第1話 花嫁はもう、俺を知らない
※連載作「獣の王は花嫁にもう一度恋をする」の構成を変更し、再UPしました。※
「……ヴィー」
その名を呼んだ瞬間、ロイド・ウォルフガングは、自分の声がひどく掠れていることに気づいた。
隣国ケルナス共和国の国境に近い村の広場に、旅芸人一座の色鮮やかな幟が風にはためいていた。
その傍の若草の広場では、火を吹く踊り子、玉に乗る猫獣人、それを眺め笑い声を上げる子どもたち。
テントの前では、一座の呼び込みが、明日から始まる祭りでの見ものを声高に村人たちに宣伝している。
そこは平和そのものに見えた。
その喧騒の端に、彼女はいた。
車椅子に座る、白銀の髪の女。
膝に薄い毛布をかけ、手には小さな花飾りを持っている。頬は以前よりも少し痩せ、腰のあたりにあるはずの尾は見えなかった。それでも、伏せられた長い睫毛も、陽を受けると淡く透ける白銀の髪も、湖面のような青い瞳も――ロイドが命より大事にしていた女、そのものだった。
死んだはずの花嫁。
二年前、血と銃声と崖下の濁流に奪われた、唯一の番。
その姿はまるで周囲から切り離されたように、ロイドの目に浮き立って入ってきた。周囲の喧騒がすべて消える。
「ビアンカ……」
彼は、もう一度その名を呼んだ。
女が顔を上げる。
その瞳がロイドを映した瞬間、彼の胸の奥で、凍りついていたものが一気に砕けた。
生きている。
彼女は生きて、目の前にいる。
けれど次の瞬間、ロイドの足は動かなくなった。
彼女は、彼を見て不思議そうに首を傾げていた。
懐かしさも、驚きも、怒りも、涙もない。かつて自分を見るたびに柔らかくほどけていた瞳が、今は見知らぬ旅人を見る目をしている。
「……あの、私に声をかけてますか?」
丁寧で、怯えを含んだ声だった。
その姿にロイドは息を忘れた。
背後から、若い男が駆け寄ってくる。黒髪の人間の男。腰には細い投げナイフをいくつも提げていた。
「シルビア、大丈夫か?」
男は自然な仕草で車椅子の持ち手に触れ、彼女の前に立つようにロイドを遮った。
シルビア。
その名が、ロイドの耳にひどく遠く響いた。
――ビアンカ?
彼女は今、別の名で呼ばれ、その名を呼んだ男を柔らかく見つめていた。
「この人、私を知っているみたいなの」
シルビアは困ったように隣に立つ男に微笑んだ。
その微笑みに、ロイドは胸を抉られた。忘れられていることよりも、彼女が無事に笑っていることに安堵してしまう自分が、どうしようもなく惨めだった。
目の前の女は確かにビアンカだ。自分の全身がそう告げている。
――生きていてくれた。
それだけで、奇跡だった。
だが同時に、彼は理解した。
彼女から奪れたもの。
記憶も、名前も、尾も、自分と過ごした時間さえも、あの崖の下へ沈んでしまったのだ。
ロイドは震える指を握り込み、唇の内側を噛んだ。
彼女を抱きしめて、名前を呼んで、すべてを取り戻したい。
けれど、目の前の彼女は怯えている。
自分を知らない女にとって、ロイドはただの黒い獣人の男でしかない。
「……人違いだ。すまなかったな」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
シルビアの瞳が、わずかに揺れる。
彼女はロイドを見て、胸に手を当てると、すっと視線をそらした。何かを思い出したわけではない。ただ、そこに痛みが走ったように。
それを庇うように横に立つ男が彼女の耳元に顔を寄せ、何かを呟いた。
ロイドは、それ以上見ていられなかった。
踵を返す。
背中に、彼女の視線が触れている気がした。
――二年前。
彼女がまだビアンカと呼ばれ、ロイドの隣で笑っていた頃。
二人を引き裂く始まりは、町中にばらまかれた手配書だった。
◇◇◇
手配書の紙は、いつも獣人の顔を醜く描く。
牙をむき、目を吊り上げ、毛並みを汚して――人間に害をなすものとして、誰の良心も痛ませないために。
けれど、その一枚だけは違った。
白銀狼の女。小さな耳。艶やかな尾。口元にだけ残された、かすかな笑み。
保安官ジェラルド・ワトキンは、その絵姿を指先でなぞり、薄く息を吐いた。
「……美しいな」
国境の町に赴任したばかりの新任保安官は、正義の顔をして町を支配していた。
獣人が罪を疑われれば、証拠はいらない。噂が証拠になり、偏見が判決になる。人間と獣人は共に暮らしている。だが、その秤は最初から傾いていた。
ジェラルドは、その歪みを誰より上手に使った。
彼の狙いは、狼獣人の義賊団――『黒牙の群れ』。
首領は、黒狼獣人ロイド・ウォルフガング。腐った貴族や悪徳商人の不正を暴き、奪われた金を教会や孤児たちへ流す男。貧しい者たちは彼を“黒狼王”と呼び、恐れるよりも先に祈るような目で見た。
それが、ジェラルドには許せなかった。
かつて彼の家門は、『黒牙の群れ』によって悪事を暴かれ没落した。富も、名も、屋敷も、すべてを黒狼王によって奪われた。
だから、取り返す。
奪われたものの代わりに、あの王から最も大事なものを奪う。
手配書の女――ビアンカ。
ロイドの番であり、『黒牙の群れ』の右腕。罠の匂いを先に嗅ぎ、銃声の方向を先に読む女。強盗団が動く時、必ず半歩前に出る白銀の狼。
そして、同じ群れの仲間にも隙を見せない黒狼王が、唯一心を許す花嫁。
ロイドは狡猾で、慎重で、民に慕われている。正面から追っても捕まりはしない。
だから、女だ。
「獣の王様は、飾られた花嫁の姿を見たら、どんな顔をするだろうな」
笑みを浮かべるジェラルドの背後には、薄暗い書斎が広がっていた。
その壁に並ぶのは、獣人の剥製。
美しく整えられ、飾られ、命だけを抜き取られたものたち。
その中央に、まだ空いている場所がある。
ジェラルドはビアンカの手配書をそこへかざし、満足げに目を細めた。
「おいで、白銀の花嫁。君はきっと、誰より美しく飾られる」
その頃、ロイドはまだ知らなかった。
愛する女を守るために築こうとした未来が、まもなく血に濡れることを。
そして二年後、彼女が自分の名を忘れたまま、もう一度目の前に現れることを。
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