第12話 王都の炎②
◇◇◇
王都に着いたのは、翌日の夕刻だった。
高い城壁。石造りの門。幾重にも続く街路。人と馬車と露店の声が混じり、ユリベルとは比べものにならない熱気が押し寄せてくる。
町の中心は華やかだった。
金の装飾を施した馬車が行き交い、香水をまとった貴婦人たちが宝石店へ入っていく。広場では楽師が音を奏で、菓子売りの子どもが声を張る。
そのすぐ横で、薄汚れた獣人の少年が荷車を引かされていた。
華やかさと搾取が、同じ石畳の上に並んでいる。
ビアンカはその光景を見て、胸の奥が冷えた。
「この国は、飾るのが好きね」
ロイドが彼女を見る。
「人も、嘘も、罪も」
ビアンカはそう言って、目を伏せた。
王都の教会支部に入ると、すでにヨナスの使いが届いていた。司教代理、数名の司祭、記録係、そして改革派に近い商人組合の代表が集められている。
ロベルトは到着するとすぐに会議室へ入り、帳簿の写しを広げた。
「これは今夜中に写しを増やす。明朝、議会へ提出する」
商人組合の代表が青ざめた。
「侯爵閣下、本気ですか。王太子派を敵に回すことになります」
「もともと敵だ」
ロベルトの声は冷静だった。
「違うのは、こちらがそれを口に出すかどうかだけだよ」
司教代理が香水瓶の紋章を見て、唇を震わせた。
「これは……」
「見覚えがあるか」
「王太子殿下の私室に出入りする者が使う印です。しかし、これだけでは」
「だから帳簿がある」
ロベルトは紙を置いた。
「そして、地下牢から救い出された子どもたちがいる」
部屋の空気が重く沈む。
ビアンカは、廊下の影からそれを聞いていた。
顔は出さない。
だが、耳はすべて拾っている。
「死者の名は取り戻せるのかしら?」
ビアンカは思わず小さく呟いた。
すぐ隣にいたロイドが、その声を拾う。
「今、ヨナスが集めている」
「間に合う?」
「間に合わせる」
ロイドの声は低かった。
「俺たちが」
その時、外からざわめきが聞こえた。
最初は遠い波のようだった。
それが、次第に大きくなる。
「何?」
ビアンカが窓の方へ向かう。
ロイドが先に外を確認した。
教会前の広場に、人が集まり始めていた。
獣人。平民。商人。職人。女。老人。子ども。
誰かが紙を持っている。
そこには、赤い文字でこう書かれていた。
――獣人は物ではない。
ビアンカは息を呑んだ。
「誰が……」
「テルマだろうな」
ロイドが低く言う。
言葉の通り、広場の屋根の上には、旅芸人風の服を着たテルマがいた。彼女は煙突の陰から次々と紙束をばらまいている。
ネイサは市場の入り口で尼僧に扮し、行方不明になった子どもたちの名を読み上げていた。
「ミラ、七歳。狐獣人。保安官事務所に保護された後、所在不明」
人々が足を止める。
「トマ、九歳。狼獣人。地下牢より救出。重傷」
ざわめきが広がる。
「エリアス、五歳。人間。母親が窃盗罪で拘束された後、保護名目で連行」
「人間の子も?」
誰かが呟いた。
「獣人だけじゃないのか」
「貧しい子を連れて行ったんだ」
「保安官が?」
「王都の貴族が買っていたって」
声が声を呼び、疑いが怒りに変わっていく。
教会の階段に、一人の獣人の女が立った。
痩せた狼獣人の母親だった。手には、しわだらけの小さな帽子を握っている。
「私の娘を返して!」
その叫びは、広場の空気を裂いた。
「保護すると言ったのよ! 安全な場所へ連れていくって! なのに、どこにもいないの! 誰か、娘を見た人はいないの!」
誰も答えられなかった。
女は崩れ落ちるように膝をついた。
その姿を見た瞬間、広場の空気が変わった。
誰かが、拳を上げる。
「子どもを返せ!」
別の誰かが続く。
「獣人を物にするな!」
「貴族を裁け!」
声は一つではなかった。
そしてそれは、同じ方向を向き始めていた。
ビアンカは窓辺に立ちそれを眺めていた。
胸が熱くなる。
怒りだけではない。
悲しみだけでもない。
ずっと押し込められてきた声が、ようやく地上に出てきたのだ。
その時、広場の端に王都警備隊が現れた。
鎧の音。槍の列。指揮官らしい男が声を張る。
「違法な集会だ! 解散しろ!」
人々が怯えて後ずさる。
だが、獣人の母親は動かなかった。
「娘を返して」
警備隊の一人が彼女へ手を伸ばす。
その瞬間、屋根の上から影が落ちた。
テルマだった。
彼女は警備兵の腕を蹴り払い、母親の前に着地する。
「おっと。子どもを奪った次は、母親も黙らせる気?」
「貴様、何者だ!」
「通りすがりの曲芸師でぇす」
テルマは笑った。
「でもって、犬の躾が得意なのよね」
警備兵が剣を抜く。
同時に、路地の向こうからミゲルが荷車を倒した。道が塞がり、警備隊の隊列が乱れる。
ロイドはすでに動いていた。
窓からではなく、裏階段を使って広場へ出る。ビアンカも続こうとしたが、彼に腕を掴まれる。
「待て」
「でも」
「ここで顔を出すな。おまえの手配書は王都にも回っている」
ビアンカは歯を食いしばる。
広場では、警備隊と民衆が押し合いになっていた。
ロイドはビアンカの肩を掴んだ。
「俺が行く。おまえは中で証拠を守れ」
「ロイド」
「約束しただろう。互いに役目を間違えない」
ビアンカは息を呑んだ。
彼の目は静かだった。
怒りに飲まれていない。
ちゃんと、自分を見ている。
「……わかった」
ロイドは頷き、外へ出た。
広場の混乱の中、黒い影が走る。
彼は剣を抜かなかった。警備兵の槍を弾き、足を払う。民衆に向けられた刃だけを正確に叩き落とす。誰も殺さない。だが、誰にも進ませない。
その姿を見て、誰かが叫んだ。
「黒狼王だ!」
広場の声が一瞬止まる。
ロイドはその名に振り返らなかった。
ただ、警備隊の前に立ち、低く告げた。
「ここにいる者へ刃を向けるなら、相手は俺だ」
警備隊の指揮官が青ざめる。
黒狼王の名は、王都にも届いていた。
義賊。反逆者。獣人たちの王。貴族の倉を破る黒い影。
その全てが、今、目の前に立っている。
「捕らえろ!」
指揮官が叫ぶ。
だが、兵たちはすぐには動かなかった。
その背後で、教会の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
鐘の音に合わせるように、教会の扉が大きく開く。
ロベルト・ハネイグ侯爵が、階段の上へ姿を現した。
その手には、王都査察令と、封印された帳簿の写しがあった。
「この場にいる全員、聞け!」
侯爵の声が広場へ響いた。
「ユリベル保安官事務所の地下牢から、違法に監禁されていた子どもたちを保護した。さらに、獣人の身体を売買した帳簿が見つかった」
ざわめきが爆発する。
ロベルトは続けた。
「この件には、王都の高位貴族の名がある。王太子周辺の者の関与を示す証拠もある」
警備隊の指揮官が叫んだ。
「侯爵! それ以上は反逆にあたります!」
ロベルトは彼を見下ろした。
「反逆とは、王を正す言葉を封じることか。それとも、子どもを地下に閉じ込め、獣人を飾り物として売ることか」
広場が静まり返る。
「私は明朝、議会にこの証拠を提出する。妨害する者は、死者と子どもたちの声を潰す者として名を残すことになる」
誰も動けなかった。
その沈黙の中で、ビアンカは教会の影からロベルトを見ていた。
貴族が、貴族を裁こうとしている。
黒牙の群れだけでは届かなかった場所へ、ようやく刃が伸びていく。
ロイドが振り返り、ビアンカのいる窓を見上げた。
一瞬だけ、視線が合う。
ビアンカは小さく頷いた。
ロイドもまた、わずかに頷き返す。
その時、王都のどこかで、また別の鐘が鳴った。
まるで、火が別の場所へ移ったことを知らせるように。
◇◇◇
同じ頃。
ユリベルの保安官事務所では、ジェラルド・ワトキンが静かに机の前に立っていた。
机の上には、王都から届いた一通の書簡がある。
封蝋は、彼がよく知る貴族のものだった。
内容は短かった。
――本件は、貴殿の私的趣味による単独犯行として処理される。
ジェラルドは、しばらくその文面を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「切るのが早いな」
声には怒りがなかった。
むしろ、楽しげですらあった。
部下の一人が震えながら言う。
「保安官殿、王都では騒ぎが……ハネイグ侯爵が証拠を……」
「知っている」
「では、どうなさいますか。帳簿が出れば、我々は――」
ジェラルドは部下を見た。
その目だけで、男は言葉を失った。
「帳簿など、いくらでも燃やせる。証人も黙らせればいい。だが、黒狼王を本当に壊すには、帳簿では足りない」
彼は机の上に置いていた手配書を取った。
白銀狼の女。
美しく描かれた、ビアンカの絵姿。
ジェラルドはその口元を指でなぞる。
「王都から火が出たなら、こちらも火をつければいい」
「火、ですか」
「黒狼王は、国のために怒っているわけじゃない」
ジェラルドは笑った。
「この女のために怒っているのさ」
部下の顔が青ざめる。
「まさか……」
「花嫁を奪えば、王は理性を捨てる」
ジェラルドは手配書を折り畳み、懐にしまった。
「準備しろ。教会を見張れ。特に、あの腹の大きな尼僧だ」
「尼僧?」
「あの白銀狼は、弱い者を見捨てられない性分のようだからな」
ジェラルドの唇に、薄い笑みが浮かぶ。
「だから美しいく、そして愚かなのさ」
窓の外では、王都の騒ぎを知らせる早馬が走り去っていく。
国が揺れ始めていた。
貴族たちは互いを切り捨て、民衆は声を上げ、改革派は議会へ証拠を運ぶ。
だが、ジェラルドの目は、もう国など見ていなかった。
彼が見ているのは、ただ一人。
黒狼王の花嫁。
そして、その花嫁を奪われた時の、王の顔だった。
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