第22話 花嫁の残した道
森が震えていた。
朝焼けはまだ山の端にかかったばかりだった。
夜の名残を含んだ霧が木々の間を這い、濡れた草の先には赤い光が滲んでいる。
その中を、黒い影が駆けていた。
ロイド・ウォルフガングは、ほとんど獣そのものの速さで山道を駆け上がっていた。
背後からグルド、ミゲル、テルマたちが追ってくる。
誰も声をかけない。
かけられなかった。
ロイドの背中から立ち上るものは、怒りなどという生易しいものではなかった。
殺意。
焦燥。
恐怖。
祈り。
それらすべてが混じり合い、黒狼の身体を前へ前へと駆り立てている。
「主!」
ミゲルの声が飛んだ。
ロイドは止まらない。
「主、待ってください!」
「黙れ」
短い声だった。
振り返りもしない。
ミゲルは言葉を呑み、隣を走るグルドを見た。
グルドも顔を歪めている。
長く群れを支えてきた古参の男でさえ、今のロイドに不用意な言葉を投げることはできなかった。
ビアンカの血の匂いがしていた。
山道のところどころに、白銀の毛が落ちている。
枝に引っかかった布切れ。
踏み荒らされた土。
馬車の車輪跡。
鉄具を引きずったような細い傷。
そのすべてが、ロイドの胸を内側から裂いていく。
――ヴィー。
名を呼びたい。
けれど、口にした瞬間、何かが壊れそうだった。
ビアンカは強い。
誰よりも強い。
危険を嗅ぎ分け、罠の匂いを先に拾い、いつも自分の半歩前へ出る。
ロイドが守ろうとするより早く、俺を守るために動く女。
だからこそ、怖かった。
いつか、その強さが彼女自身を遠くへ連れていくのではないかと。
「ヴィー……」
ようやく漏れた声は、掠れていた。
その時だった。
前方の木立の陰から、一頭の馬が姿を現した。
鞍はない。
腹帯は半ば千切れ、身体のあちこちに擦り傷がある。
怯えきった馬は、ロイドの気配にびくりと身を震わせた。
ロイドは一瞬で足を止めた。
馬の首筋に、ビアンカの匂いが残っていた。
濃い。
近い。
「……あの馬」
テルマが息を呑む。
「山荘の荷馬車に繋がれていたやつだ」
ロイドは馬へ近づいた。
馬は逃げようとしたが、ロイドが低く喉を鳴らすと、怯えながらも足を止める。
「大丈夫だ」
ロイドは、震える馬の鼻先に手を置いた。
「おまえも、巻き込まれただけだな」
そう言いながらも、その声は震えていた。
馬の腹帯に、何かが挟み込まれている。
革筒だった。
狩猟用の地図や許可証を入れるための、硬い革筒。
蓋の端には、白銀の毛が数本絡んでいた。
ロイドの指が止まる。
「ビアンカの……」
テルマが口を押さえた。
ロイドは革筒を掴み、蓋を開けた。
中には、血で端が湿った書簡が何枚も入っていた。
ロイドは一枚目を開く。
――地下室の品を焼却せよ。
――保護対象の残りは早急に処分。
――黒狼王を反逆者として立てよ。
――白銀狼は、可能な限り完全な形で確保。
その下には、見慣れた印があった。
ラドクリフ公爵家。
さらにもう一枚。
王都の封蝋が割られた書簡。
そこには、冷たい筆跡で短く記されていた。
――ジェラルド・ワトキンの行動は、王太子殿下の御意志とは無関係である。
――事態収拾のため、同人を反逆扇動者として処理せよ。
――必要であれば、現場判断による拘束または処分を認める。
送り先は、王国軍の軍中枢宛て。
「切り捨てたのか」
グルドが低く言った。
「王太子が、ジェラルドを」
テルマが唇を歪める。
「最悪。自分たちで使っておいて、都合が悪くなったら全部あいつ一人に押しつける気?」
「だが、これがあれば」
ミゲルが息を呑んだ。
「軍を止められます。黒牙の群れを反逆者にする命令そのものが、証拠になる」
ロイドは返事をしなかった。
彼の視線は、書簡の最後に向けられている。
書簡の裏にビアンカの字があった。
血で滲み、途中で途切れている。
――ロイ。怒らないで、私は
ロイドの呼吸が止まった。
世界から音が消えた。
木々のざわめきも、馬の荒い息も、仲間たちの声も、すべて遠のく。
ビアンカの字。
強がりで、優しくて、いつも最後に自分のことを後回しにする女の字。
「……ふざけるな」
低い声が落ちた。
「怒るに決まってるだろう」
紙を握る指に、力がこもる。
「勝手に行くなと、言ったじゃないか」
喉の奥から、獣のような音が漏れた。
「俺の隣にいると、言っただろう……!」
その時、山道の下から馬蹄の音が響いた。
一つではない。隊列だ。
ミゲルが顔を上げる。
「軍です」
「王国軍北辺境駐屯隊……数は二十ほど」
グルドが低く言った。
「主。ここでぶつかれば、本当に反逆者になる」
ロイドは答えない。
金色の瞳が、山道の向こうを睨んでいる。
やがて、霧の中から武装した一隊が姿を現した。
先頭の男は、王国軍の紋章を胸に刻んだ鎧を着ている。
年は四十前後。日焼けした顔に、深い皺。
腰には剣。背後には槍を持った兵たち。
男はロイドたちを見ると、馬を止めた。
「黒牙の群れか」
兵たちが一斉に槍を構える。
テルマが短剣に手をかけた。
グルドが腕で制する。
ロイドは動かない。
先頭の男が馬上から告げた。
「私は王国軍北辺境駐屯隊、隊長エルマー・グレイン。王都より命を受け、ユリベル保安官ジェラルド・ワトキンの身柄を押さえに来た」
「今さらか」
ロイドの声は、地を這うようだった。
兵たちの肩が揺れる。
グレイン隊長はロイドを見据えた。
「同時に、黒牙の群れが反逆を企てているとの通報も受けている」
空気が張り詰める。
ミゲルが息を詰めた。
ロイドは、ゆっくりと革筒から書簡を取り出した。
「なら、読め」
彼はそれをグレイン隊長へ投げた。
紙束が霧の中を飛び、隊長の胸元へ当たる。
グレインは眉を寄せ、書簡を開いた。
一枚。
また一枚。
読み進めるうちに、彼の顔色が変わっていく。
「……これは」
「王太子殿下の周辺が、獣人と子どもの売買を隠すためにジェラルドを使い、俺たちを反逆者に仕立てようとした証拠だ」
ロイドは言った。
「俺たちは反逆者じゃない。奪われた者を取り返してきただけだ」
グレイン隊長は沈黙した。
後ろの兵たちはざわめく。
王国軍とはいえ、その全員が貴族の犬ではない。地方の農家の次男、町の職人の息子、獣人と同じ井戸を使って育った者もいる。
書簡に記された言葉は、彼らにも重かった。
――保護対象の残りは早急に処分。
グレイン隊長は、書簡を閉じた。
「この証拠を、誰が持ち出した」
ロイドの目が揺れた。
「俺の花嫁だ」
短い答えだった。
それ以上、言葉にならなかった。
グレイン隊長は、ロイドの顔を見た。
怒りで壊れかけた獣の顔。
だが、その手の中には証拠がある。
反逆者なら、これを軍に渡すはずがない。
「……槍を下ろせ」
後ろの兵たちに手を上げ、隊長が命じた。
兵たちは戸惑いながらも槍を下ろす。
「我々の任務は、ジェラルド・ワトキンの拘束に変更する。黒牙の群れへの攻撃を禁ずる」
「隊長!」
副官らしき男が声を上げた。
「王太子派からの命令では――」
「王太子派からの命令であろうと、証拠隠滅と子どもの処分に加担する気はない」
グレイン隊長は鋭く言った。
「私は王家に仕えている。王太子個人の罪隠しに仕えているのではない」
その声に、兵たちは黙った。
ロイドは一歩進んだ。
「ジェラルドは山荘にいる」
グレイン隊長は頷く。
「案内しろ」
その言葉に、ロイドは山道の奥を見て、黙って先を進み始めた。
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