第16話 危うい罠②
◇◇◇
ロイドは、グルドたちとナグスの森へ向かい、ビアンカ、テルマは若手を率いてリンド水門へ。
ネイサたちは川沿いの逃走路を塞ぐ。
ヨナスはユリベルの町に残り、教会と商人組合を通じて人手を集める。
一見、悪くない布陣だった。
だが、ビアンカにはわかっていた。
間に合わない。
リンド水門へ向かえば、そこにも何かはあるだろう。
これみよがしにミルバの匂いをあちこちにつけているか、あるいは、次の場所を示す手がかりか。
だが、ジェラルドが本当に欲している物は......
ビアンカにはわかっていた。
あの、腐った心の持ち主は、自分を欲している。
母親と同じように飾りたいのだ。
――おまえ一人で来い。
ビアンカにはこの誘拐の裏にあるあの男の、ジェラルドの意図がわかっていた。
ミルバを選んだのは私をおびき寄せるためだ。
ならば、私が囮になればあの男も油断するだろう。
その時、礼拝堂の奥から子どもの泣き声が聞こえた。
ビアンカが振り向くと、小さな少女がマチルダの腕から抜け出し、こちらへ走ってきた。
「ヴィー」
少女は泣きながら、ビアンカの外套を掴んだ。
「ミルバ、帰ってくる?」
ビアンカは膝をついた。
少女の頬を拭う。
「帰ってくるわ」
「赤ちゃんも?」
「ええ」
答えた瞬間、喉の奥が痛んだ。
「赤ちゃんも、一緒に帰ってくる」
少女は泣きながら頷いた。
ビアンカはその小さな体を抱きしめた。
細い肩。
温かい体温。
怖くて震えている息。
この子たちに、これ以上奪われる姿を見せたくない。
ミルバの子を、ジェラルドの玩具にさせたくない。
ロイドを、あの男の罠で失いたくない。
その願いは、どれも同じくらい強かった。
だから、選ぶしかなかった。
ビアンカは少女をマチルダへ戻し、立ち上がった。
「ミルバの部屋から毛布を持ってくるわ」
ロイドがちらりとこちらを気にする。
彼はもう、ビアンカが何かを隠していることに気づいている。
けれど、何を隠しているのかまでは掴めていない。
ビアンカは、彼の手に触れた。
「ロイ」
「なんだ」
「少しだけ、マチルダの傍にいてあげて」
ロイドの眉が動く。
「母さんは大丈夫だ」
「そうじゃないわ。あなたが一度、顔を見せて。子どもたちも不安がっているし」
ロイドは答えなかった。
ビアンカは続けた。
「ね、お願い」
ロイドの視線が鋭くなる。
胸が痛んだ。
それでも、笑みを浮かべてビアンカは続けた。
「ほら、すぐに出なきゃいけないんだし」
彼女はそう言って、ミルバの部屋へ向かった。
背中にロイドの視線を感じる。
曲がり角を曲がったところで、マチルダの震える声と、ロイドが短く応じる声が聞こえた。
ビアンカはミルバの部屋へ入ると、扉を静かに閉めた。
胸元から、先ほど拾った木片を取り出す。
松脂。
魚樽。
この組み合わせを、彼女は一つだけ知っている。
リンド水門ではない。
そのさらに手前にある、今は使われていない古い薪小屋。
かつて川を使って町へ来る行商人や、旅の女たちが身を休めた場所。
古い魚樽を薪代わりに積み、屋根には松脂を塗り、裏手に小舟を隠せる小さな入り江がある。
もしもの時には川へ出られる場所だ。
ナグスの森でも、水門でもない。
けれど、どちらへ向かう途中にもある場所。
ジェラルドは、追っ手の目を二方向へ割るつもりなのだ。
森と水門。
その間にある小さな点を、誰にも見せないために。
ビアンカはミルバの寝台にかかっていた毛布を手に取った。
ジェラルドの手紙の匂いを嗅いだ時からわかっていた。
彼の狙いは私だ。
手配書の似顔絵に込められた意味。
いくつにも重ねられた匂い。
手が震えた。
皆に言うべきだったのか。
でも、狙いは自分だと言えば、ロイドは何を置いてでも私を守ろうとするだろう。
ミルバと腹の子の命でさえも。
囮になる、と言っても、許してくれるわけがない。
それでいい。
怒ってくれればいい。
生きて、怒って、追いかけてきてくれればいい。
――ミルバの本当の居場所がわかった気がします。
そこまで書いて、インクが滲んだ。
ビアンカは唇を噛み、続きを書く。
――あの男は私になら隙を見せる。だから先に行きます。
――ミルバを助けたら、必ず戻ります。
最後に、小さく書き足した。
――あなたのヴィーより。
その横に、もう一枚の紙を置いた。
ミルバの部屋から拾った木片を包んだ布。
そして、薪小屋の場所を示す簡単な印。
完全に隠すつもりはなかった。
ロイドなら、必ず追いつく。
けれど、今すぐでは困る。
ミルバを人質に取られた状態で、ロイドが正面から踏み込めば終わる。
だから、先にミルバだけを逃がさなくては。
それができれば、皆が自由に戦える。
ビアンカは小窓を開けた。
夜明け前の冷たい空気が流れ込む。
外へ出ようとした瞬間、胸の奥で声がした。
――一人で行くな。
ロイドの声だった。
ビアンカは目を閉じた。
「ごめんね」
小さく呟く。
「必ず、ミルバを連れて戻るわ」
それだけは、祈りではなく誓いだった。
彼女は窓枠に手をかけ、身を滑らせるように外へ出た。
庭の朝露が、靴を濡らす。
東の空が、薄く白み始めていた。
ビアンカは白銀の髪を頭巾の中へ押し込み、外套を深く被る。
そして、森でも水門でもない、古い薪小屋へ向かって走り出した。
◇◇◇
聖具室の扉が開かれたのは、それからわずか数分後だった。
「ヴィー?」
ロイドは空になった室内を見た瞬間、息を止めた。
机の上に、書き置きがある。
その横には、木片を包んだ布。
そして、地図の端に刻まれた、小さな印。
ロイドの指が、紙を掴んだ。
読み終えるより早く、喉の奥から低い唸りが漏れる。
「ビアンカ……」
ヨナスが背後から入ってくる。
「どうした」
ロイドは何も答えなかった。
ただ、紙を握りしめる。
その手が震えている。
ヨナスは机の上の地図を見て、顔色を変えた。
「薪小屋か」
ロイドの目が、金色に光る。
「追う」
「待て。彼女の策がわかってるのか?」
「わかってるさ。ヴィーはいつだって自分を盾にする」
ロイドは振り返った。
その顔を見て、ヨナスは息を呑んだ。
そこにいたのは、怒りに任せて走る獣ではなかった。
愛する女の判断を信じたいのに、失う恐怖で壊れかけている男だった。
「人には、怪我をするな、とか言いながら......」
ロイドは低く言った。
「すまないが、作戦は変更だ。俺はヴィーを追う」
そう言って、彼は走り出した。
朝焼けの前の暗い廊下に、黒狼の足音が響いた。
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