出立前の宴
耶馬台国への出立を目前に控えた宵――
投馬の宮は、いつになく熱気に包まれていた。
広間の中央には篝火が据えられ、赤々と燃える炎が、梁へ揺れる影を映し出している。
火の爆ぜる乾いた音は、人々の話し声や笑い声と溶け合い、宴の賑わいをいっそう深めていた。
篝火を囲むように、磨き上げられた低い膳がいくつも並べられている。
その上には、さまざまなご馳走が所狭しと並んでいた。
炙られた鹿肉からは、じゅう、と脂の落ちる音が絶えない。
火に落ちた脂が煙を立ち上らせ、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
魚は串に刺したまま火のそばへ並べられ、弾けた皮の隙間から白い身がのぞいていた。
腹に詰めた香草は熱で蒸され、ほろ苦い香りが酒の匂いを引き立てる。
そして――果実酒。
少し濁った酒は、火の明かりを受けて鈍く光っていた。
杯を近づけるだけで、甘さと酸味が混じり合った香りが立ち上り、思わず喉が鳴る。
広間のざわめきは絶えない。
杯が触れ合う音。
笑い声。
誰かの大声。
遠くでは、歌い始める者までいる。
その賑わいの中で――
「アサ! 飲んでるか!」
ひときわ大きな声が飛んだ。
振り向くと、頬を赤く染めた浮羽が、片手に杯を掲げて立っていた。
普段の張り詰めた美貌は影を潜め、どこか無防備な艶が滲んでいた。
ぐい、と肩を引き寄せられる。
思ったより強い力に、アサの体がよろめく。
「ほら!」
押しつけられた杯から酒がこぼれ、冷たい雫が指先を伝った。
「遠慮すんな! 飲め飲め!」
陽気というより、すっかり絡み酒だ。
「今のうちに精をつけとけ! 耶馬台国までの道は長いんだからな!」
ぐっと顔を寄せてくる。
酒の匂いが濃く、熱い息がかかる。
「生きて着けるかもわからんぞ! 今くらい飲んどけ!」
冗談めいた言葉。
けれど、その奥にある現実を、ここにいる誰もが知っていた。
その時――
「物騒なことを言うな」
低く落ち着いた声が割って入る。
ミナギだった。
静かな口調なのに、不思議と逆らえない強さがある。
「お前を信じて預けるんだ」
真っすぐな視線が浮羽へ向けられた。
「アサの身に何かあれば――承知せんぞ」
その低い声は、賑やかな広間の中でも、不思議なほどはっきりと響いた。
火の爆ぜる音の合間を縫うように、重く静かに落ちていく。
浮羽は一瞬、きょとんと目を丸くした。
言葉の意味が遅れて届いたような顔だった。
だが、次の瞬間。
「はあ?」
ぐっと眉を吊り上げる。
芝居がかったほど大げさに、わざとらしく。
「誰に向かって言ってるんだ、ミナギ!」
掲げた杯が火を映して揺れる。
中の酒は縁ぎりぎりまで波打ち、今にもこぼれそうだ。
体もぐらりと揺れる。
足元は頼りなく、それでも倒れないのは、妙な体幹の強さゆえか。
「この私がついてて、どうにかなるわけないだろ!」
言い切る。
堂々と。
何の迷いもなく。
つい先ほどまで「生きて帰れるかわからん」と言っていた口とは思えない。
アサは思わず、ぽかんと浮羽を見つめる。
(……こんな人だったんだ)
もっと冷たく、隙のない人だと思っていた。
それが今は、酒に頬を染め、大声で笑い、子どものように怒っている。
その意外な姿に、アサの胸から少しだけ力が抜けた。
だが――
「……命に代えても、連れて帰る」
ふいに落ちた浮羽のひと言で、空気が変わる。
酔った勢いの言葉に聞こえるはずなのに。
なぜか、その重みだけは消えなかった。
火の爆ぜる音が、急に遠く感じられる。
浮羽は笑っている。
口元はさっきと変わらない。
けれど、その瞳だけは少しも揺れていなかった。
冗談では終わらない覚悟が、そこにはあった。
アサの胸が、じんわりと熱くなる。
広間は相変わらず騒がしい。
笑い声も、酒の匂いも、篝火の熱も変わらない。
けれど――その中心にあるのは、ただの浮かれた宴ではなかった。
別れを前にした、わずかな猶予。
そして、それぞれが抱える覚悟の気配。
ごくり、と小さく喉が鳴る。
アサは杯を見下ろした。
濁った果実酒が、火の赤を映して静かに揺れている。
そのまま、迷いを振り切るように――
ぐい、と杯を傾けた。
酒が一気に流れ込む。
舌に触れた瞬間、強い酸味が弾けた。
少し遅れて、発酵した甘みと、かすかな渋みが広がる。
それらが混ざり合い、容赦なく口いっぱいに満ちた。
思わず目を細める。
それでも止めない。
熱い酒が喉を焼くように落ちていく。
最後の一滴まで飲み干した。
杯の底が見える。
アサは、ふう、と息を吐いた。
胸の奥がじんわりと熱い。
少し遅れて、頭がふわりと軽くなる。
「……ッ……」
かすれた声が漏れた。
けれど。
口元には、ほんの少し笑みが浮かんでいた。
さっきまで胸を締めつけていた緊張が、少しだけほどけていく。
火の揺らぎも、人々の笑い声も、どこか柔らかく遠く聞こえた。
その様子を見て、浮羽が声を上げて笑う。
「はは! いい飲みっぷりだ!」
ばしん、と遠慮なく背中を叩かれる。
その衝撃で、視界がまた少し揺れた。
「そうでなくちゃな! もっと行け! もっと!」
「無茶を言うな」
すぐさまミナギが口を挟む。
そのやり取りに、周囲からどっと笑いが起こった。




