第13話 砕かれる王冠①
その日。王都の朝は、いつもより騒がしかった。
夜のうちに広場へ撒かれた紙片は、すでに町中へ広がっていた。
――獣人は物ではない。
――子どもたちを返せ。
――帳簿を出せ。
――貴族を裁け。
市場の壁に、教会の門に、商人組合の掲示板に、石橋の欄干に。
誰かが剥がしても、また別の誰かが貼っていく。
警備隊が通りを巡回して紙を回収しても、子どもたちの名前は人々の口に残った。
ミラ。
トマ。
エリアス。
保安官事務所に“保護”されたはずの子どもたち。
地下牢から救い出された子どもたち。
そして、まだ帰ってこない子どもたち。
王都議事堂の前には、早朝から人だかりができていた。
職人、商人、教会関係者、貧民街の女たち、耳や尾を布で隠した獣人たち。普段なら議事堂へ近づくことすら遠慮する者たちが、今日は石段の下を埋めている。
彼らの視線の先には、重厚な扉があった。
その扉の奥で、国の形を決めてきた者たちが、今も変わらず椅子に座っている。
ロイドは、議事堂の向かいにある鐘楼の影からその光景を見下ろしていた。
黒い外套をまとい、顔を半分隠している。隣にはビアンカがいた。彼女も深いフードをかぶり、白銀の髪も耳も隠している。
「すごい人ね」
ビアンカが小さく呟いた。
「ああ」
「みんな、誰かが声を上げるのを待っていたのね」
ロイドは答えなかった。
怒りは、急に生まれるわけではない。
ずっと押し込められてきたものが、ようやく出口を見つけただけだ。
ビアンカは、議事堂の扉を見つめていた。
「ロベルト侯爵は、勝てるかしら」
「勝ってもらうために奴と手を組んだんだ。そうじゃなきゃ困る」
ロイドの返事にビアンカは彼を見上げた。
彼がこれからのことを口にする。
「議事堂の中に、王太子派の私兵が紛れている。証拠を奪うか、ロベルトを黙らせに来る可能性がある」
「それで?」
「グルドとミゲルが東口。テルマとネイサが記録室の近く。俺は、ここから全体を見る」
「私は?」
「俺の隣」
即答だった。
ビアンカは一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく笑った。
「おまえはいつだって俺の隣、なんだろう?」
「当然よ」
「俺には、おまえの耳がいる。鐘楼の上なら、議事堂の内側の動きも拾える」
ビアンカはフードの中で耳を動かした。
議事堂の厚い壁の向こう。
低いざわめき。椅子を引く音。紙を置く音。怒鳴り声を押し殺すような貴族たちの声。
そして、金属の擦れる音。
「剣を隠している人がいるわ」
ロイドの目が細くなる。
「何人だ」
「多い。でも、同じ場所に固まっている。右奥……たぶん、王太子派の席の近く」
「わかった」
ロイドは短く遠吠えを漏らした。
人間の耳には届かない、細く低い音。
しばらくして、遠くの屋根の上からテルマが片手を上げた。合図は伝わった。
ビアンカはロイドの横顔を見た。
彼の表情は静かだった。怒りに飲まれてはいない。いつもの冷静な黒狼王の顔だ。
それが、ビアンカには少しだけ嬉しかった。
「約束、守ってるのね」
「何の話だ」
「一人で抱え込まないって話」
ロイドは、わずかに口元を緩めた。
「おまえが隣で睨んでいるからな」
「睨んでないわ」
「睨んでる」
「心配してるの」
「それは俺も同じだ」
二人の視線が重なる。
ほんの短い時間だった。
だがその間だけ、王都の騒ぎも、議事堂の緊張も、遠くなる。
ビアンカは、小さく息を吸った。
「さあ、さっさと終わらせましょう」
「ああ」
ロイドは議事堂へ視線を戻した。
「今日、王冠に罅を入れる」
◇◇◇
議事堂の中は、異様な熱に包まれていた。
円形の議場には、貴族たちが席を連ねている。豪奢な上着、金の飾り、磨かれた靴。どれも、外の広場で声を上げる者たちとは別の世界のものだった。
中央の演壇に立つロベルト・ハネイグ侯爵は、黒い礼装をまとっていた。
彼の前には、封印された帳簿の写し。保安官事務所の地下牢の見取り図。子どもたちの証言書。香水瓶の紋章を写した紙。
そして、教会から提出された行方不明者の名簿がある。
「ロベルト卿」
議長席に座る老貴族が、重々しく言った。
「本日の議題は、国境地域の治安報告であったはずだ。王太子殿下の周辺を名指しするような発言は、軽率では済まされぬ」
「ただの治安報告です」
ロベルトは静かに答えた。
「国境の町ユリベルにおいて、保安官ジェラルド・ワトキンが“保護”を名目に子どもや獣人を監禁し、その身体を売買していた。買い手の記録には、王都の高位貴族、ならびに王太子殿下の私室に出入りする者の名がある」
議場がざわめいた。
「言葉を選べ、ハネイグ侯爵!」
「それは反逆に等しいぞ!」
「証拠はあるのか!」
ロベルトは机上の帳簿を開いた。
「もちろん......あります」
その一言で、議場の空気が変わる。
ロベルトは、淡々と読み上げた。
「ラドクリフ公爵家。狼獣人胸像、保存加工済。金貨百二十枚」
誰かが息を飲む。
「マグラス伯爵家。狐耳幼体、装飾用。金貨四十枚」
「やめろ!」
一人の貴族が立ち上がった。
「そんなものは偽造だ!」
「では、こちらの支払い明細は?」
ロベルトは別の紙を掲げた。
「あなたの家令の署名がある」
貴族の顔から血の気が引いた。
「さらに、香水瓶」
ロベルトは硝子瓶を入れた箱を演壇の上に置いた。
「これはジェラルドの私邸地下室から押収されたものです。底に刻まれた紋章は、王太子殿下の私室へ出入りする者に与えられる印。王都専属工房の作。封蝋も一致している」
議場の奥、王太子派の席に座る男たちが、目を合わせた。
そのうちの一人が、ゆっくりと立ち上がる。
王太子付き侍従長、アルヴァン・レクト。
白髪混じりの男は、落ち着いた笑みを浮かべていた。
「侯爵。たしかに、それは王太子殿下の私室に出入りする者へ支給されるものです。しかし、盗まれた可能性は否定できない」
「そうでしょうね」
ロベルトは頷いた。
「だから、帳簿だけでなく証人を用意しました」
議場の扉が開く。
教会の司教代理と共に、一人の少年が入ってきた。
熱は下がりきっていない。顔色も悪い。だが、彼はしっかりと自分の足で歩いていた。
トマだった。
ビアンカが助け出した、あの少年。
議場が騒然となる。
「子どもを議場へ入れるなど!」
「証言能力があるのか!」
「誰の差し金だ!」
トマは怯えたように肩を震わせた。
その時、傍にいた司教代理が膝を折り、彼の耳元で囁いた。
「怖ければ、黙っていていい。けれど、話したいなら、君の声はここで消されない」
トマは小さく頷いた。
ロベルトが穏やかに問う。
「名を」
「……トマ」
「どこにいた?」
「ユリベルの、保安官事務所の地下」
「何をされた?」
トマの唇が震える。
議場の貴族たちは、沈黙していた。
「名前を、呼ばれなくなった」
トマは言った。
「番号になった。僕は、5番」
誰も笑わなかった。
「一緒にいた子が、何人もいなくなった。夜に連れていかれて、戻ってこなかった」
「誰に?」
「保安官の人たち。あと、甘い匂いのする人」
ロベルトの視線が、王太子付き侍従長へ向かう。
「甘い匂い?」
「甘い花みたいな匂い。気持ち悪い匂い」
議場が再びざわめく。
侍従長の顔から、初めて笑みが消えた。
ロベルトは香水瓶を掲げた。
「この匂いか」
トマは顔を背けた。
「……それ」
その一言は、剣より鋭かった。
議場の空気が、一気に崩れる。
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