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獣の王は花嫁にもう一度恋をする  作者: けもこ


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第15話 危うい罠①

夜は、王都の上から静かに降りてくる。


議事堂の広場では、まだ人々の声が消えない。


怒号。

泣き声。

誰かの名を叫ぶ声。

祈るように鐘の音を聞く者たちの、震えた息遣い。


そのすべてが、夕暮れから夜へ沈んでいく王都の空気を揺らしていた。


だが、ビアンカの耳にはもう何も入っていなかった。


彼女の手の中には、一枚の紙がある。


甘い香水の匂いが染みついた、白い紙。


――取引がしたい。ナグスの森へ黒狼王一人だけで来い。


それだけの短い文だった。


「すぐに出る」


ロイドの声が、低く落ちた。


ビアンカが顔を上げると、彼の金色の瞳は見たことがないほど冷えていた。


そこにあるのは、怒りを通り越した、静かな殺意だった。

ロイドはミゲルから紙を奪うように受け取り、もう一度文面を見た。


「黒狼王一人だけで来い、だと」


彼は低く笑った。


「望み通り行ってやる」


「ダメよ」


ビアンカは即座に言った。


「こんな分かりやすい誘いに、一人で行ったら――」


「行かないとミルバが殺される」


「違うわ。あなたが殺される」


ロイドの視線がビアンカへ向いた。


「こんなわかりやすい誘いで、俺がそうやすやすと殺されるわけないだろう?」


「相手がどのくらいいるかもわからないのに?一人でなんて絶対にダメに決まってるじゃない!」


思わず声が大きくなった。

ビアンカは紙を握りしめたまま、必死に息を整えた。


「ジェラルドは、あなたが怒りで何も見えなくなる瞬間を待っている。あなたが自分から罠に飛び込んで、黒牙の群れがそれを追って、全部が崩れるのを待っているのよ」


「なら、どうするんだ」


ロイドの声が低く震えた。


「今この瞬間、ミルバはあいつの手の中にいる。腹の子ごとだ」


その言葉に、ビアンカは息を詰まらせた。


わかっている。


ロイドの怒りも、焦りも、痛いほどわかる。


自分だって今すぐ走り出したい。


ミルバを抱えて逃げたい。

あの小さな命を、あの男の目に一秒でも晒したくない。


けれど、だからこそ行けない。


この紙はあまりにも分かりやすい。


分かりやすすぎる。


「主」


その時、ミゲルが声をかけた。


「グルドたちは、すでにユリベルへ向かっています。議会がいったん収束しヨナス様たちもこちらへ――」


「ロイド殿」


背後から落ち着いた声がした。


屋上へ上がってきたのは、ロベルトだった。


その後ろにヨナスもいる。


議場での戦いを終えたばかりだというのに、二人の顔に勝利の色はなかった。


ヨナスはビアンカの手にある紙を見て、顔を険しくする。


「くそ。やられたな」


「そんな感想はいらない」


ロイドは鋭く言った。


「とにかく俺は村へ向かう」


「怒りに任せて無策で動くな」


ヨナスの声は短かった。


「じゃあ、ミルバを見捨てるのか!」


「違う。言いなりになるなと言っている」


ヨナスは一歩近づいた。


片腕しかないその体で、怒りに震える黒狼の前に立つ。


「考えろ。あの男は、王都で自分の後ろ盾が崩れたことを知っている。つまり、もう逃げるしかない。だが、ただ逃げるだけならこんな芝居は打たない」


ロベルトが続けた。


「目的はこの反乱の旗印、『黒牙の群れ』の崩壊。もし、仲間を見捨てれば、その求心力に陰りが入る。もちろん......首領が死ねば、彼らにしてみれば願ったりだろう」


「そんなことさせないわよ!」


ビアンカは吐き捨てるように言った。


ロベルトは、彼女を見た。


その目には、いつもの軽薄な笑みがなかった。


「ジェラルドは、危なくなれば貴族たちが自分を切り捨てることはわかっていただろう。ただ、逃げればいいものを......この誘いは、もっと何か深い思惑があるのかもしれない」


「思惑って......」


ビアンカは、あの地下室を思い出し、指先が冷えていくのを感じた。


硝子棚。

赤い布。

剥製の作り物の微笑み。


あの男は、ただ逃げるだけの人間ではない。


逃げながらでも、私たちの心を壊す方法を探す。

あいつにとってはそれが喜びなのだから。


ビアンカは、手の中の紙へ視線を落とした。


――取引がしたい。ナグスの森へ黒狼王一人だけで来い。


ロイドへ向けた言葉だ。


黒狼王。


その呼び名を、ジェラルドは好んで使う。ロイドを王に見立て、彼から獣の命を奪うことに酔っている男だから。


紙から、甘い香水の匂いがする。強すぎる。


まるで、ビアンカに嗅がせるために染み込ませたように。


煙。

馬の汗。

湿った革。

それから、松脂。


ナグスの森の匂いに似ているが、完全には一致しない。


ナグスの森は、もっと湿った土と苔の匂いが強い。そこにある古い猟師小屋なら、獣道の獣臭も混じるはずだ。


この紙に残っている松脂は、もっと人の手が入った匂いだった。


防水に使う油。

荷車の車軸。

木箱の継ぎ目。


商人が使う荷置き場の匂い。


ビアンカは、頭に浮かんだ考えに息をのんだ。


ジェラルドは、本当にナグスの森でロイドを待ち受けているのだろうか。


そこにいると思わせたいだけなのでは?


ロイドを、黒牙の群れを、ナグスの森へ向かわせるために。


「……ビアンカ嬢?」


ロベルトの声に、ビアンカは顔を上げた。


彼女は、紙を握る手に力を込める。


ヨナスは冷静に作戦を組み直すだろう。ロベルトは王都側の兵も動かすと言うだろう。ミゲルはすぐにグルドへ追加の伝令を走らせるだろう。


ジェラルドはそれを待っている。


黒牙の群れがナグスの森へ向かえば、戦力が割れる。王都に残った証拠保全の守りも薄くなる。ユリベルの教会も手薄になる。


「ロイ」


ビアンカは、なるべく平静な声を出した。


「まずはユリベルへ戻らないと」


ロイドは彼女を見た。


「そうだな。一緒に」


「ええ」


ユリベルへ戻り、教会の現場を確認しよう。


それから、ミルバの匂いを追う。


ジェラルドが本当はどこにいるのかを確かめなくては。


「ヴィー。絶対に俺の傍を離れるな」


ロイドが言った。


その言葉が、胸に刺さった。


ビアンカは微笑もうとした。


うまく笑えたかは、わからない。


「わかってるわ」


その返事が、どれほど危ういものか。


自分でもわかっていた。


◇◇◇


ユリベルへ着いたのは、夜明け前だった。


馬を替え、道を急ぎ、ほとんど休まず走ったため、同行した者たちの顔には疲労が滲んでいた。


それでも、誰も不満は漏らさなかった。


教会の門が見えた瞬間、ビアンカは胸を押さえた。


石壁には煤の跡。扉の一部が壊され、庭の花壇は踏み荒らされている。

けれど建物そのものは燃えていなかった。


燃やすことが目的ではなかったことがわかる。


最初から、ミルバだけを連れ去るための襲撃。

そう思って手綱を握る拳に力が入る。


「ビアンカ!」


礼拝堂の入口から、マチルダが駆け寄ってきた。


普段は穏やかな彼女の顔が、青ざめている。


「マチルダ!」


ビアンカは馬から飛び降りると、彼女の手を取った。


「怪我は? 子どもたちは?」


「子どもたちは無事よ。何人か転んで怪我をしたけれど、大きな傷ではないわ」


マチルダの声が震える。


「でも、ミルバが……」


ロイドは教会の入口に立ち、周囲を見回した。


「グルドは?」


「中だ」


答えたのは、壁際に立っていたグルドだった。


片頬に新しい傷がある。


「すまん、主。間に合わなかった」


「状況を話せ」


ロイドの声に感情はなかった。


グルドは頷き、短く説明した。


襲撃は夜半過ぎ。


王都へ出ていた主力が少ない隙を突かれた。


表の門で騒ぎを起こし、警備の目をそちらへ向けた間に、裏手から数人が侵入したらしい。


礼拝堂にいた子どもたちには手を出さず、一直線に奥の休息室へ向かっている。


目的は最初からミルバだった。


「抵抗した尼僧が一人、腕を切られた。命に別状はない」


グルドは奥歯を噛んだ。


「ミルバは眠り香を嗅がされたらしい。自分で歩いた形跡はない」


ロイドがビアンカを見る。


ビアンカは頷き、礼拝堂の奥へ向かった。


室内には、まだ混乱の匂いが残っていた。


割れた陶器。

倒れた椅子。

踏まれた花。

恐怖で泣いた子どもたちの涙の匂い。


そして、その奥に。


甘い香水。


ビアンカは唇を噛んだ。


ミルバが休んでいた部屋の扉は、半分だけ開いていた。


中へ入ると、寝台の毛布が床に落ちている。


枕元には、水差し。

小さな編みかけの靴下。

赤子のために用意していた、柔らかな布。


ビアンカはそれを見た瞬間、胸が締めつけられた。


ミルバは、生まれてくる子を待っていた。


ただ、それだけだった。


この国の行く末や、王都の腐敗や、貴族の罪などとは関係なく。


ただ母として、子を抱く日を待っていた。


それを、ジェラルドは餌にした。


「……許さない」


声が落ちた。


低く、静かに。


ロイドが寄り添うように傍に立った。


「ヴィー」


「平気よ」


「平気な声じゃない」


ビアンカは答えなかった。


寝台の横に膝をつき、床へ顔を近づける。


匂いを拾う。


革靴。

湿った土。

森の腐葉土。

馬の汗。


それから、またあの匂い。


松脂。


――違う。ナグスの森の猟師小屋ではない。


ビアンカは床板の隙間に落ちていた小さな木片を拾った。


指先ほどの、薄い欠片。


荷箱の角が割れたものだ。


表面には松脂と油が染みている。


そして、かすかに魚の腸の匂い。


「……魚」


ネイサが首を傾げた。


「魚ですか?」


ビアンカは木片を鼻先に近づけた。


「川魚の匂い。古い樽に染みついたものだわ」


グルドが眉を寄せる。


「ナグスの森の近くに川はあるが、魚樽を運ぶ場所じゃない」


「ええ」


ビアンカはゆっくり立ち上がった。


「ナグスの森そのものじゃない。もっと下流。荷を積み替える場所」


ロイドの目が鋭くなる。


「どこだ」


「ユリベルの北にある、古い水運倉庫。今は使われていないけれど、昔は毛皮と魚樽を一緒に積み替えていた場所があるでしょう」


グルドが低く唸った。


「リンド水門か」


ヨナスの表情が険しくなる。


「あそこなら、森へ向かう道にも、川を使って国境へ抜ける道にもつながる」


ロベルトが腕を組んだ。


「つまり、ナグスの森は表向きの呼び出し場所。本命は水門。あるいは、そこを経由した逃走ですか」


ビアンカは頷いた。


「たぶん、ジェラルドは二つの動きを同時にしている」


「二つ?」


ミゲルが問う。


ビアンカは、言葉を選んだ。


すべてを言ってはいけない。


自分が考えていることを、全部ロイドに見せてはいけない。


「ひとつは、ロイドをナグスの森へ誘い出すこと」


ロイドの耳が動く。


「もうひとつは?」


「黒牙の群れを分断すること」


これは事実だ。


だが、半分だけの事実でもある。


「ナグスの森に戦力を向けさせれば、水門側の逃走路が空く。王都に人を残せば、救出が遅れる。ユリベルに人を集めれば、王都の証拠保全が薄くなる」


ロイドが小さく息を吐いた。


「姑息な手だ」


ヨナスも頷いた。


「しかも、ミルバが人質ならこちらは時間をかけられん」


ロイドは短く言った。


「先に、水門へ行く」


「それも読まれていると思う」


ビアンカは即座に返した。


ロイドの視線が彼女を刺す。


「どういう意味だ」


「私たちが匂いで見抜くことも、ジェラルドは考えているはずよ」


部屋の空気が重くなる。


「つまり、ナグスの森も、水門も、どちらも罠の可能性がある、と」


ネイサが青ざめた顔で言った。


「じゃあ、本当のミルバの居場所は?」


ビアンカは答えなかった。


答えられなかったのではない。


今、言えば、すべてが止まるからだ。


彼女にはもう一つ、拾っている匂いがあった。


ミルバの部屋に残っていた薬草の匂い。


眠り香の中に、ほんのわずかに混ぜられていたもの。


月見草。

乾燥したラズベリーリーフ。

陣痛を促す時に使われる、助産の薬草。


それは、ミルバを単なる人質として扱っていないことを意味していた。


ジェラルド......あの卑怯な男は、自分の下劣な趣味に母子の命を使おうとしているのではないか。


ビアンカは、黙った。


「ヴィー」


ロイドの声がした。


「どうした。何を考えてる」


ロイドは、恐ろしいほど彼女を見つめていた。


小さな呼吸の乱れも、視線の揺れも見逃さない。


ビアンカはゆっくり顔を上げた。


「……ジェラルドが、どこまで読んでいるのか考えていたの」


嘘ではない。


ロイドは納得していない顔をしたが、その時、グルドが地図を広げた。


「主。時間がない。動くなら主力を三手に分けるしかない」


ロイドはビアンカから視線を外さないまま、低く言った。


「いいだろう。ナグスの森には俺が正面の呼び出しに応じる形を作る。ビアンカとテルマは水門へ。ビアンカの鼻が必要だ。ネイサたちは川沿いを塞ぐ」


「主の影として俺とミゲルが後を追う」


グルドが地図を見ながらそう言う。


「何かあれば互いに声を放て」


ロイドの言葉に、ヨナスが割って入る。


「ミルバの命も大事だが、皆の命も大事だ。それを忘れないでくれ」


ビアンカはロイドの横顔を見た。


彼は必死に耐えている。怒りに今すぐ走り出したい衝動を。


ビアンカは懸念を一人胸に抱いていることに、一抹のやましさを抱いた。


「ジェラルドは生きたままここへ連れ帰ってくれ。聞きたいことがある」


ロイドは固い声で皆に伝える。


「承知」


ビアンカは黙って皆の返事を聞いていた。脳裏には優しい笑みを浮かべるミルバが浮かぶ。


大きなお腹を抱えて、礼拝堂の光の中で笑っていたミルバ。


『元気でしょう?』


そう言って、ビアンカの手をそっと腹に当ててくれた。


掌の下で動いた、小さな命。


まだ生まれてもいないのに、確かにそこにいると伝えてくる、あの温かさ。


そのミルバが、ジェラルドの手の中にいる。


許せなかった。

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