、折れずに立ち上がる女だということを。


それでも、これは違う。


ここにあるものは、強さだけで受け止められるものではない。幼いころから胸の奥に沈めていた傷を、容赦なく抉り返すものだった。


ビアンカは、ロイドの腕から抜け出した。


一歩、部屋の中へ踏み込む。


「駄目だ」


ロイドが制止する。


「見なくていい。こんなもの、おまえが見る必要はない」


「あるわ」


声は震えていた。


それでも、ビアンカは目を逸らさなかった。


「ここにいる人たちは、誰かに見つけてほしかったはずよ」


硝子棚の中に、灰色の耳を持つ少年の剥製があった。


名札には、番号だけが刻まれている。


隣には、赤茶色の尾。さらにその隣には、年老いた狐獣人らしき女の胸像。


名前はない。


年齢も、家族も、生きていた時に何を好み、誰を愛し、どんな声で笑ったのかも、すべて奪われていた。


ただ、飾られている。


獣人ではなく、物として。


ビアンカは拳を握った。


爪が掌に食い込む。


その痛みで、震えが少しだけ鎮まった。


「この人たちは、飾りじゃない」


静かな声だった。


「名前があったの。家族がいたの。誰かに、帰りを待たれていたのよ」


ロイドは、何も言えなかった。


肩を抱いて連れ戻したい。目を塞いでやりたい。こんなものを一秒でも長く見せたくない。


だが、ビアンカは歩いていく。


恐怖に押し潰されながらではない。怒りを胸に灯しながら。


それが、彼女だった。


守られるだけの女ではない。

隣に立ち、同じ地獄を見て、それでも前へ進む女。


ロイドは奥歯を噛みしめ、彼女の横へ並びその手を取った。


「……一人で見るな」


ビアンカは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「うん」


その返事が、幼いころの彼女の声に似ていて、ロイドの胸が痛んだ。


二人は部屋の奥へ進んだ。


硝子棚の中には、小箱がいくつも並んでいた。箱の表面には、美しい筆致で番号と日付が記されている。その横には、買い手らしき貴族の名。


ロイドが一つを開ける。


中には、髪飾りや首輪、布切れ、身元を示すらしい小さな品々が納められていた。


彼女の視線は、部屋の最奥に向けられている。


そこには、他のものよりも大きな硝子の箱が置かれていた。


白銀の毛並み。


古びた青いリボン。


胸元に飾られた、小さな銀の飾り。


ビアンカの足が止まった。


呼吸ができない。


世界の音が、遠のいていく。


「……お母さん」


声は、ほとんど音にならなかった。


ロイドが彼女の身体を支える。そうしなければ、ビアンカはその場に崩れ落ちていた。


硝子の向こうにいる女は、記憶の中の母よりもずっと美しく、そして冷たかった。


病に痩せていたはずの頬は整えられ、閉じられていたはずの目には青い硝子がはめ込まれている。口元には、作られた微笑みが浮かんでいた。


母は、こんな顔で笑わない。


ビアンカの髪を撫でる時、少しだけ悲しそうに目を細めた。怖い夢を見た夜には、眠るまでそばにいてくれた。厨房でこっそり分けてもらった砂糖菓子を、 『ロイドとこっそり食べなさい』と言ってそっと手に握らせてくれた。


こんなふうに、誰かの趣味のために飾られる人ではなかった。


「……許さない」


ビアンカの声が、低く落ちた。


ロイドの腕の中で、彼女の震えが止まる。


涙は出なかった。


涙より先に、怒りが体を焼いていた。


母は死んだのではない。


その命を奪われたのだ。


病院へ行くと言われ、見送ったあの背中は、自分の運命をどこまで知っていたのだろうか。


「ジェラルドだけじゃない」


ビアンカは硝子箱を見つめたまま言った。


「この部屋を作らせた人間がいる。買った人間がいる。見て楽しんだ人間がいる。知っていて黙っていた人間がいる」


ロイドの瞳が、金色に鋭く光る。


「全部、暴くよ。俺が全部」

「私も一緒よ」


ビアンカは頷いた。


「この人たちを、ただの飾りにしないために」


その時、ロイドの耳が動いた。


地下室の外、遠くの遠吠えがかすかに聞こえた。


「時間がない」

「帳簿を探しましょう」


ビアンカは、母の硝子箱から目を離した。


離したというより、引き剥がした。


本当は、まだそこにいたかった。硝子を割って、母を抱きしめたかった。ごめんなさいと泣きたかった。何も知らずに待ち続けていた自分を、許してほしかった。


けれど今は、泣く時ではない。


この部屋を作った者たちを逃がしてはならない。


ロイドは部屋の奥にある書き物机へ向かった。引き出しには鍵がかかっていたが、短剣の先を差し込むと、金具はすぐに外れた。


中には、革表紙の帳簿が数冊。


ロイドが一冊を開く。


日付、金額、品目、納品先。


品目の欄には、人間なら決して書かれない言葉が並んでいた。


白狼雌。

狐耳幼体。

猫獣人尾部。

狼獣人胸像。


ビアンカは吐き気を堪えた。


ロイドの手が、帳簿を握り潰しそうになる。


「……高位貴族の名がある」


彼は低く言った。


「一人や二人じゃない。王族の名もある」


ビアンカは別の紙束を手に取った。


そこには、保安官事務所の印が押されている。


“保護対象”として記録された子どもたちの名。孤児。貧民街の獣人。身寄りのない者。罪を着せられた親から引き離された子。


そのいくつかの名に、赤い線が引かれていた。


「ロイド」


声が震えそうになるのを、ビアンカは必死に抑えた。


「この子たち、孤児院で聞いた名前がある」


ロイドは紙を受け取り、目を走らせた。


「……ヨナスへ持っていく」


「ええ。でも、それだけじゃ足りない」


ビアンカは部屋を見回した。


「帳簿だけなら、偽物だと言い逃れされる。ここにあるもの全部が証拠よ」


ロイドは一瞬、彼女の顔を見た。


青い瞳に、もう怯えはない。


怒りと、決意。


そして、深い悲しみ。


「ビアンカ」


「なに?」


「無理をするな、と言いたいんだが.....」


「言っても無駄よ」


「知ってる。それでも.....な」


ロイドは苦く笑った。


「だから、俺も一緒に無理をする」


ビアンカの口元が、わずかに揺れた。


笑みにはならなかった。


けれど、その言葉は確かに彼女の心へ届いた。


二人は必要な書類をまとめた。買い手の名簿、売買記録、保安官事務所の子どもたちの記録、剥製工房への支払い明細。


そのすべてに、ジェラルド・ワトキンの名と、さらに上位の貴族たちの印があった。


部屋を出る前に、ビアンカはもう一度だけ母の硝子箱の前に立った。


ロイドは何も言わず、少し離れた場所で待った。


彼女が母に向ける時間を、自分の心配で奪いたくなかった。


ビアンカは硝子にそっと手を触れる。


冷たい。


母の手は、こんなに冷たくなかった。


「……お母さん。待ってて」


小さく呼ぶ。


返事はない。


それでも、ビアンカは続けた。


「私、絶対に彼らを許さないから」


喉の奥が痛む。


「母さんをこんな場所に閉じ込めた人たちを、絶対に許さない。母さんだけじゃない。ここにいる人たちの名前を、必ず取り戻す。だから……」


そこで初めて、声が少しだけ揺れた。


「だから、見ていて」


ロイドは、ビアンカの背中を見つめていた。


その背中は細い。


抱きしめれば、腕の中にすっぽり収まってしまうほどだ。


それなのに、どうしてこれほど強いのだろう。


そして、どうして自分は、その強さを誇らしく思うのと同じくらい、恐れてしまうのだろう。


ビアンカは硝子から手を離した。


振り返った顔は、まだ青ざめている。けれど、その瞳は真っ直ぐだった。


「行きましょう、ロイド」


「ああ」


ロイドは袋を肩にかけ、扉へ向かう。


その時、ビアンカがふと足を止めた。


「待って」


壁際の小さな棚に、香水瓶がいくつも並んでいた。どれも高価なものだったが、一つだけ封蝋の印が違っている。


ビアンカはそれを手に取り、匂いを嗅いだ。


胸の奥が、ぞわりと粟立つ。


「これよ」


「何がだ」


「ジェラルドの匂い。でも、この香水を使っていたのは、あの男だけじゃない」


彼女は瓶の底に刻まれた紋章を見る。


「この印……皇太子のものだわ」


ロイドの顔つきが変わった。


「ヨナスへ持っていく。ハネイグ侯爵なら、この紋章の意味がわかるはずだ」


「知っているの?」


「ヨナスの背後にいる改革派の貴族だ。これが本物なら、王族の中枢まで繋がる」


ビアンカは瓶を布に包み、帳簿と一緒に袋へ入れた。


地下室を出る時、彼女は振り返らなかった。


振り返れば、動けなくなる気がした。


だから前だけを見た。


甘い香水の匂いは、まだ髪や服にまとわりついている。母の記憶も、硝子の中の死者たちの姿も、きっと一生消えない。


けれど、消えなくていい。


忘れないために。


二度と、誰にも忘れさせないために。


階段を上り、寝室の床板を戻す。屋敷の外へ出ると、夜気が肺に入った。


ビアンカはそこでようやく、深く息を吸った。


ロイドが彼女の肩に外套をかける。


「寒いか」


「少し」


「戻ったら、すぐにヨナスのところへ行く」


「ええ」


「その前に、少し休もう」


ビアンカは首を横に振った。


「休むのは、全部終わってから」


ロイドは言い返そうとした。


だが、彼女の横顔を見て、言葉を飲み込んだ。


ビアンカは、もう決めている。


自分の母だけではない。

この部屋に閉じ込められたすべての死者のために。

消えた子どもたちのために。

これから奪われるかもしれない誰かのために。


戦うと。


ロイドは、彼女の手を握った。


「なら、さっさと終わらせるぞ」


ビアンカは彼を見上げる。


「うん」


遠くで、保安官事務所の方角から鐘の音が響いた。


陽動の火が消された合図だ。


ジェラルドが屋敷へ戻るまで、もう時間はない。


ロイドとビアンカは夜の路地へ身を滑り込ませた。


その背後で、白い石造りの屋敷は何事もなかったように静まり返っている。


けれど、もう何もかもが変わっていた。


地下室から持ち出された帳簿。

高位貴族の紋章が刻まれた香水瓶。

消えた子どもたちの名簿。

そして、死者たちの沈黙。


それらはやがて、国そのものを揺らす火種になる。


ビアンカは走りながら、胸の奥で誓った。


もう誰も、飾らせない。


誰の命も、趣味や権力の道具にはさせない。


たとえ、そのために自分が何かを失うことになっても。

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