第21話 渓谷に消えた花嫁③
※毎週月曜日更新(予定)
◇◇◇
「逃がすな!撃ち殺してもいい!とにかく捕まえろ」
ジェラルドの叫びが背後から響く。
山荘の裏手は細い道だった。
左は岩壁。
右は低い柵。
その向こうは、黒い谷。
ビアンカは革筒を抱えて走った。
足が重い。
尾を失ったせいで、身体の均衡がいつもと違う。曲がるたびに感覚が狂う。痛みが背中から腰へ広がり、膝が笑う。
それでも、止まらなかった。
前方に吊り橋が見える。
古い作業用の橋だ。
向こう岸へ渡れば、森へ入れる。森へ入れば、少しは逃げられる。
だが、橋の手前でビアンカは足を止めた。
聞こえたのだ。遠吠えが。
ロイドの私を呼ぶ声。
橋の向こうに仲間がいる。まだ、遠いけれどこちらへと近づいている。
ビアンカの喉が鳴った。
それと同時に違う方向から兵の匂いもした。
油。
火薬。
新しい金属。
人間の汗。
ロイドを。黒狼の群れを反逆者にする為の罠。
失われた獣人たちの名前を取り戻すためには、この証拠を確実に仲間に渡さなくてはならない。
そして、彼らを反逆者にする罠から遠ざけなくてはならない。
ビアンカは目を閉じた。
ロイドの顔が浮かんだ。
朝、寝起きの自分の髪を撫でる手。
馬車の上で、遠吠えの途中に首筋へ口づけた意地悪な笑み。
地下室で震える自分の手を握ってくれた温かさ。
「一人で行くな」と言った低い声。
ごめんね、ロイ。
いつも身勝手な行動ばかりする女で。
でも、あなたを罠には渡さない。
橋のたもとに、来た時に乗せられてきたであろう馬車が止められていた。
馬の装具を外す。
背後からジェラルドが近づいてくる。
「そこまでだ、ビアンカ」
彼の息が荒い。
「書簡を返せ」
ビアンカは、馬を背にして振り返った。
「君は自分の立場がわかっていない。馬で逃げたところですぐに掴まる」
「わかっていないのは、どっちかしらね」
ビアンカは笑った。
唇が切れているせいで、笑うだけで痛い。
「いったでしょう。私は飾りになんかならないって」
ジェラルドの表情が歪む。
「この後に及んで強がりだな」
「そうかしら」
ビアンカは、馬の鼻面を吊り橋の方に向け、その耳元に囁いた。
「前だけを向いて走るのよ」
そして、馬の胴から緩めた腹帯で、その尻を強く叩いた。
馬ははじかれたように走り出し、吊り橋の方へと駆けていく。
不安定に繋がった荷馬車は、橋の入口の吊り縄に引っかかり、一瞬バタバタと馬の脚が空を掻いたが、すぐに馬具から抜け出し、橋の向こうへと姿を消した。
「おい!馬を追え」
男たちに指図をだす、ジェラルドの声が響く。
しかし、橋の入口は荷馬車が挟まり通れない。
男の一人が上に乗り、縄に絡まった荷馬車をどけようとし始めた瞬間、吊り橋の支柱は、鈍い音を立てて渓谷の方へと傾き始めた。
「うわぁぁ――」
男は、傾いた橋から壊れた荷馬車とともに、水しぶきを上げる渓谷へと姿を消した。
「まったく。おまえのような女が獣人であることが恨めしいよ」
ジェラルドが一歩踏み出す。
ビアンカは、渓谷を背にして、近くの木に寄りかかるようにして立っていた。
そして、細く長く遠吠えを発した。
『今、馬でそっちに向かっている。待っていて』
遠吠えを終える前に、銃声が響き、腰に熱を感じる。
銃を構えたジェラルドが歪んだ表情で近づいていた。
「耳障りで仕方がないんだよ。どうしようもない獣め」
熱を感じた部分に手を当てると、ぬるりと生暖かいものを感じた。
撃たれたのだ。
しかし、このままここで死ぬわけにはいかない。
ジェラルドにとって、自分はまだ必要だろう。
ロイドを呼ぶ餌として。
彼の歪んだ勝利の証として。
だからこそ。
渡さない。私自身を。
ビアンカはよろめく体を奮い立たせ、渓谷の方へと足を進めた。
「あんたはこれで終わりよ」
そう言うと、道の端からためらうことなく、その身を宙へと置いた。
「おい!待て――」
一瞬、世界が止まった。
山荘の灯り。
ジェラルドの歪んだ顔。
男たちの叫び。
渓谷から吹き上がる冷たい風。
そのすべてが、遠くなる。
白銀の髪がほどけ、夜の中へ広がる。
――ロイ
ロイドは、きっと怒るわね。
誰にも見られないところで、泣くかもしれない。
慰める私がいないから。
でも、彼は壊れたりはしない。
私の愛した唯一の王だから。
死ぬことよりも。
痛みよりも。
自分が飾られることよりも。
ロイドを一人にすることが、何より辛い。
――ロイ。ごめんね
唇だけが、彼の名を呼んだ。
濁流の音が近づいてくる。
あなたを守りたかった。
あなたが作ろうとしている未来を、守りたかった。
死者たちの名前を取り戻す火を、消したくなかった。
だから。
――どうか許して
次の瞬間、冷たい水が世界を呑み込んだ。
◇◇◇
渓谷の上に、長い沈黙が落ちた。
岩肌にぶつかりながら、水しぶきを上げる濁流の音だけが響いていた。
誰も、すぐには動けなかった。
ジェラルドは崖の縁に立ち、闇の底を見下ろしていた。
手袋の中の指が震えている。
怒りか。
恐怖か。
それとも、惜しさか。
自分でもわからなかった。
背後で部下の一人が言う。
「保安官殿……女は」
「黙れ」
低い声だった。
男は口を閉じた。
ジェラルドはゆっくりと振り返る。
「向こうの橋から回り込んで馬を探せ」
「は、はい」
「それから、白銀の尾を持ってこい」
誰も返事をしなかった。
ジェラルドは静かに、歪んだ笑みを浮かべた。
「黒狼王はすぐそばにいる」
渓谷の底から、濁流の音だけが響いている。
「たとえ死体になっても、あの女はまだ使える」
その時、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
一つ。
また一つ。
水底へと消えた女の遠吠えに応えるように。
森の奥から、山を越えて、夜を裂くように。
ジェラルドの笑みが、ほんの少しだけ強張った。
黒狼王が、近づいている。
そして、白銀の花嫁はもう、そこにはいなかった。
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