第18話 対決②
ビアンカは振り返らなかった。
振り返らなくても、わかる。
甘い香水の匂いが、朝の森に広がっていた。
「素晴らしい」
ジェラルド・ワトキンの声だった。
「会いたかったよ、ビアンカ」
ビアンカはゆっくり振り返った。
小屋の影から、ジェラルドが現れる。
上質な外套をまとい、手袋をはめ、まるで朝の散歩にでも出てきたような顔で微笑んでいた。
その後ろには、さっきまで小屋に居たのとは違う男たちがいる。
「あなたの目的は私でしょう?だから来てあげたのよ」
ビアンカは低く言った。
ジェラルドは微笑んだまま首を傾げる。
「すごいな。相思相愛ってことかな。嬉しいね」
その言葉を聞いて、ビアンカには、笑みを浮かべて立っている目の前の男が心底気持ちが悪く思えた。
「保安官。舟を追いますか?」
後ろに立つ男の声に、ビアンカは腰の小刀を握った。
「いや。もう放っておけ。女の方は飾りにもならん」
そう言いながらジェラルドの視線が、ビアンカの手の動きに落ちる。
「やめておいた方がいい。君のその小さな刃では、ここにいる全員は倒せない」
「全員倒す必要はないわ」
ビアンカは一歩踏み出した。
「あなたを倒せばいいだけだわ」
次の瞬間、彼女は地を蹴った。
ジェラルドへ一直線に飛び込む。小刀の刃が、ジェラルドの頬を掠めた。
薄く、赤い線が走る。
男たちに阻まれ、ビアンカは後ろへと飛びのき、川べりの藪に身を低くした。
「あなたも血が出るのね」
その表情から笑みが消え、ジェラルドの目が暗く沈んだ。
「……惜しいな」
低い声だった。
「本当に、惜しい」
男たちが一斉に襲いかかる。
ビアンカは身を沈め、最初の腕を避けた。二人目の脇をすり抜け、眠り香の小瓶を足元で割る。
白い煙が広がった。
男が二人、咳き込みながら膝をつく。
ビアンカはその隙に小屋の横へ走り、繋がれていた馬の手綱を切った。
馬が驚いて跳ねる。
別の男が大声を上げ、逃げる馬を追おうとした。
混乱が広がる。
これで、ジェラルドたちをここに足止めできる。
ネイサたちがミルバを見つけ、ロイドたちがここに来るまで、この男たちをここで足止めできればそれでいい。
ビアンカは川の方を見た。
小舟の姿はもう見えないほどに小さくなっていた。
もうすぐ、森の陰に隠れる。
男のひとりが弓を構えた。矢先が、こちらへ向いている。
「おい!無駄に傷をつけるようなことをするな」
ジェラルドの声が飛ぶ。
その声に一瞬ひるんだ男の方へ、ビアンカは飛びかかった。
考えるより先に、体が動いていた。
腕に噛みつき、弓を地面へ落とす。
男が怒号を上げる。
次の瞬間、背後から腕を掴まれた。
別の男が、ビアンカの肩を押さえつける。
振りほどこうとしたが、さらに二人が加わった。
膝が地面につく。
ジェラルドが近づいてくる。
頬の傷から、細い血が流れていた。
彼は手袋の指でそれを拭い、赤く染まった指先を見た。
「私の顔に傷をつけた女は、君が初めてだよ」
「光栄ね」
「強がる姿も美しい」
ジェラルドはそう言って、ビアンカの顎を指先で持ち上げた。
ビアンカは顔を背けた。
「触らないで」
その声に、ジェラルドの目が愉悦に細まる。
「その目だ」
彼は囁いた。
「君の母親も、最後までそういう目をしていた」
世界が、一瞬だけ白くなった。
ビアンカは息を止めた。
母のことを、この男の口から聞きたくなかった。
「……黙れ」
低く言う。
ジェラルドは楽しそうに笑った。
「怒った顔もよく似ている。白銀の毛並みも、青い目も。だが、君は彼女よりずっといい。若いし、美しい」
ビアンカは男たちに押さえつけられたまま、ジェラルドを睨んだ。
「残念だけど、あなたはもう私をどうこうすることはできないわよ」
「ほう?」
「王都の貴族たちは、もうあなたを匿ってはくれないでしょうね」
ジェラルドの笑みが少しだけ薄くなる。
ビアンカは続けた。
「あなたの人質はもういないわ。黒牙の群れも、あなたを逃がさない」
「人質はいるじゃないか。美しく貴重な君が。仲間は君を必死で取り返しにくるだろう」
ジェラルドは、また笑った。
「黒狼の王が来るのかな。花嫁を取り返すために。とても美しい物語だ」
「あなたに物語を語る資格なんてないわよ」
「資格?」
ジェラルドは肩をすくめた。
「資格がある者だけが美しいものを愛せるなら、この世の貴族は退屈で死んでしまうよ」
その言葉に、ビアンカは吐き気がした。
ジェラルドは部下へ視線を向ける。
「連れて行け」
ビアンカの肩を押さえていた男たちの手に力がこもる。
「さあ、白銀の花嫁」
ジェラルドは、優雅に手を胸の前において、ビアンカを小屋の方へと促した。
「君には特別に花嫁衣裳を用意してあるんだ」
ビアンカはその手を見なかった。
代わりに、地面へ視線を落とす。
自分の小刀が、草の中に落ちていた。
柄には、ロイドが彫ってくれた小さな狼の印がある。
ビアンカは指先を少しだけ動かし、爪で掌を傷つけた。
小さな痛み。
赤い雫が草に落ちる。
甘い香水と、松脂と、川魚の匂いの中に、自分の血の匂いを残す。
ロイドなら、気づく。
必ず。
ロイ
胸の中で話しかけた。
ごめんね。
でも、ミルバは逃がしたわ。
ビアンカは男たちに引きずられるようにして立たされた。
朝日が、森の向こうから差し始めている。
その光の中で、彼女の白銀の髪が頭巾からこぼれた。
ジェラルドが、それを見てうっとりと息を吐く。
「本当に、美しい」
ビアンカは唇を噛んだ。この男を絶対に許すことはできない。
◇◇◇
川下で小舟を見つけたのは、ネイサだった。
最初に気づいたのは、白い布だった。
朝の光を受けて、川面の上で小さく揺れている。
「待って」
ネイサは手を上げ、同行していた若手を止めた。
「舟が来る」
テルマが茂みの奥から顔を出した。
「舟?」
「誰か乗ってる」
二人は川岸へ駆け寄った。
小舟は、ゆっくりと流れてくる。
中で、ミルバがぐったりと横たわっていた。
「ミルバ!」
テルマが悲鳴に近い声を上げる。
ネイサは川へ膝まで入り、小舟を掴んだ。
「生きてる! 息があるわ!」
「赤ちゃんは?」
「わからない、でも……」
ネイサはミルバの腹にそっと手を当てた。
小さく、動いた。
「大丈夫!」
テルマの目に涙が浮かぶ。
「よかった……」
ミルバがうっすら目を開けた。
「……ビアンカ……」
ネイサの顔が強張る。
「姐さん?」
ミルバの唇が震える。
声にならない。
ただ、涙がこぼれた。
テルマはその表情だけで悟った。
「嘘でしょ」
ネイサはすぐに若手へ叫んだ。
「主へ知らせて!すぐに川上に向かって!」
救われた安堵と周囲のただならぬ緊張感に、ミルバは震える手で、ビアンカが裂いて渡した白い布を握って涙を零した。
◇◇◇
ロイドが薪小屋へ辿り着いた時、そこにはもう誰もいなかった。
朝日は昇り始めている。
小屋の周囲には、踏み荒らされた草。
割れた小瓶。
倒れた男たちの跡。
逃げた馬の足跡。
そして、ビアンカの匂い。
ロイドは地面に膝をついた。
草の中に、小刀が落ちている。
見覚えのある柄。
自分が、ビアンカのために彫った小さな狼の印。
ロイドはそれを拾い上げた。
手が震える。
「ヴィー……」
低く呼ぶ。
返事はない。
風が、森を抜けていく。
その風の中に、甘い香水の匂いが混じっていた。
ロイドの耳が伏せられる。
ジェラルド。
あの男がいた。ここに。
ビアンカを連れて行ったのはあいつか。
「主!」
遅れて駆けつけたミゲルが、息を切らして叫んだ。
「川下でミルバを保護しました! ネイサたちが見つけて――母子ともに、生きています!」
ロイドは目を閉じた。
ビアンカはミルバを助けた。腹の子も救った。
その代わりに。
ロイドの手の中で、小刀が軋む。
「ビアンカは?」
ミゲルは答えられなかった。
その沈黙だけで十分だった。
ロイドは立ち上がった。
足元の草に、赤い雫が落ちている。
ビアンカの血。
わずかだ。
けれど、意図して残されている。
匂いが伸びている。
森の奥へ。
川とは反対側。
ビアンカは、自分に道を残したのだ。
「……くそ。人には勝手な行動をするなって言ってる癖に」
掠れた声だった。
その時、ミゲルが小屋の柱に刺さっている紙を見つけた。
「主、これ……」
ロイドは紙を奪うように取った。
甘い香水の匂い。
――檻は空になった。
――だから、新しい飾りを連れていく。
その下に、もう一文。
――王よ、今度こそ一人で来い。
ロイドは手紙を握り潰した。
紙が、掌の中で音を立てる。
喉の奥から、低い声が漏れた。
それは半身を奪われた狼の、深く長い遠吠えだった。
その怒りの深さに、森が震えた。
ミゲルは息を呑み、後ずさる。
ロイドの金色の瞳は、もう朝日を映していなかった。
映しているのは、ただ一人。
白銀の髪の花嫁だけだった。
「追う」
彼は低く言った。
誰も止められなかった。
止めてはいけないと思った。
ロイドは、ビアンカの血の匂いを辿って走り出した。
その背中を、朝焼けが赤く染めていた。
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