第14話 砕かれる王冠②
◇◇◇
鐘楼の上で、ビアンカは拳を握っていた。
議場の中の声は、壁に遮られながらも断片的に聞こえてくる。
トマの声。
貴族たちのざわめき。
ロベルトの冷静な追及。
そして、隠された剣が抜かれる音。
「ロイド!」
「聞こえた」
ロイドはすでに動いていた。
鐘楼から屋根へ、屋根から議事堂の側壁へ。黒い影のように飛び移る。ビアンカも続いた。
約束どおり、彼の隣を離れない。
議事堂の裏手、記録室へ続く廊下では、テルマとネイサが二人の男と対峙していた。
男たちは議場付きの書記官の服を着ている。だが、袖口から短剣が覗いていた。
「偽造帳簿を回収するだけだ。退け」
男の一人が言った。
テルマは笑った。
「偽造なら、燃やさなくても困らないでしょう?」
「女、邪魔をするな」
「その女に邪魔されてる時点で、あんたらはもう負けてるのよ」
男が斬りかかる。
テルマは身を沈め、剣を避けると、相手の脛を蹴った。鈍い音と共に男が崩れる。
もう一人が記録室へ走ろうとした瞬間、ネイサが投げた細い縄が足首に絡んだ。
「逃がしませんよっと」
静かな声だった。
男が転倒し、床に顔を打つ。
そこへロイドが降り立った。
「こいつらだけか」
「奥にもう三人」
テルマが顎で示す。
「証拠を燃やす気ね」
ビアンカは、鼻先を上げた。
「油の匂いがする」
ロイドの瞳が鋭くなる。
「急ぐぞ」
記録室の扉を開けると、中では三人の男が棚に油を撒いていた。
壁一面に、写しがある。
帳簿の写し。証言書。行方不明者名簿。被害者の身元確認資料。
火をつけられれば、すべてが消える。
男の一人が火打石を構えた。
「動くな!」
男は笑った。
「一歩でも動けば、火をつける」
ビアンカは、ゆっくりと息を吸った。
油の匂い。紙の匂い。男の汗。火打石の金属。窓の隙間から入る風。
彼女は、男の手首が震えていることに気づいた。
怖がっている。
命じられて来ただけの男だ。
けれど、その震えが火花を落とせば、死者たちの名前がまた消える。
「ロイド」
ビアンカは小さく囁いた。
「右の窓。風が入ってる」
ロイドはすぐに理解した。
「テルマ」
「はいよ」
次の瞬間、テルマが横の棚を蹴った。
棚が倒れ、窓を塞ぐ。風が止まる。
男が驚いて火打石を打つ。
火花は散った。
けれど油に届く前に、ビアンカが投げた濡れ布が男の手を覆った。
ロイドが一気に踏み込む。
一人目の手首を捻り、二人目の膝を払う。三人目が短剣を抜く前に、ネイサの投げた小瓶が床で割れ、白い煙が上がった。
男たちは咳き込み、その場に崩れた。
「眠り香。少し強めだからみんなも気をつけて」
ネイサが淡々と言った。
テルマが鼻を押さえる。
「先に言ってよ」
「言ったら奴らに避けられちゃうでしょ?」
「仲間にも効くんだけど!」
ビアンカは思わず小さく笑いながら、すぐに棚へ駆け寄った。
紙は無事だった。
死者たちの名簿も、子どもたちの証言も、まだ燃えていない。
ビアンカは震える指で一枚を拾った。
そこには、母の名前があった。
――エレノア。白銀狼獣人。二十八歳。病死として処理。
胸の奥で、何かが止まった。
「ヴィー」
ロイドがすぐに気づいた。
ビアンカは紙を握りしめた。
「名前があった」
声が震える。
「お母さんの名前が、ここにあったわ」
ロイドは言葉を失った。
ビアンカの母の名。
奪われ、飾られ、番号と品目にされかけた女の、本当の名前。
ビアンカは、涙をこぼさなかった。
ただ、紙を胸に押し当てる。
「取り戻せた」
小さな声だった。
ロイドは彼女の肩に手を置いた。
「まだだ」
ビアンカは顔を上げる。
ロイドの目は、議場の方へ向けられていた。
「この名前を、世に出す」
ビアンカは頷いた。
「ええ」
その時、議場の方から怒号が響いた。
王太子派の貴族が、ロベルトを反逆者として拘束しようとしている。
戦いは、まだ終わっていない。
◇◇◇
議場は混乱していた。
王太子付き侍従長アルヴァン・レクトが、冷静さを失った声で叫んでいる。
「ハネイグ侯爵を拘束しろ! これは王家への侮辱だ!」
警備兵が動き出す。
だが、その前に議場の扉が開いた。
入ってきたのは、王都教会本部の大司教代理だった。続いて、商人組合の代表、獣人集落の代表者たち、そして数名の改革派貴族。
彼らは同じ書類を手にしていた。
写しだ。
一部ではない。
同じ証拠が、すでに複数の手に渡っている。
ロベルトは静かに言った。
「私を拘束しても構わない。だが、その前に議場の外を見た方がいい」
議場の窓から、広場の声が響いてくる。
「子どもを返せ!」
「貴族を裁け!」
「名前を返せ!」
ロベルトは、懐からもう一枚の紙を取り出した。
「教会記録と照合できた被害者の名を、ここで読み上げます」
「やめろ!」
誰かが叫んだ。
ロベルトは止まらなかった。
「エレノア。白銀狼獣人。病死として処理」
鐘楼の影でその声を聞いたビアンカの肩が震えた。
ロイドが彼女の手を握る。
ロベルトの声は続く。
「サラ。狐獣人。行方不明届は受理されず。
ミゲーラ。猫獣人。埋葬記録なし。
ダン。狼獣人。反逆罪で処分と記録。実際の死亡確認なし」
ひとつ、またひとつ。
死者たちの名が、議場に落ちていく。
番号ではなく。
品目ではなく。
名として。
貴族たちの顔が強張る。
これまで飾り、隠し、忘れさせてきたものが、言葉になって戻ってきたのだ。
その瞬間、議場の外で鐘が鳴った。
教会の鐘。
商人組合の鐘。
獣人街の火見櫓の鐘。
いくつもの鐘が重なり、王都全体へ響いていく。
ロベルトは声を張った。
「本日をもって、ユリベル保安官ジェラルド・ワトキン、ならびに本件に関与した王都貴族全員の拘束を要求する。王太子付き侍従長アルヴァン・レクトについても、即時審問を求める」
アルヴァンが後ずさる。
「貴様……!」
「これは反逆ではない」
ロベルトの声が、議場に響いた。
「これは、王冠の下で黙らされてきた者たちの告発だ」
議場は、もう彼一人を黙らせれば済む場所ではなくなっていた。
広場が、教会が、商人組合が、獣人集落が。
そして、黒牙の群れがいる。
貴族たちの沈黙は、崩れ始めていた。
最初に立ち上がったのは、年老いた地方伯だった。
「……審問に賛成する」
その声に、議場が揺れる。
次に、別の貴族。
「私もだ」
「証拠の保全を求める」
「保安官の拘束を」
「王太子派の関与を調べるべきだ」
声が増えていく。
王冠は、まだ落ちていない。
だが、確かにその権威には罅が入っていた。
◇◇◇
同じ頃、ユリベルでは別の火が燃えていた。
保安官事務所の裏庭に、黒い煙が上がっている。
ジェラルド・ワトキンは、燃える書類の前に立っていた。
保護記録。
巡回記録。
通行許可証。
下級役人への支払い控え。
表に出して困るものは、すべて焼いている。
だが、彼の顔に焦りはなかった。
むしろ、どこか楽しそうだった。
「保安官殿、本当に町を出るのですか」
部下の一人が震える声で問う。
「町ではなく、檻を出るんだ」
ジェラルドは答えた。
「王都の連中は、私を切るだろう。ならば、その前に私が彼らを切らないとな」
「しかし、逃げれば罪を認めることに――」
ジェラルドは振り向いた。
その目を見て、部下は口を閉じた。
「罪?」
ジェラルドは穏やかに笑った。
「美しいものを集めることが罪なら、この国の貴族はみな罪人だ」
彼は机の上から、一枚の手配書を取った。
白銀狼の女。
その絵姿を見た瞬間、笑みが深くなる。
「だが、彼らは臆病だ。醜い。自分の趣味を愛する覚悟もない」
「……保安官殿」
「私は違う」
ジェラルドは手配書を丁寧に折り畳む。
「私は最後に、最も美しいものを手に入れる」
その時、外から男が入ってきた。
「教会の見張りから連絡です。腹の大きな尼僧は、今日も礼拝堂の奥にいます。警備は薄い。黒牙の群れの主だった者は王都です」
ジェラルドの唇が、ゆっくりと持ち上がる。
「よろしい」
「連れ出しますか」
「傷つけるな。腹の子もだ。あれは大事な餌だ」
部下たちは顔を見合わせた。
ジェラルドは、まるで美しい絵画の構図を考えるように、楽しげに続けた。
「白銀狼は、自分の母を飾られた。だから、妊婦と胎児を見捨てられない。彼女は必ず来る。一人でな」
「なぜ、そう言い切れるのですか」
「愛されている女ほど、自分の命の値段を間違える」
ジェラルドは手配書に口づけた。
「そこが、美しい」
外では、保安官事務所の鐘が鳴り続けていた。
王都で王冠が揺れている頃、ユリベルでは最後の罠が仕掛けられようとしていた。
◇◇◇
王都議事堂の広場には、夕暮れの赤い光が差していた。
ロベルトの提出した証拠は受理された。
王太子付き侍従長アルヴァン・レクトは拘束され、ラドクリフ公爵家とマグラス伯爵家には即時査察が入ることになった。
王太子本人への審問はまだ先になる。
だが、誰もがわかっていた。
ここから先、この国は元には戻らない。
ロイドとビアンカは、教会支部の屋上から広場を見下ろしていた。
人々はまだ帰らない。
泣いている者がいる。怒っている者がいる。手を取り合う者がいる。
そして、名前を読み上げ続ける者がいる。
「聞こえたか」
「ええ」
「あの中に確かにおまえの母の名がある」
ビアンカは頷いた。
胸の奥が痛い。
けれど、その痛みは地下室で感じたものとは違っていた。
硝子の中に閉じ込められていた母が、ようやく外の空気に触れた気がした。
「ロイ」
「なんだ」
「少しだけ、泣いてもいい?」
ロイドは何も言わず、ビアンカを抱き寄せた。
彼の胸に額を押し当てると、ようやく涙が落ちた。
声は出さなかった。
けれど、涙は止まらなかった。
ロイドは彼女の髪に頬を寄せ、ただ抱いていた。
守れなかった過去。
取り戻し始めた名前。
そして、まだ終わっていない戦い。
「全部終わったら」
ビアンカは涙の中で呟いた。
「母さんのお墓を作りたいわ」
「ああ」
「そこに、名前を刻むの。エレノアって」
「俺も手伝う」
「それから、他の人たちの名前も」
「ああ」
ロイドは彼女を抱く腕に力を込めた。
「全部、刻もう」
その時、屋上へ駆け上がってくる足音がした。
ミゲルだった。
息を切らし、顔色を失っている。
「主!」
ロイドの表情が変わる。
「何があった」
ミゲルはビアンカを見た。
その視線だけで、彼女の胸が嫌な音を立てた。
「ユリベルから早馬です。教会が襲われました」
ビアンカの身体が強張る。
「教会……?」
「怪我人は少ない。でも」
ミゲルは言葉を詰まらせた。
ロイドが低く言う。
「言え」
「ミルバが、消えました」
ビアンカの目が見開かれる。
ミルバ。
大きなお腹を抱えて、愛し気に子どものことを考えていた。
ビアンカの手を自分のお腹に当てて、「元気でしょう」と。
「これが、教会に残されていたと」
ミゲルは震える手で、一枚の紙を差し出した。
紙からは、甘い香水の匂いがした。
ビアンカはそれを受け取る。
文字は、美しく整っていた。
――取引がしたい。ナグスの森へ黒狼王一人だけで来い。
ロイドの金色の瞳が、獣のように光った。
「ジェラルド、あいつ……!」
低い唸りが、屋上の空気を震わせる。
ビアンカは紙を握りしめた。
指先が冷えていく。
ビアンカは顔を上げた。
「ロイ。こんなのわかりやすすぎる罠だわ」
ビアンカは、ロイドの手に自分の手を重ねた。
「……わかってる」
けれど、その声を聞いた瞬間、ロイドの瞳が揺れた。
ビアンカは、甘い香水の染みついた紙を見つめた。
ミルバを見捨てることはできない。
お腹の子を、見捨てることもできない。
そして、ロイドを罠に落とすわけにもいかない。
その三つの思いが、彼女の胸の中で静かに重なった。
夜が、また近づいていた。
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