第3話 白銀狼の花嫁
翌朝、宿の食堂は遅い朝食を取る狼獣人たちで騒がしかった。
夜の仕事が成功した翌朝は、誰もが少しだけ気を抜く。硬い黒パンをスープに浸し、骨つき肉にかぶりつき、眠たげな目で冗談を飛ばす。
「最近、どこに行っても主の顔を見るよなぁ」
若い狼獣人が、壁に貼られた手配書を見ながら言った。
「この人相、悪すぎないか? 主、こんな顔してたら子どもが泣くだろ」
「いや、黙って立ってる時はだいたいこんなもんだろ」
「殺されたいのか、おまえ」
仲間たちが笑う。
そこへ、太い三つ編みを前に垂らしたテルマが、得意げな顔で一枚の紙を広げた。
「じゃじゃーん。今朝、役人が貼ってる横から拝借してきた」
「またかよ」
グルドが呆れる。
だが、テーブルに置かれた手配書を見た瞬間、若い連中の声が止まった。
描かれていたのは、ビアンカだった。
白銀の髪。澄んだ青い瞳。小さく整った耳。口元に浮かぶ、かすかな笑み。
手配書というより、聖女画に近い。
「……姐さん、女神じゃん」
「いや、知ってたけど。知ってたけどあらためて見ると破壊力すごいな」
「主の手配書なんて、山賊の親玉みたいなのに」
「俺、姐さんのためなら死ねる」
「死ぬ前に皿は片づけといてよ」
テルマが即座に突っ込むと、食堂に笑いが起きた。
その空気の端で、ネイサだけが少し顔を曇らせる。
「でも、変ですよね。仕事の時、姐さんは顔を隠してるのに。どうしてここまで正確に描けるんですか」
笑いが、すっと引いた。
誰もが同じ疑問を抱いていた。
ビアンカの顔を知っている者は、限られている。孤児院、教会、群れの仲間、そして――過去に彼女を知る者。
「その話は後だ」
グルドが低く言った。
「主と姐さんは?」
「教会だ。昨夜の証拠をヨナスへ届けに行った」
テルマは手配書を折り畳み、胸元にしまった。
「……嫌な感じがする」
ネイサの呟きに、誰も笑わなかった。
◇◇◇
草の海のような高原を、幌馬車が進んでいた。
赤土の道の向こうに風車が回り、その奥の木立に小さな教会が見える。朝の光はやわらかく、遠くでは羊の鈴が鳴っていた。
「いい天気だな」
農夫の格好をしたロイドが手綱を握る。深くかぶった帽子と眼鏡で、黒狼の鋭い目元を隠していた。
その隣で、赤毛のかつらを頭巾から少し覗かせたビアンカが、彼の肩に頭を預けている。
「本当にいい風。もうすぐ夏が来る匂いがするわ」
「疲れてるなら、荷を運ぶのは俺一人でよかったのに」
ロイドが言うと、ビアンカは不満そうに鼻を鳴らした。
「いやよ。宿にいたら、こんなふうにロイに甘えられないもの」
「昨夜あれだけ甘えておいて、まだ足りないのか」
耳元に落とされた低い声に、ビアンカの首筋がほんのり赤くなる。
「そ、そういうのとは別なの。こういう、普通の夫婦みたいなのがいいのよ」
普通の夫婦。
その言葉に、ロイドの胸の奥がわずかに痛んだ。
彼らは夫婦であり、番だった。
けれど法の上では、獣人同士の結びつきなど、いつでも踏みにじれるものとして扱われる。ましてロイドはお尋ね者で、ビアンカもまた追われる身だ。
普通の未来など、今のこの国ではあまりにも遠い。
それでもビアンカは、そんな未来を口にする。
ロイドの隣で、当たり前のように。
「なあ、ヴィー」
「なに?」
「いつか、この仕事から離れたいと思うか」
ビアンカは視線を組んだ手に落とした。
「急にどうしたの」
「聞きたいだけだ」
馬車の車輪が、乾いた道を音を立てて進む。
ビアンカはしばらく考えてから、ロイドの腕に頬を寄せた。
「思わないわけじゃない。朝起きて、あなたとご飯を食べて、洗濯して、畑を見て、夜になったら同じ寝台で眠る。そういう暮らしを想像することはある」
ロイドは黙って聞いた。
「でも、私たちだけが安全な場所へ逃げても、子どもたちは貧しいままだわ。だから今は、まだ」
「……そう言うと思った」
「嫌だった?」
「いや」
ロイドは手綱を片手に持ち替え、空いた手でビアンカの腰を引き寄せた。
「そういうところが、俺の最愛の嫁さんだなって思っただけだ」
ビアンカは首筋まで赤くして照れた笑い浮かべ、彼の肩を軽く叩いた。
「そういう言い方、ずるい」
教会が近づくと、建物の前から尼僧が子どもたちを連れて出てきた。
ビアンカは大きく手を振る。
「マチルダ!」
年配の尼僧――マチルダは、ロイドの母だった。かつて貴族の屋敷で働いていた頃、母を失った幼いビアンカを引き取り、ロイドと共に育ててくれた人でもある。
馬車を降りると、ビアンカはマチルダと手を取り合った。
「この間来たときは、巡礼に出ていて会えなかったもの。二か月ぶりね」
「元気そうで安心したわ、ビアンカ」
マチルダは優しく微笑み、ビアンカの頬に挨拶の口づけを落とした。
ロイドが馬を繋ぎ終えて傍へとやって来る。
「母さんはいつもヴィーを大歓迎するよな」
「あなたは荷物をもってきて頂戴」
「母さん、息子の扱いが雑じゃないか」
「あなたは昔から丈夫だから多少雑でもいいのよ」
ビアンカが吹き出した。
教会の中へ入ると、司祭室では片腕のない男が書類に目を通していた。顔の真ん中には古い刀傷。片方の目は白く濁っている。
ヨナス。
今は司祭だが、ただの聖職者ではない。ロイドたちが集めた証拠を、国の在り方に不満を持つ貴族や教会、国外の支援者へ繋ぐ窓口だった。
「久しぶりだな、ビアンカ」
「元気だった? 巡礼の旅、船に酔わなかった?」
ビアンカが近づいて抱きしめると、ヨナスは穏やかに笑った。
その頬へ挨拶をしようとした瞬間、ロイドが彼女の腰をさらうように引き戻す。
「近い」
「相変わらず心が狭いな、黒狼王」
「その名で呼ぶな。俺のヴィーに触るな」
「はいはい」
ヨナスは肩をすくめた。
マチルダが心配そうに荷を見やる。
「来るたびに、荷が増えるわね。危なくないの?」
「それだけ不正が明るみになってるってことだ」
ロイドは袋を机に置いた。
中には、昨夜持ち出した帳簿と名簿が入っている。
ヨナスは一枚目を見た瞬間、表情を消した。
「……保安官事務所に引き取られた子どもたちか」
「三か月で十二人。記録上は保護。だが、その後がない」
ビアンカが静かに言う。
「書類に、例の手配書と同じ香水の匂いが残っていたわ」
ヨナスは目を細めた。
「やはり、あの保安官は危ない」
ロイドの視線が鋭くなる。
「知っているのか」
「噂だけだ。だが、あの目はまともな人間のものじゃない。正義の言葉を使って、自分の欲を隠す類の男だ」
ロイドは低く息を吐いた。
「ビアンカの手配書が出回っている。顔が正確すぎる」
その一言で、司祭室の空気が沈んだ。
マチルダが胸元で手を握る。
「ビアンカ……」
「大丈夫よ、マチルダ」
ビアンカはすぐに笑った。
その笑顔が、心配させまいとして作られたものだと、ロイドにはわかる。
「子どもたちにお土産を持ってきたの。一緒に配ってくれる?」
ビアンカはマチルダの手を取り、部屋の空気を変えるように明るく言った。
マチルダは迷ったようにロイドを見たが、やがて頷く。
「ええ、行きましょう」
二人が出て行くと、扉が静かに閉まった。
ヨナスは机の上の書類を見つめたまま、低く言った。
「ロイド。おまえは、どこまでやるつもりだ」
「子どもたちを取り戻す。ジェラルドの背後にいる貴族も暴く」
「それはいい。だが、あの男の本当の狙いは、たぶん子どもではない」
ロイドは返事をしなかった。
わかっていた。
ビアンカの手配書。異常な報奨金。ただの保安官が、彼女の絵姿を町中へ貼るのは何故か。
「奴は、ビアンカを知ってる」
ヨナスの声が重く落ちた。
「黒狼王を捕まえるための餌としてではなく、一人の女としてな」
ロイドの指が、机の縁を軋ませる。
「ロイド」
「わかってる」
「本当にわかっているか? 守りたいなら、ビアンカを遠ざけることも考えろ」
その言葉に、ロイドは低く笑った。
「それを言ったら、あいつは俺に戦いを挑むよ、きっと」
「だろうな」
ヨナスは苦く笑った。
「ビアンカは強い。だが、強い女だからって傷つかないわけじゃない」
ロイドは窓の外へ目を向けた。
礼拝堂の方から、子どもたちの歓声が聞こえる。ビアンカの明るい声も混じっていた。
「……知ってる」
その声は、ひどく静かだった。
「だから、こんな国のままではダメなんだよ」
ヨナスは何も言わなかった。
◇◇◇
礼拝堂には、色とりどりの光が落ちていた。
ステンドグラスの下で、子どもたちがビアンカの周りに集まっている。小さな手が彼女の袖を引き、誰かが菓子袋を覗き込み、別の子が花籠を抱えて走っている。
「順番よ。みんなにあるから」
ビアンカは笑いながら、ひとりひとりに菓子を渡した。
その奥で、大きなお腹を抱えた尼僧ミルバが立ち上がろうとしている。
「ミルバ、無理しないで」
ビアンカは慌てて駆け寄った。
「平気よ。最近、この子がよく動くの」
ミルバはそう言って、ビアンカの手を自分のお腹に当てた。
掌の下で、小さな命がぽこりと動く。
ビアンカの目が見開かれる。
「わ、すごい」
「ふふ。元気でしょう?」
ミルバが笑う。
ビアンカは、大きなお腹に手を触れながら、しばらく言葉を失っていた。
温かい。
こんなにも小さくて、こんなにも確かな未来が、ここにある。
「ビアンカも、いつかこうなるわよ」
ミルバがからかうように言うと、マチルダがやんわりと止めた。
「子どもは授かりものよ。急かすものではないわ」
「わかってますよ。でも、ビアンカとロイドの子なら、きっと可愛いでしょう?」
ビアンカの耳が赤くなる。
「も、もう。そういう話は……」
困ったように笑いながらも、その顔には少しだけ柔らかい夢が浮かんでいた。
その様子を、礼拝堂の入口からロイドが見ていた。
ビアンカは気づくと、照れ隠しのように笑って手を振る。
ロイドも小さく手を上げた。
この時間だけは、まるで普通の夫婦のようだった。
奪う者も、狩る者も、手配書もない。
ただ、愛する女が子どもたちに囲まれて笑っている。
それだけで、胸が満たされる。
けれど、その穏やかさの外側では、すでに罠が口を開けていた。
夕暮れ。
教会の裏手で、役人が新しい手配書を壁に貼っていた。
白銀狼の女。
報奨金は、前よりもさらに跳ね上がっている。
その紙の隅には、保安官ジェラルド・ワトキンの印が押されていた。
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