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獣の王は花嫁にもう一度恋をする  作者: けもこ


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第5話 甘い香水の地下室

翌日の夜、ユリベルの町に小さな騒ぎが起きた。


保安官事務所の裏手にある倉庫で火の手が上がったのだ。


燃えているのは、あらかじめ水を含ませた古布と、煙の出やすい屑材だけ。大きな被害は出ない。だが、遠目には十分に緊急事態に見える。


「火だ!」


「倉庫から煙が出てるぞ!」


警備隊が慌ただしく走り出す。


町の反対側、暗い路地の屋根の上で、テルマが小さく口笛を吹いた。


「予定通り。保安官、出たよ」


眼下では、ジェラルド・ワトキンが苛立った様子で馬に乗るところだった。上質な外套を羽織り、部下に短く命令を飛ばしている。


その横顔は、端正だった。


だが、夜目の利くテルマには見えていた。


人を人とも思っていない目。


「……嫌な男」


彼女は短く呟き、小さく細く人の耳に届かないほどの遠吠えを発した。


その合図は、屋根から屋根へ、さらに路地の奥へ伝わっていく。


ジェラルドが屋敷を離れた。


作戦開始。


◇◇◇


ジェラルドの私邸は、町の中心から少し外れた場所にあった。


白い石壁。整えられた庭。無駄のない造り。保安官の家としては控えめに見えるが、窓枠の金具や門の彫刻に、育ちの良さと金の匂いが滲んでいる。


「使用人は通い。今夜は全員帰っているはずだ」


ロイドが低く言う。


「外の見張りは?」


「ミゲルが押さえてる。中には今のところ気配なし」


ビアンカは庭の植え込みに身を沈め、鼻先をわずかに上げた。


夜露。土。油を差した鉄。

そして、あの甘い香水。


「……いるわ」


「誰が」


「本人じゃない。匂いだけ。強く残ってる。さっきまで、この家の奥にいたみたい」


ロイドの表情が硬くなる。


「急ぐぞ」


二人は裏口へ回った。


鍵は新しい。けれど、いくら金をかけた鍵でも、万能ではない。ビアンカが耳を澄ませ、ロイドが針金を差し込む。


小さな音。


扉が開いた。


屋敷の中は、奇妙なほど静かだった。


生活の匂いが薄い。


台所は整いすぎている。廊下に埃はないが、温かみもない。まるで人が暮らす場所ではなく、誰かが出入りをするためだけの箱のようだ。


「嫌な家ね」


ビアンカが呟く。


「同感だ」


ロイドは短く返し、先へ進んだ。


一階の執務室。


机の上には書類が整然と積まれている。保安官としての報告書、町の巡回記録、獣人に関する苦情処理の控え。


どれも綺麗すぎた。


「見せるための書類だな」


ロイドが一枚をめくる。


「本命は別」


ビアンカは室内を見回した。


絨毯。書棚。暖炉。壁に飾られた鹿の角。どれも趣味が良い。けれど、彼女の鼻は別のものを拾っていた。


「香りが奥へ続いてる」


「寝室か」


二階へ上がる。


寝室は広かった。大きな寝台、薄い天蓋、磨かれた鏡。だが、寝具に使われた形跡はほとんどない。


「ここで眠っていないわね」


ビアンカは寝台に触れ、すぐに手を離した。


「昨夜も、今日も。匂いが古い」


「では、どこで過ごしていた」


ロイドの声が低くなる。


ビアンカは答えず、部屋の中をゆっくり歩いた。


壁際の棚。鏡台。衣装箱。絨毯の縁。


甘い香水は、ここで濃くなっている。けれど、部屋そのものからではない。


もっと下。


もっと奥。


ビアンカは足を止めた。


つま先で床を叩く。


一度。

二度。


音が違う。


「ロイド」


その一言で、ロイドはすぐに膝をついた。


床板の継ぎ目に指をかける。普通に見れば、ただの床だ。だが隅の装飾に、ごく小さな押し込み跡がある。


ロイドがそこを強く押した。


かすかな金具の音。


床板の一部が浮いた。


「……地下か」


ビアンカは息を飲んだ。


狭い階段が、闇の中へ続いている。


ビアンカの耳が伏せられる。


ロイドはそれを見逃さなかった。


「ビアンカ」

「平気」

「無理をするな」

「平気よ」


ビアンカは扉の前で足を止めた。


匂いが、強すぎる。


甘い香水。古い血。獣人の毛。薬品。革。磨かれた木。


そして、その奥にある、冷えきった死の匂い。


「……ロイド」


自分でも驚くほど、声が震えていた。


ロイドはすぐに彼女の前へ出た。


「戻るか」


短い問いだった。


だが、その声には命令ではなく、気遣いがあった。ここから先にあるものを、彼はもう半ば察している。だからこそ、ビアンカに見せたくないのだ。


ビアンカは首を横に振った。


「戻らないわ」

「ヴィー」

「ここで目を逸らしたら、きっとまた誰かが消える。消えた子どもたちも、私の母も……みんな、こういう場所から始まったのかもしれない」


胸の奥が、ざらりと擦れた。


この匂いを知っている。


いつ、どこで嗅いだのかまでは、まだはっきりしない。けれど身体が先に覚えていた。幼い頃の屋敷。重いカーテン。廊下に染みついた、甘くて気持ちの悪い香り。


ロイドが、そっとビアンカの手を取った。


冷えきった指先を包むように握られる。


「無理だと思ったら、目を閉じろ。俺が見る」


その言葉に、ビアンカは胸が痛くなった。


ロイドはいつもそうだ。


自分を隣に立たせてくれる。けれど、本当は何度でも前に出て、自分の代わりに傷つこうとする。


「ありがとう」


ビアンカは小さく答えた。


「でも、私も見るわ」


ロイドは一瞬だけ目を閉じた。


本当は、今すぐ抱き上げて外へ連れ出したいのだろう。こんな地下室の奥にあるものを、ビアンカに見せたくないのだろう。


けれど彼は、彼女が守られるだけの女ではないことも知っている。


同じものを見て、同じ痛みを抱えて、それでも隣に立つことを選んできた女だと知っている。


「……俺の後ろに」


「隣よ」


ロイドは、苦く息を吐いた。


「わかった。隣だ」


鍵穴に細い道具を差し込む。


一度、二度。


重い鍵が外れる音がした。


ロイドは取っ手に手をかけ、最後にもう一度だけビアンカを見る。


彼女は頷いた。


扉が、ゆっくりと開いた。


その瞬間、甘い香水の匂いが、二人の喉元へ押し寄せた。

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