第23話 花嫁のいない革命①
山荘が見えた時、ロイドは足を止めた。
森を抜けた先。
朝焼けに照らされた建物から、黒い煙が立ち上っている。
窓は割れ、正面の扉は片方が外れかけていた。庭を囲んでいた柵もなぎ倒され、地面には幾筋もの馬車の轍が刻まれている。
「逃げられたか?」
グルドの声が低く落ちる。
ロイドは答えず、山荘へ向かって駆け出した。
庭には倒れた男たちがいた。
ジェラルドの手下だろう。
後ろへ回り込んだ王国軍に抵抗したのか、剣を握ったまま息絶えている者もいれば、腹を押さえて呻いている者もいる。
だが、ロイドは誰にも目を向けず、鼻を上げ匂いを探す。
血。
火薬。
馬の汗。
そして、その中に混じる白銀狼の匂い。
「ヴィー」
山荘の裏手へ走る。
壊れた山荘の扉に、乾きかけた血がこびりつき、白銀の毛が何本も絡みついていた。
まだ、匂いが残っている。
ビアンカはここにいたのだ。間違いない。
「姐さん!」
テルマが叫びながら駆け寄ってくる。
「姐さん! どこですか!」
返事はない。ミゲルとグルドが山荘の周囲へ散り、捜索を始める。
ロイドは地面を見つめた。
馬車の轍に沿って、血の跡が続いている。
血痕はところどころで途切れながらも、崖の縁まで続いていた。
ロイドは、ゆっくりと崖へ近づいた。
遥か下で、激しい川の流れが白い飛沫を上げている。
岩肌には折れた枝と、何かが滑り落ちた跡。
崖下へ続く血。
「……嘘だ」
ロイドの後を追ってきたテルマの声が震えた。
「姐さんが、こんなところから落ちるわけ……」
ロイドは崖の縁に膝をついた。
鼻を動かす。
ビアンカの匂いは、ここで途切れていた。
血の匂いは濃いが、死の匂いはしない。
ロイドが呟いた。
「ヴィーは、生きてる」
祈りでも願いでもない。
自分に言い聞かせるための言葉でもない。
そうでなければならなかった。
そうでなければ、ロイドという獣は、今ここで崩れ落ちてしまう。
その時、山荘の正面から怒号が上がった。
「離せ! 私を誰だと思っている!」
ジェラルドの声だった。
ロイドの耳が動く。
次の瞬間、彼の姿は崖の縁から消えていた。
山荘の前では、数人の兵が一人の男を地面へ押さえつけていた。
ジェラルド・ワトキン。
上等な外套は泥にまみれ、頬には殴られた痕がある。それでも、その口元には人を見下す笑みが残っていた。
「私は保安官だぞ! この地域の治安を預かる人間だ!」
「その権限は、今をもって停止された」
グレイン隊長が冷たく言い放つ。
「人身売買、殺人、誘拐、証拠隠滅、王国軍への虚偽通報。加えて、王家転覆を企てた反逆扇動の容疑で拘束する」
「馬鹿な!」
ジェラルドは顔を上げた。
「反逆者はそこの獣どもだ! 私は王太子殿下の命令に従った実直な保安官だ!」
「その王太子殿下から、おまえを掴まえるように命令が出ている」
グレイン隊長が、先ほどの書簡を突きつける。
ジェラルドの顔から、初めて余裕が消えた。
「……なんだと」
「封蝋も署名も本物だ」
「そんなはずはない。殿下には私が必要なのだ。そんなものは――」
「おまえは切り捨てられたんだよ」
グレイン隊長の言葉に、ジェラルドの唇が引きつった。
その様子を、ロイドは少し離れた場所から見ていた。
ロイドの視線は、喚いているジェラルドの腰に向けられていた。
革紐で結ばれた、白銀の毛束。
おびただしい血がつき、泥に汚れている。
しかし、その長く艶やかな毛をロイドが見間違えるはずがない。
「それは、なんだ」
ロイドの低く唸るような声に、周囲が静まり返った。
ジェラルドは一瞬だけ目を伏せ、それから口元を嬉しげに歪めた。
「戦利品だ」
周囲の空気が凍りつく。
「実に美しい女だった」
ジェラルドは、わざとゆっくりと言った。
「最後は、俺の女になるから許してくれと泣いて縋っていたよ、黒狼王」
テルマが叫んだ。
「こいつ、殺す!」
短剣を抜き、ジェラルドへ飛びかかろうとする。
だが、それよりも早く、黒い影が動いていた。
兵たちが吹き飛ばされる。
次の瞬間には、ロイドがジェラルドの喉を掴み、地面へ叩きつけていた。
鈍い音が響く。
ジェラルドの後頭部が土にめり込む。
「主!」
グルドが叫ぶ。
ロイドには聞こえていなかった。
金色の瞳が細くなる。
口元から牙が覗き、指先の爪がジェラルドの皮膚へ食い込む。
「どこだ」
「な、にが……」
「ビアンカはどこだ」
ジェラルドの顔から血の気が引く。
それでも、恐怖を隠すように笑った。
「崖の……下だ」
ジェラルドの喉に、ロイドの爪が深く沈んだ。
「ひどく……喚くから……尾を切り取って崖下に捨てた」
「黙れ」
「哀れだったぞ。尾を切られ、血まみれになって、泣いて縋って――」
ロイドの拳が、ジェラルドの顔へ落ちた。
骨の砕ける音がした。
あまりの壮絶さに、周囲の兵たちは止められなかった。
息のあるジェラルドの手下たちは、兵に縛られながらその様子に震えている。
ロイドの手が、ジェラルドの首を締め上げた。
あと少し力を込めれば、骨が折れる。
その時だった。
「その手を、そんな奴の血で濡らすんじゃない」
落ち着いた声が響いた。
ロイドの耳が、かすかに動いた。
ロベルト・ハネイグ侯爵が自兵を引き連れ、森から現れた。
ロベルトは馬を下りるとゆっくりと歩み寄った。
「離せ、ロイド」
返事はない。
「今ここで殺したら、そいつ一人の罪で終わる」
ロベルトは、ロイドに組み敷かれているジェラルドを見下ろした。
「そいつには、背後にいる者をすべて吐かせる。子どもを売った貴族も、獣人の剥製を買った者も、王宮から命令を出した者も、全員だ」
ロイドの指は緩まない。
「公の場で裁く」
ロベルトの声が強くなった。
「獣人を殺しても、罪に問われないと思っていた連中の前で。今まで害獣と呼ばれてきた者たちが見ている前で、こいつの罪を一つ残らず読み上げる」
テルマが歯を剥いた。
「姐さんがひどいめにあったのに、私たちには仇も取れないの? 生かしておくなんて甘いわよ」
「甘くはない」
ロベルトは、ロイドから視線をそらさずそう言った。
「私刑なら、連中はこいつを殉教者にする。獣人の暴徒に殺された忠臣だと、好きなように話を作るだろう」
「だからって!」
「こいつの死だけで満足するな」
ロベルトは、静かにロイドの肩に手を置いた。
「ビアンカが命を懸けて持ち出した証拠を、証拠として日の目を見せなきゃならん」
テルマの顔が歪んだ。
「姐さんは……」
声が続かない。
「姐さんは、こんな奴に……」
グルドが拳を握り締める。
「言ってることはわかる。でもな、姐さんは、俺たちの家族だ。大事な家族なんだ」
呻くような低い声だった。
「綺麗ごとで、俺たちの気持ちがおさまるわけないだろ!」
「納得する必要はない」
ロベルトは、ロイドの肩に手を置いたまま話し続けた。
「憎めばいい。殺したいと思えばいい。だが、今は耐えろ。そいつ一人を殺すより、そいつを生かして口を割らせた方が、多くの敵を道連れにできる」
そして、ロイドを見た。
「ロイド。おまえが決めろ」
返事はない。
まるで時が止まったかのように、誰も動かなかった。
風が吹き、ジェラルドの腰から下がった白銀の毛を揺らした。
ロイドはそれを見つめた。
いつも機嫌よく自分の足へ絡みついてきた、美しい尾。
眠る時には腰に巻きつき、喧嘩をすれば苛立ったように床を叩いた。
遠吠えの最中に首筋へ口づければ、恥ずかしそうに膨らんだ。
その尾を。
この男が切った。
本当なら、今すぐ喉笛を噛み切りたい。
身体を裂き、骨を砕き、ビアンカが受けた苦しみを何倍にもして返したい。
だが。
ロイドの中から、何もかもが抜け落ちていく。
ジェラルドを今殺しても、ビアンカは喜ばない。
ビアンカの望みは……失われた者たちの名を取り戻すことだ。
そして、2人で幸せに笑い合える未来を……
ロイドは、ジェラルドの首から手を離した。
立ち上がる。
誰の顔も見ない。
ロベルトの言葉に納得したわけではない。
公の裁きを信じたわけでもない。
ただ、もうどうでもよくなった。
ジェラルドが生きようと死のうと、ロイドの世界にビアンカが戻りさえすればいい。
「主……」
ミゲルが呼びかける。
ロイドは腰から短剣を抜いた。
グレイン隊長の兵たちが身構える。
だが、ロイドはその刃でジェラルドの腰に結ばれた革紐を切った。
白銀の尾が地面へ落ちる前に、両手で受け止める。
「連れていけ」
ロイドの喉から出たのは、ひどく掠れた声だった。
グレイン隊長が兵たちに合図を送る。
引き起こされたジェラルドが口の中の血を吐き出しながら喚く。
「なあ、黒狼王! おまえの女の最期を知りたいだろう!」
ロイドは振り返らなかった。
「おい! あの女がどんな顔で落ちていったか教えてやる!」
テルマが再び飛び出そうとする。
グルドがその身体を抱え込んだ。
「放して! 殺してやる! 今すぐ殺してやる!」
テルマの泣き叫ぶ声が、山に響いた。
ロイドは白銀の尾を胸に抱いたまま、崖へ向かった。
誰にも止められなかった。
◇◇◇
崖下の捜索は、すぐに始められた。
王国軍。
黒牙の群れ。
教会の者たち。
近隣の村人。
人も獣人も関係なく、川沿いを歩いた。
折れた枝。
岩に残った血。
馬車の破片。
ビアンカの衣服の切れ端。
それらはいくつも見つかった。
だが、彼女の姿は見つからなかった。
川は山を下り、いくつもの支流へ分かれていた。
前日に降った雨で水量が増え、流れは普段よりも速い。
下流の村へも知らせが出された。
湖の漁師たちにも声がかかった。
隣国との境にある関所にも人相書きが送られた。
一日。三日。七日。十日。
どれだけ探しても、ビアンカの行方は知れなかった。
遺体が見つからないということは、生きている可能性がある。
誰もが、そう言った。
ロイドも、そう言い続けた。
だが、日が経つほど、仲間たちの声から力が失われていった。
一月が過ぎても、手がかりはなかった。
それでもロイドだけは、捜索をやめなかった。
昼は証言を求めて村を回り、夜は川沿いを歩いた。
知らない土地に白銀狼の女が現れなかったか。
重傷を負った獣人を誰かが助けなかったか。
どこかの治療院に運び込まれていないか。
何度も同じ場所を訪ね、何度も同じ問いを繰り返した。
食事を忘れた。
眠ることも忘れた。
仲間が止めれば、何も言わずに別の道へ向かった。
怒鳴ることもない。
苛立つこともない。
ただ、ビアンカを探した。
その姿は、生きているというより、ひとつの命令に従って動き続ける人形のようだった。




