第19話 渓谷に消えた花嫁①
※毎週月曜日更新(予定)
馬車の中は、甘い香水と古い革の匂いで満ちていた。
ビアンカは床に座らされていた。
手首は後ろで縛られ、足首にも拘束具が嵌められている。
獣人の脚力を恐れているのだろう。普通の縄ではない。
内側に細い棘が仕込まれ、無理に動けば皮膚を裂く作りになっていた。
窓には厚い布がかけられている。
それでも、彼女にはわかる。
馬車は町へは戻っていない。
車輪の音が変わる。その下は石畳ではなく、土。
平地ではなく、登り坂だ。
右手に水の匂い。左手に濃い森。
遠くで、渓谷を流れる水音が続いている。
ナグスの森の奥。
昔、狩猟好きの貴族たちが獣狩りに使っていた山道だ。
ビアンカは、閉じた瞼の裏に地形を思い描いた。
重く地面を揺るがすように軋んだ音で、門扉の開く気配がする。
しばらくして馬車が止まった。
外で男たちの声がする。
「急げ。夜明け前に支度を終える」
「侯爵側の連中が町へ入ったらしいぞ」
「保安官殿はどうするつもりだ」
「黒狼王を呼ぶんだろうよ。あの女がいれば、必ず来ると言っていた」
その言葉に、ビアンカは臍を嚙んだ。
――落ち着いて。
そう言い聞かせる。
自分が、ロイドを誘い出すための餌になってしまったことが悔しい。
だから、よく考えて、ロイドの足を引っ張らないようにできることをしなくては。
馬車の扉が開いた。
冷たい山の空気が流れ込む。
ビアンカは顔を上げた。
目の前にあったのは、渓谷に張り出すように建てられた古い山荘だった。
黒い木組みの壁。
獣の角を象った鉄飾り。
広い玄関の上には、マグラス伯爵家の紋章が彫られている。
鹿と、弓と、王冠。
保安官事務所で押収した帳簿の中にいくつも見た名だ。
マグラス伯爵。
剥製売買の買い手。
恐らく貴族の間に剥製を流通させる役割も果たしていたであろう人物。
そして、ジェラルドを支援する貴族の一人。
「降りてもらおうか」
ジェラルドの声がした。
ビアンカは立ち上がろうとして、足首の鉄具に引っかかり膝をついた。
男たちが笑う。
ビアンカはその声を覚えた。顔も、匂いも、足音も。
覚えておく。
必ず返してやる。
ジェラルドが手を差し出した。
「手を貸そうか」
「触らないで」
「つれないな」
周囲のおとこたちが小さく口笛を吹く。
ビアンカは、肩に手をかけて立たせようとする男たちを振り払って、よろめきながら馬車を降りた。
渓谷の風が、頬を打つ。
下からは、濁流の音が聞こえた。
雨が続いた後の川だ。水量が多い。
その地形を頭の中に刻みつける。
谷。
山荘。
馬車道。
崖沿いの細い柵。
裏手へ回る作業用の木戸。
左奥に薪小屋。
右手に古い吊り橋。
逃げ道は少ない。
だが、ないわけではない。
◇◇◇
山荘の中は、外観よりもずっと広かった。
正面の広間には、鹿の角がいくつも飾られている。
壁には猟銃。暖炉の上には熊の頭。貴族たちが、自分たちの狩りの成果を誇るための部屋。
だが、奥へ進むほど、匂いが変わった。
薬品。
古い血。
獣人の毛。
死の匂い。
ジェラルドは上機嫌だった。
「この山荘は、マグラス伯爵が若い頃から使っていた場所だ。鹿狩り、狐狩り、狼狩り。実に伝統ある遊び場だよ」
「悪趣味ね」
「趣味とは、理解できる者だけが楽しめばいい。良いも悪いもないさ」
彼は奥の扉の前で足を止めた。
重い鍵が回される。
扉が開いた瞬間、甘い香水の匂いが濃く流れ出した。
ビアンカは思わず息を止めた。
そこは、作業部屋だった。
白い布をかけられた長台。
壁に並ぶ刃物。
硝子の箱。
薬品瓶。
銀の小さな名札。
まだ何も置かれていない、美しい台座。
その中央に、空の硝子ケースが置かれている。
ビアンカの背丈に合わせたような、大きな箱だった。
「君のために用意させたんだ」
ジェラルドが耳元で囁いた。
「本当なら、私の屋敷の地下室に飾るつもりだった。だが、あそこは少し騒がしくなりすぎたからね。ここなら、しばらく邪魔は入らない」
ビアンカは呻くように返した。
「私の死体は、あなたの飾りにはならないわ」
「君は死体になるんじゃない。永遠になるんだ」
ジェラルドは即答した。
「君の白銀の毛並み。青い瞳。黒狼王を見つめる時の、あの柔らかい表情。すべて残してあげる」
うっとりとした表情で語るジェラルドに、ビアンカは吐き気を堪えた。
「地下で見ただろうけど、私は腕がいいんだ。きっと君も気に入る出来になる」
「黙りなさい」
「ガラスケースの中に立つ君を見て、彼はどんな顔をするだろうね」
ジェラルドは楽しげに笑った。
「自分の花嫁が、もう二度と自分を見返さない姿で飾られているのを見たら」
ビアンカの手首が軋んだ。
鉄具の棘が皮膚を刺す。
痛みで意識が鋭くなる。
怒りに飲まれるな。
ロイドの声が聞こえた気がした。
怒りで目を濁らせると、多くを仕損じる。
ビアンカは息を吐いた。
「あなたは、ロイドを何も知らないのね」
ジェラルドが眉を上げる。
「あの人は、私がどんな姿になっても、折れたりしないわ」
ビアンカは顔を上げ、ジェラルドに鋭い視線をはわせた。
「あなたがどれだけ私を壊しても、奪っても、飾っても。ロイドは、目的を見失うことは無いわよ」
「随分強がりな発言だが、そんな健気に振舞う必要はないさ」
「彼は、あなたとは違う」
ジェラルドの目が冷たくなる。
「なぜ黒狼王と呼ばれているのか。彼は我々の王よ。私だけの物では無いの。女々しいあなたとは違うのよ」
「……本当に、口の減らない女だ」
彼は男たちに目配せした。
ビアンカの肩が押さえつけられる。
長台へ倒されそうになった瞬間、彼女は身体を捻った。だが足首の鉄具が邪魔をする。逃げきれない。
背後で刃物が鳴る音がした。
冷たいものが、腰の後ろに触れる。
全身の毛が逆立った。
「黒狼王へお土産が必要だからね」
ジェラルドの声が、背後で聞こえた。
「君の一部くらいは、分けてあげなくちゃね」
重い刃物が、空を切る音がした。その瞬間、激しい痛みが走り、世界が白く弾けた。
声を上げたのかどうか、自分でもわからなかった。
床に、白銀の毛が散る。
ビアンカは歯を食いしばった。
息ができない。
男たちの声。
ジェラルドの笑い。
薬品の匂い。
血の味。
それでも、彼女は意識を手放さなかった。
手放してたまるものか。
ジェラルドが何かを箱に納めさせている。
白銀の尾。
ロイドを呼ぶための餌。
ビアンカは目を伏せた。
折れてはいけない。私はまだ生きている。
まだ終わっていない。
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