第17話 対決①
夜明け前の森は、まだ夜の顔をしていた。
東の空だけが薄く白み始めている。けれど木々の奥には闇が残り、湿った土と苔の匂いが濃く沈んでいた。
ビアンカは足音を殺して、古い獣道を進んだ。
白銀の髪を頭巾の中へ押し込み、外套の裾を片手で押さえている。浅く、速い呼吸を繰り返しながら、耳は冷静に周囲の音を拾っていた。
梟の声。
遠くの川音。
枝を揺らす風。
馬の鼻息。
そして、木の奥から漂ってくる、松脂と古い魚樽の匂い。
――間違いない。この薪小屋だ。
かつて川を使って町へ入る行商人たちが、荷を一時的に預けるために使っていた場所。森とリンド水門の中間にあり、地図にもほとんど載らない。道を知る者だけが使う、忘れられた小さな点。
ナグスの森でもない。
リンド水門でもない。
けれど、どちらへ向かうにも通ることのできる場所。
ジェラルドは、追っ手の目を二方向へ割らせようとしていた。
そして、そのどちらでもない場所に、ミルバを置いたのだ。
「……本当に、気持ちの悪い男ね」
ビアンカは、胸の奥に燻る不快感を吐き出すように小さく呟いた。
声にすると、胸の奥で燃えていた怒りが少しだけ形を持つ。
そして、足を止めた。
古びた薪小屋が、木々の隙間に見えていた。屋根は黒ずみ、壁板の一部は歪んでいる。軒下には古い魚樽が積まれていた。
裏手へ回ると入り江があり、小舟が係留されていた。予想した通りだ。
入り口の見張りは、三人。
正面扉の前に、見える人数に見合わないほどの踏み跡が重なっている。
少し前に男たちが何度も出入りしたのだろう。
今、いないということは、恐らくロイドたちとやり合うためにリンド水門に行っていると思われた。
恐らくジェラルド自身が、自分の立てた計画通りに黒牙の群れが動いているかを確認しているのだ。
ビアンカは、彼の行動が自分の予想通りであったことにほんの少し安堵した。
そうであれば、ジェラルドがこの小屋に現れるにはもう少し時間がかかる。
顔を上げると、湿った風に紛れて、金属の小さな輪の匂いがする。
ミルバは、ここにいる。
甘い香水や火薬の匂いに混じって、彼女の匂いがある。教会の石鹸と、薬草と、妊婦特有の温かな匂い。
それから、腹の子を守ろうとしている母親の、怯えた汗の匂い。
ビアンカは拳を握った。
『待ってて』
祈るように心の中でミルバに声をかけた。
届くはずはなくても、願わずにはいられなかった。
ビアンカは、奥の藪へ身を滑り込ませた。
入り江の薪小屋には、必ず水を逃がすための溝がある。
ビアンカは地面の傾斜を見ながら、小屋の裏手へと回った。苔の下に、石で組まれた細い排水溝がある。子どもなら這って通れるほどの幅。
彼女は外套を脱ぎ、布袋を胸に抱えた。
白いシャツに朝露が染みる。
冷たさに体が震えたが、構っている暇はなかった。
排水溝の蓋石は、半分ほどずれている。長く使われていないらしく、泥と枯葉が詰まっていた。
小刀で泥を掻き出し、体を横にして滑り込んだ。
狭い。
石が肩を擦る。
土の匂いが鼻に入り、息が詰まりそうになった。
しばらくそうして進むと、小屋の中の音が近づいてきた。
男の声。
馬具の金具が触れる音。
木箱を動かす音。
古い床板の隙間から、薄い光が差し込んでいる。床の上には木箱が積まれ、人の気配があった。
「まだ眠ってるのか」
「薬が強いんだろ。死んじまって腹の子が流れないようにしろって言われてるが、大丈夫か」
「ああ。腹の子も飾るんだってな。気色わりぃこったぜ」
「俺に言うな。保安官殿の趣味だ」
男たちの会話に、ビアンカは拳を握った。あの部屋で見つけた母の姿が脳裏に浮かんだ。
――許せない
しかし、今はその怒りにのまれて浅はかな行動をしてはいけない。
ビアンカは唇を噛み、さらに進んだ。
排水溝の終わりは、小屋の床下に出ていた。
床下の隅に、古い点検口があった。内側からなら開くよう作られているが、外からはわからない位置だ。
ビアンカは慎重に金具へ指をかけた。錆びている。
少し力を入れれば音が鳴る。
彼女は布袋から小さな油壺を出し、金具に垂らした。ゆっくり、ほんの少しずつ動かす。
ぎ、と小さく鳴った。
動いていた男の足音が止まった。
「今、音しなかったか」
「鼠だろ」
「鼠にしちゃでかい音だったぞ」
一人が近づいてくる。
ビアンカは床下で身を縮めた。
床板の隙間から、男の靴が見える。泥のついた革靴。靴底に赤土。リンド水門の方の土ではない。川沿いの古い道の方だ。
男はしばらく立ち止まっていたが、やがて鼻を鳴らした。
「何もねえよ」
「だから言ったろ。鼠だ」
足音が離れる。男たちが扉を閉める音がした。
小さく息を吐き、ビアンカはもう一度金具を動かす。
今度は音を立てずに、点検口が開いた。
床下から身を滑り出すと、そこは、小屋の奥の荷置き部屋だった。
積まれた木箱の陰に隠れながら、室内を見回す。
ミルバは、奥の寝台代わりの台に横たえられていた。
手首を縛られ、口元には布。顔色は悪い。額には汗が浮かび、呼吸は浅い。
生きていることが救いだ。
ビアンカは駆け寄りたい衝動を抑え、まず周囲を確認した。
男たちは隣の部屋で食事を取り始めたようだ。
ビアンカは木箱の隙間から身を滑らせ、ミルバの傍に膝をついた。
「ミルバ」
小さく呼ぶ。
ミルバの睫毛が震えた。
「ミルバ、聞こえる?」
口元の布をそっと外すと、ミルバがかすかに息を吸った。
「……ビ、アンカ……?」
「ええ。助けに来たわ」
ミルバの目に涙が浮かぶ。
「あ……あぁぁ……」
「大丈夫。話さないで」
ビアンカは手首の縄を切った。
縄の跡が赤く残っている。怒りで手が震えそうになるのを、必死に押さえた。
「お腹は?」
「動いてる……でも、時々、痛くて……」
ビアンカはミルバの腹に手を当てた。
しばらくして、内側から小さく動く気配がした。
生きている。
その瞬間、胸の奥に熱いものが込み上げた。
「よかった」
思わず声が震えた。
「大丈夫。絶対に帰るわよ」
「ビアンカ……一人できたの?」
ミルバが掠れた声で聞いた。
彼女の不安を少しでも軽くしたくて、笑みを浮かべて返す。
「ロイドたちは、別の場所にいるの。私はミルバを救出する役目よ」
ミルバは泣きながら首を振った。
「駄目よ……あの人、あなたを……」
「わかってる」
「ビアンカ」
「わかってるわ。だからこそ、私がこっちへ来たのよ」
ビアンカは、ミルバの手を握った。
「さ、急いで逃げなきゃ」
裏手の入り江までは遠くない。
問題は、ミルバが歩けるかどうか。
ビアンカは荷置き部屋の隅にあった古い毛布を取り、ミルバの肩にかけた。自分の外套も羽織らせる。
「立てる?」
「少しなら……」
ビアンカはミルバを木箱の陰へ座らせ、布袋から小瓶を取り出した。
眠り香。
ネイサのものほど強くはない。だが、短時間であれば十分に役立つ。
布に含ませ、それを扉の下から隣室へと忍ばせた。。
しばらくすると、皿の割れる音と何かが机の下に落ちる鈍い音がした。
そっと小さく扉を開けて覗きこむと、男たちは机に突っ伏したり、床に転がって眠りこんでいる。
「さ、ミルバ。行くわよ」
荷置き部屋の奥には、荷を出し入れするための観音開きに扉がある。
外から見れば壁の一部にしか見えない。古い行商人たちが、荷を出し入れするために作った扉だ。
ビアンカは大きな閂についている金具を叩き壊し、閂をゆっくり引いた。
荷を引き込むための扉は、開けると入り江に続く桟橋に直結している。
裏手の入り江までは、ほんの数十歩。
ビアンカはミルバの腕を肩に回し、ゆっくりとミルバが転ばないように、慎重に桟橋へと進む。
ぬかるんだ桟橋の板が生き物の小さな呻きにようにきしむ。
「ミルバ、気をつけて歩いて。その先で、あなたを舟に乗せるわ」
「舟……?」
ミルバは不安げな表情でビアンカを見つめた。
川下にはネイサたちが向かっている。水門へ行く道を塞ぐために、必ず川を見ているはず。
小舟が流れてくれば、見逃さない。
「川下に群れの仲間がいるわ。すぐにあなたを見つけてくれる」
ミルバは何か言おうとした。
だが、痛みが来たのか、顔を歪めて腹を抱える。
ビアンカは彼女を抱えるように支え、慎重に歩いた。
朝露が足首を濡らす。
草の匂い。
川の匂い。
自由の匂い。
入り江に着くと、ビアンカは小舟の中に古い布を敷いた。
「ここに座って」
「怖い……」
「大丈夫」
ビアンカはミルバの手を両手で包んだ。
「川下へ流れれば、ネイサかテルマが必ず見つける。声を出せなかったら、白い布を振って」
自分のシャツの袖を裂き、ミルバの手に握らせる。
「これを」
ミルバは震えながら頷いた。
「ビアンカ……一緒に……」
「行けない」
ミルバの瞳が見開かれる。
ビアンカは首を振った。
「この小舟に二人は乗れないわ。大丈夫、私もすぐに追いつくから」
――それに追っ手をここで留めておかなければ
それは声には出さなかった。
ミルバが船底に横になると、ビアンカは小舟を押した。
舟がゆっくりと、川の流れに向きを変えていく。
ミルバは白い布を握りしめ、泣きながらビアンカを見上げていた。
「大丈夫よ」
ビアンカは言った。
「あなたは、お母さんになるんだから」
ミルバの顔が歪み、頷いて手元の布を握るとギュッと目を閉じた。
小舟が入り江を離れ、川の流れに乗った。
遠ざかっていく。
ビアンカは、喉の奥に詰まった息を吐いた。
間に合った。
どうか無事にネイサたちに見つけて貰えますように。
その瞬間。
背後で、拍手が鳴った。ゆっくりと。
楽しげに。
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