第20話 渓谷に消えた花嫁②
※毎週月曜日更新(予定)
◇◇◇
どれほど時間が経ったのかわからない。
気づけば、ビアンカは作業部屋の隅に転がされていた。
止血の時に使われた麻酔で朦朧としている。
手首の拘束はそのまま。
足首の鉄具も外されていない。
だが、見張りは二人に減っていた。
ジェラルドは隣室にいて、低い声で誰かと話していた。
「……王都へ行くのは危険です」
「仕方ない。一度、国境を越えるしかないだろうな」
「ですが、マグラス伯爵もラドクリフ公爵も捕まったという噂が」
「そもそも、あんな奴らはアテになどしていない」
ジェラルドの声には苛立ちが混じっている。
「帳簿が盗まれた程度で、潰れる奴らはしょせん小物だ」
「しかし、では、どこに助けを」
「そのためにこれがあるんじゃないか」
愉快そうな音を含んだジェラルドの声とともに、羊皮紙に触れる音と甘い香水の匂いが流れてくる。
「これは....王太子の手紙」
「だからこそ、ここまで黒狼王に来てもらわねばな。今、王家も崖っぷちだ。あの獣を反逆者にすれば、すべてひっくり返せる」
ビアンカはゆっくりと頭を振って意識をはっきりとさせた。
隣室の机の上に、国を揺るがす、獣人の権利に繋がる決定的な証拠がある。
新しい羊皮紙にかかれた手紙。
王家の封蝋。
あの王太子付きの香水瓶と同じ、甘い匂い。
王家が獣人の誘拐に関わっていた証拠。
彼らが今、誰に助けを求め、誰に守られ、誰を切り捨てようとしているのか。
その証拠が、すぐそこにある。
ビアンカは体を動かした。
外から呼ばれ、見張りの内の一人が出て行く。
もう一人は、船を漕いでいた。
彼らは、尾を奪ったことでビアンカの心が折れたと思っている。
馬鹿ね。
痛いし、怖いし、泣きたい。
自分がロイドの足枷になったらと思うと、どうしようも無い気持ちが湧き出てくる。
でも、それと、折れることは別だ。
ビアンカは壁に背を預けたまま、ゆっくりと呼吸を整えた。
壁には薬品棚がある。
床には水差し。
長台の上には布。
壁際に小さな刃物。
見張りは眠気で呼吸が重い。
ビアンカは、足先で床の布を引き寄せた。
布は私の傷口を拭った物だろう。おびただしい血がついている。
布の端に、小さな金具が絡んでいた。薬品瓶を留めるための留め具だ。薄いが、尖っている。
彼らの雑な処理に感謝しなくては。
それを足の指で挟む。
痛みで汗が滲む。
腰の傷が引き攣れている。
身体を横に倒し、見張りにわざと弱々しい声をかけた。
「……水を」
男が顔を上げる。
「何?」
「水を、少しでいいから」
男は面倒そうに舌打ちした。
「仕方ねぇな。死なせるなって言われてるからな」
男が水差しを持って近づいてきた。
一歩。
二歩。
ビアンカは俯いたまま、足先の金具を手首へ滑らせた。
男が膝をついた。
「ほら、飲め」
その瞬間、ビアンカは水差しを頭突きで跳ね上げた。
水が男の顔にかかる。
同時に、手首の留め革が切れた。
両方を切ることはできなかったが、片手だけで十分だ。
ビアンカは倒れ込むように男の喉元へ肩を打ちつけ、膝で腹を蹴った。男が呻く。
床に倒れた男の腰から鍵束を奪う。
鍵で足枷を外す前に、男を倒した勢いで、ビアンカは薬品棚へ身体をぶつけた。
瓶が落ちる。
割れる音。
鼻を焼く刺激臭。
白い煙。
「何だ!」
隣室からジェラルドたちが叫びながら入って来る。
ビアンカは咳き込みながら、長台の上の布を掴んだ。
口元を抑えながら、奪った鍵で足枷を外す。
合わない。
合わない。
三つ目。
外れた。
足首が自由になった瞬間、ビアンカは隣室へ飛び込んだ。
ジェラルドが振り返る。
机の上には、羊皮紙が広がっていた。
封蝋つきの黒い封筒。
王太子付き侍従長室の印。
差出人は――王太子アルフォンス・サルヴィア
――地下室の品を焼却せよ
――保護対象の残りは早急に処分
――黒狼王を反逆者として立てよ
吐き気がした。
けれど、手は迷わなかった。
ビアンカは机の上の書簡を掴み、胸元の内布へねじ込んだ。
「ビアンカ!」
ジェラルドが追ってくる。
ビアンカは机の燭台を払い落とした。
火が絨毯に移る。
煙が上がる。
「この女!」
誰かが背後から掴みかかる。
ビアンカは肘を入れ、低く身を抜いた。
証拠を持ち出すために逃げなくては。
そして、掴まって足かせとならないために。
ロイドへ。
ヨナスへ。
ロベルトへ。
死者たちの名前を取り戻すために。
山荘の廊下を走る。
背中が痛む。
足がもつれる。
視界が揺れる。
それでも、走った。
広間へ出ると、壁に飾られた猟銃が目に入った。ビアンカはそれを掴まず、下に掛けてあった革筒を取った。猟師が地図や許可証を入れるためのものだ。
胸元の書簡を革筒へ押し込み、蓋を閉める。
追っ手の足音が追いかけてくる。
ビアンカは暖炉横の小扉を蹴り開けた。
冷たい夜気。
薪小屋。
崖沿いの作業道。
渓谷の音が、すぐ近くで鳴っていた。
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