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獣の王は花嫁にもう一度恋をする  作者: けもこ


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第11話 王都の炎①

夜明けの教会には、子どもたちの泣き声が満ちていた。


地下牢から救い出された子どもたちは、礼拝堂の奥に敷かれた毛布の上で肩を寄せ合っていた。

眠っている子もいる。熱にうなされている子もいる。誰かの袖を握ったまま離さない子もいた。


マチルダは尼僧たちに指示を出し、湯を運ばせ、傷を洗い、薄い粥を配らせている。


「怖かったわね。もう大丈夫よ」


子どもの手首に残る縄の跡を見た瞬間、彼女の目元はかすかに歪んだ。


ビアンカは、熱のある少年のそばに膝をついていた。


額に冷たい布を当てると、少年は小さく身じろぎし、薄く目を開けた。


「……また、どこかに連れていかれるの?」


かすれた声だった。


ビアンカの胸が詰まる。


「いいえ」


彼女はできるだけ穏やかに答えた。


「もう誰にも連れていかせないわ」


少年は信じていいのかわからない顔をしたまま、ビアンカの指を握った。


その指は驚くほど細かった。


ビアンカは、その手をそっと包み込む。


「名前を教えてくれる?」


「……トマ」


「トマ。いい名前ね」


少年の瞳が、少しだけ揺れた。


名前を呼ばれることに、慣れていないような顔だった。


その様子を、入口近くでロイドが見ていた。


トマの様子から目を上げたビアンカの視線と彼の視線が交じり合う。


彼の頬には昨夜の戦いでついた浅い傷が残っている。ビアンカは何度も手当てをすると言ったが、彼は「後でいい」と言って動き続けていた。


後で。


その言葉が、ビアンカは嫌いだった。


後で、と言う者ほど、自分のことを後回しにする。


「ロイド。来て」


短く言うと、ロイドは少し不思議そうな顔をしながらも近づいてくる。


ビアンカはトマの手を毛布の下へ戻し、立ち上がった。


「傷を見せて」


「今は俺のことはいいよ」


「ダメよ」


ビアンカは譲らなかった。


ロイドは少しだけ困ったように眉を寄せる。


「かすり傷だ」


「かすり傷でも、血が出ているわ」


「ヴィー」


「子どもたちの前で、血の匂いをさせたまま立っていないで」


その一言で、ロイドは黙った。


ビアンカは彼を礼拝堂の隅へ連れていき、湿らせた布で頬の血を拭う。傷は深くない。それでも、彼が傷ついていることに変わりはなかった。


「痛む?」


「このくらいで痛いはずがないだろ」


「嘘」


そう言うとビアンカは、わざと傷口に消毒薬をつけた。


「っ......痛いよ、ヴィー」


「最初からそう言って」


ロイドは小さく息を吐いた。


「おまえは、子どもたちの前では強いな」


「あなたの前でも強いわよ」


「俺の前でだけは、弱くていいんだよ」


ビアンカの手が止まる。


ロイドは、真正面から彼女を見ていた。


その瞳には、昨日の地下室から続く痛みがまだ沈んでいる。


ビアンカは今までにないほどに心に深い痛手を負った。ロイドはそれを癒したかった。


「……あなたもよ」


ビアンカは低く言った。


「私の前では、怒ってもいいし、怖がってもいい。全部、一人で飲み込まないで」


ロイドは答えなかった。


代わりに、ビアンカの手首にそっと触れる。


その時、礼拝堂の扉が開いた。


ヨナスが入ってくる。片腕のない司祭の後ろには、ロベルト・ハネイグがいた。昨夜よりも整った服装をしているが、顔に疲れが見える。


その隣には、数名の護衛と、記録係らしき若い男たちが控えていた。


「子どもたちの証言を取りたいそうだ」


ヨナスが言った。


ビアンカの表情が硬くなる。


「今? こんな状況なのに」


「全員ではない。話せる子だけだ。無理はさせない」


ロベルトが静かに続けた。


「時間がない。保安官事務所はすでに襲撃を把握している。ジェラルドは、証拠を消しに来るか、子どもたちを取り戻そうとするだろう」


ロイドの瞳が鋭く光り、口調が固くなる。


「来るなら迎え打つ」


「ここを戦場にするな」


ヨナスが即座に言った。


「わかっているさ」


ロイドは低く返す。


ロベルトは机代わりに置かれた長椅子の上へ、いくつもの写しを並べた。


地下室から持ち出した帳簿。

保安官事務所の地下牢の鍵。

子どもたちの名簿。

香水瓶に刻まれた王太子周辺の紋章。


それらは、昨夜まで闇の中にあった。


だが今、蝋燭の光の下で、ひとつの形を取り始めている。


「証拠は三方向へ運ぶ」


ロベルトが告げた。


「一つは王都の議会へ。私が直接持つ。一つは教会本部へ。ヨナスの名で送る。一つは商人組合と各地の獣人集落へ流す。貴族が握り潰す前に、民の耳へ届かせる」


テルマが腕を組んで、にやりと笑う。


「つまり、町中にばらまくってことですね」


「言い方は悪いが、そうだ」


ロベルトは否定しなかった。


「真実は、貴族の机の中に置いた瞬間から腐る。だから、人の口に乗せる」


「いいですね。そういう汚いやり方、嫌いじゃないです」


「褒め言葉として受け取ろう」


そのやり取りに、ネイサがほんの少しだけ笑った。


けれどすぐに、礼拝堂の奥から小さな泣き声が聞こえ、空気はまた重くなる。


ビアンカは、子どもたちを見つめた。


この子たちを証拠として扱われるのは、不本意だ。


けれど、この子たちの声がなければ、大人たちはいくらでも嘘をつく。


「私も王都へ行くわ」


ロイドが即座に振り向いた。


「ダメだ」


「まだ何も言ってない」


「言っただろう」


「証拠を見つけたのは私よ。匂いも、帳簿も、香水瓶も、私が繋げた。私が証言する」


「おまえは狙われている」


「だから?」


ビアンカの声は静かだった。


「狙われているから隠れるの? そうしたら、あの部屋にいた人たちは誰が名前を取り戻すの?」


ロイドの喉が低く鳴る。


ヨナスが二人の間に入った。


「そうだな。ビアンカが王都へ行くというのはいいかもしれない。子どもたちの護衛と証拠の保全を兼ねるなら最適だろう。だが、表に出る必要はない」


「ヨナス」


「彼女の証言は必要だ。ただし、議会の前に立たせるのは最後の手段だ。まずは私が動く。黒牙の群れは裏から証人と証拠を守る」


ロベルトも頷いた。


「王都はユリベルより人目が多い。隠れる場所も多いが、敵も多い。それはわかっている。だが、我々は可能な限り最善で最速の動きをすべきだ」


そこまで話が進んでも、ロイドは納得していない顔だった。


ビアンカはその手に触れる。


「子どもたちと一緒に行くわ」


「俺から離れるな」


「ええ」


「絶対に」


「絶対に」


ロイドは、まだ何か言いたそうだった。


けれど、子どもたちの前ではそれ以上言わなかった。


◇◇◇


王都へ向かう馬車は、昼前にユリベルを出た。


表向きは、教会の救護馬車だった。傷を負った子どもたちを別の療養所へ移すという名目で、数台の馬車が街道を進む。


先頭にはロベルトの紋章を掲げた馬車。


その後ろに、子どもたちを乗せた教会の馬車。


さらに後方に、荷物を積んだ商人の馬車が二台。


だが、荷物の中身は食料だけではない。


帳簿の写し。証言の控え。行方不明者の名簿。地下牢の見取り図。香水瓶の紋章を写した紙。


そして、それらを守るために周囲に黒牙の群れが散っていた。


グルドは先頭近くで御者に扮し、ミゲルは後方の荷馬車を見張る。テルマとネイサは尼僧の服を着て子どもたちの世話をしていた。


ロイドとビアンカは、荷馬車の持ち主である商人夫婦に扮していた。


ビアンカは焦げ茶の髪のかつらを被り、耳を布で隠している。ロイドも黒い髪を帽子で押さえ、眼鏡をかけていたが、気配は隠しきれない。


「ロイは、絶対に商人には見えないわ」


ビアンカが小声で言う。


「そうか」


「どちらかというと、商人を脅している人よ」


「......否定したいとこだけど、納得だ。こういう変装は向いていないな」


「ええ。まったく」


そう言って、二人は笑い合った。


緊張した空気が二人の間でだけ、ほんの少しほどけた気がした。


地下室を出てから、ロイドの顔はずっと硬かった。怒りと恐怖を、奥歯で噛み潰し続けているような顔。

けれど今、その横顔に一瞬だけ、いつものロイドが戻った。


「終わったら」


ビアンカはぽつりと言った。


「少し、遠くへ行きたいわ」


ロイドが彼女を見る。


「どこへ」


「どこでもいいの。あなたが眠れるところ」


ロイドは黙った。


ビアンカは視線を前へ戻す。


「あなた、ずっと眠れていないでしょう」


「おまえもだろ」


「私は、眠っているあなたが隣にいれば眠れるのよ」


「俺もそうだ」


しばらく沈黙が流れた。


馬車の車輪が、乾いた街道を鳴らす。


ロイドは前を向いたまま、低く言った。


「全部終わったら、少し休もう」


「約束?」


「約束だ」


ビアンカは小さく頷いた。


その約束がどれほど遠いものか、二人ともわかっていた。


それでも、口にしなければ前へ進めない未来がある。

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