第2話 黒牙の群れ
月のない夜だった。
国境の町ユリベルは、昼間の顔をすっかり脱ぎ捨てていた。石畳の道には人気がなく、商店の看板は風に揺れ、遠くの見張り塔だけが薄い灯りを吐いている。
町役人ダリオの屋敷は、通りの奥にあった。
表向きは質素な二階建て。けれど塀の上には新しい鉄条が張られ、窓枠は内側から金具で補強されている。金を隠している家ほど、貧しさを装うのがうまい。
「……庭に犬が一匹。書斎に一人。それ以外の家人は寝入っているわ」
塀の影で、ビアンカが囁いた。
白銀の耳が、夜気の中でかすかに動く。頭からかぶった黒いフードの奥で、青い瞳だけが静かに光っていた。
ロイドは頷いた。
「家人に手は出すな。いつも通りだ」
「わかってる。うちの掟を忘れるほど、耄碌はしてねえよ」
そう返したのは、古参のグルドだった。片目を傷で潰した灰色狼の獣人で、軽口を叩いてはいるが、指先はすでに短剣の柄に触れている。
ビアンカは塀に指を添え、合図を切った。
右、屋根。
左、裏口。
二拍置いて、撤収路。
暗がりに溶けていた影が、ひとつ、ふたつと散っていく。テルマが屋根へ上がり、ネイサが裏庭へ滑り込む。入りたての若手が路地の奥で見張りについた。
誰も声を上げない。
ロイドが率いる『黒牙の群れ』は、強盗団として指名手配されている。
けれど彼らが襲うのは、貧しい者から搾り取った金を隠す役人や、獣人を使役として安く買い叩く商人、孤児院の修繕費に手をつける貴族だけだった。
ロイドは手を挙げた。
「行け」
最初に塀を越えたのは、ビアンカだった。
細い身体が夜に溶ける。着地の音はほとんどない。庭の隅にいた番犬が低く唸ったが、ビアンカが喉の奥で小さく鳴らすと、犬は戸惑うように鼻を鳴らした。
「いい子ね。今夜は何も見なかったことにして」
柵越しに差し出した手の匂いを嗅ぎ、犬はやがて眠気に負けたように伏せた。
塀の上からそれを見ていたロイドの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
ビアンカは、いつだって自分の半歩先に立とうとする。
罠の匂いを先に嗅ぎ、銃声の方向を先に読む。ロイドが守りたいと思うより早く、彼女は彼の前に立っている。
だからこそ、怖い。
誰よりも強い女だからこそ、自分の手を擦りぬけてどこかへ行ってしまいそうで不安になる。
「主」
グルドの低い声で、ロイドは意識を戻した。
ネイサが裏口の鍵を外す。細い金具が二度ほど震え、扉は音もなく開いた。
屋敷の中は、紙とインクと古い香木の匂いがした。金を隠している家特有の、甘く湿った空気。
一階の書斎の前で、ビアンカが足を止める。
「中に一人。起きてる。机に向かってるわ。彼よ」
ロイドは指を二本立てた。待機。
ビアンカが小瓶を取り出し、扉の下から細い煙を流し込む。数秒後、部屋の中で椅子が軋み、何か重いものが机に倒れ込む音がした。
扉を開けると、役人ダリオが帳簿を開いたまま眠っていた。指先にはインク。机の上には、税の記録と、裏帳簿が無造作に置かれている。
「寝つきがよくて助かるわね」
テルマが小声で呟く。
「口も閉じていれば、なおいい子なんだけど」
ネイサが返すと、二人は声を殺して笑った。
ロイドは手で制した。
「無駄口は後だ。探せ」
群れが静かに動き始める。
引き出し、床板、本棚、絵画の裏。金を隠す人間の考えることは、たいてい似ている。だが、この家にはそれ以上の気配があった。
ビアンカが本棚の前で止まる。
「……ここ」
「金か?」
ロイドが近づく。
「金属の匂い。それと、甘い香水」
「女か?」
「そういう匂いじゃないわ。もっと高い。そう、貴族が使うような……」
ビアンカは眉を寄せた。
「どこかで嗅いだ気がするの」
ロイドの表情がわずかに硬くなる。
「無理に思い出すな」
「平気よ」
そう言って、ビアンカは棚の縁に指を這わせた。板の継ぎ目。埃の薄さ。日常的に動かされている痕。
ロイドが手を差し入れ、仕掛けを探る。
二度、三度。
やがて内側で金具の外れる音がした。本棚全体が、ひと息分だけ横へ滑る。
奥に、地下へ続く狭い階段が現れた。
若手が息を飲みかけ、グルドに肩を叩かれて黙る。
ロイドはビアンカを見る。
「行けるか」
「もちろんよ」
迷いのない返事だった。
階段を下りると、石壁の小部屋に出た。中央には大きな金庫。床は乾いており、湿気はない。つまり、ここは放置された隠し部屋ではない。
使われている。
ロイドが金庫に手を置く。
「ビアンカ。耳を貸して」
ビアンカは分厚い鉄扉に耳を寄せた。
ロイドがダイヤルを回す。右へ、左へ。かすかな歯車の音を、ビアンカは腕に置いた指で伝える。
止めて。
少し戻して。
そこ。
――ガチン。
重たい扉が、息を吐くように開いた。
中には硬貨袋、紙幣の束、管理印のついた封筒。弱い者から集めた金が、ここでぬくぬく眠っていた。
後ろからついて来たテルマが、封筒を一つ開き、低く唸る。
「これ、孤児院の修繕費って名目だ」
ネイサが帳簿を覗き込む。
「ここ。いつもの孤児院よ。修繕なんてされてないわ。雨漏りも、壊れた寝台も、そのままだもの」
「わかってるだろうが、金は着服分だけだ」
ロイドが言う。
「必要以上は取るな。証拠はヨナスへ回す」
それが、『黒牙の群れ』の掟だった。
命は奪わない。
家人には手を出さない。
奪うのは、奪われた分だけ。
証拠は必ず、表へ出す。
義賊。
町では多くの人たちが、彼らをそう呼んでいる。
だがロイドは、その呼び名を好まなかった。どれほど理屈をつけても、夜に忍び込み、金を奪っている事実は変わらない。
ただ、それでも。
何もしなければ、貧しい子どもたちは冬を越せない。
彼らを守るために尼僧たちは食事を削り、獣人は罪を着せられ、金を払えない者から順に消えていく。
法が人を救わないなら、闇から手を伸ばすしかない。
「主」
ネイサが一枚の紙を差し出した。
「妙な記録。保安官事務所へ“保護”された子どもの名簿。けでも、引き取り先が空欄なの」
ロイドの目が細くなる。
「何人だ」
「この三か月で、十二人」
部屋の空気が変わった。
ビアンカが紙に鼻を寄せる。甘い香水の匂いが、わずかに残っていた。
「この香り……手配書の紙からもしたわ」
ロイドの肩が、ぴくりと動く。
「ジェラルドか」
新任の保安官。
正義の顔をして、獣人を害獣と呼ぶ男。町へ来てから手配書の数を増やし、特にビアンカの絵姿だけを異様に美しく描かせた男。
ビアンカは、口元を引き結んだ。
「ロイド」
「わかってる」
ロイドは書類を受け取り、袋に入れた。
「今夜はここまでだ。長居はしない」
その時、上階から低く喉を鳴らす音が聞こえた。
グルドの合図。
巡回が近い。
ロイドは素早く金庫を閉じ、隠し棚を戻した。埃の位置まで整え、眠っている役人の手元には小さな木彫りの狼を置く。
”自分の汚れは、自分で拭け”
そう彫られた札を添えて。
「撤収」
静かな号令で、群れは一斉に動いた。
窓から、裏口から、屋根から。影が夜へ散っていく。
最後に外へ出たビアンカの手を、ロイドが掴んだ。二人は塀を越え、町を囲む森へ向かって駆ける。
雲間から月が覗いた。
白銀の髪が、一瞬だけ光る。
ロイドはその横顔を見た。走っている時のビアンカは、いつも少し笑っている。危険の中でさえ、生きていることを確かめるように。
「ねえ、ロイド」
「なんだ」
「さっきの香り。やっぱり、知ってる気がする」
「つまらないものは、思い出さなくていい」
「でも、必要なことかもしれないわ」
ロイドは答えなかった。
代わりに、彼女の手を少し強く握った。
その手が、いつか自分の中からすり抜けていくような予感がして。
ビアンカは不思議そうにロイドを見上げ、それから小さく笑った。
「大丈夫よ。私の隣にはいつだってあなたがいるもの」
その言葉は、ただの慰めではなかった。
誓いだった。
ロイドは喉の奥で低く唸るように笑い、彼女の額に唇を落とした。
「……ああ、そのとおりだ」
森の奥で、仲間たちの遠吠えが短く響く。
任務完了の合図。
けれど、その夜持ち帰った名簿が、すべてを変えることになる。
保安官事務所へ保護されたはずの子どもたち。
消えた十二人。
そして、書類に染みついていた甘い香水。
その匂いは、やがてビアンカの最も古い傷へと繋がっていく。
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