知らぬ過去
宴は相変わらず続いていた。
誰かが太鼓のように器を叩き、別の誰かが調子外れの歌を乗せた。
火の揺らぎを背に受けて、ミナギの瞳がこちらを捉えていた。
騒がしさの中にあって、その視線だけが妙に静かで、まっすぐに落ちてくる。
「飲みすぎるなよ」
優しい声。
それだけで胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
アサは小さく頷く。
何かを言おうとして、言葉が喉に引っかかる。
伝えたいことはあるはずなのに、うまく形にならない。
その時――
「なーに神妙な顔してんだ、お前ら」
ずい、と横から顔が割り込んできた。
浮羽だった。
頬を赤く染めたまま、にやりと口元を歪める。
明らかに、面白がっている顔だ。
「こういう時はな、もっとこう――」
と、言いながら、二人の肩にそれぞれ腕を回そうとする。
「……寄るな」
「固い固い!」
ミナギの即座の拒絶を、浮羽はまるで意に介さない。
「ほら、まだ全然減ってないじゃないか。飲め飲め」
「余計な世話だ」
間髪入れず、ミナギが素っ気なく返した。
だが浮羽は、むしろ楽しげに片眉を上げた。
「余計な世話、ねえ……」
くっ、と喉で笑う。
「昔はあんなに甘えてきたくせに」
ぴたり、と空気が止まる。
「……何を――」
ミナギの声が、ひときわ低くなる。
「決まってるだろ。夜だよ、夜」
浮羽は、ひらひらと指先を遊ばせながら、にやりと笑った。
「雷が鳴った夜だったか? それとも風の強い夜だったか――」
「浮羽」
低い声。
明確な制止。
だが、浮羽は止まらない。
「怖い怖いってベソかきながら――」
わざとらしく声を潜める。
「私の寝床に潜り込んできてたじゃないか」
空気が、一瞬止まった。
「――いつの話をしている!」
ミナギの声が鋭く跳ねた。
珍しく、感情が露わになっている。
普段の揺るがぬ冷静さが崩れていた。
「可愛かったなあ。あの頃はまだ――」
「……黙れ」
低く、押し殺すような声。
だがその声音には、どこか居心地の悪さが混じっていた。
アサは――
ただ、固まっていた。
視線が、思わずミナギへ向かう。
ミナギは、わずかに顔を背けていた。
火の光が横顔を照らす。
その表情は読み取りにくい。
だが、耳のあたりが――ほんのわずか、赤いように見えた。
「……子どもの頃の話だ」
「へえ?」
浮羽が、さらに追い打ちをかけるように口を開く。
「じゃあ今は怖くないのか?」
「浮羽」
「夜、一人でも平気か?」
「いい加減に――」
「雷鳴ったらどうする?」
「貴様……!」
とうとうミナギが一歩踏み出す。
その様子に、周囲からまた笑いが起こる。
完全に、からかわれている。
火の周りの空気は、さっきまでよりもさらに軽く、ほどけていた。
――その中で。
アサだけが、ほんのわずかに取り残されたような感覚を覚えていた。
浮羽は遠慮がない。
ミナギも、それを本気で拒んでいるわけではない。
あそこまで、無防備な過去を口にされても。
(……知らない)
そんな話。
夜が怖くて眠れなかったことも。
誰かの寝床に潜り込んでいたことも。
自分は、何ひとつ知らない。
ぐ、と指先に力が入る。
空になった杯の縁が、かすかに鳴った。
浮羽とミナギのやり取りは、まだ続いている。
「だから言ってるだろ、あの頃は――」
「過去の話だ」
「今でも怖かったら言えよ? 添い寝くらいしてやるぞ?」
「誰が頼むか!」
また笑いが起こる。
胸の奥が、ちくりと痛む。
理由は――わかっている。
けれど、認めるのは少し悔しい。
アサの唇がわずかに尖る。
「……仲、良いんだ」
ぽつり、と。
気づけば口に出してしまっていた。
言ってから、ハッとする。
今のは。
どう考えても――
拗ねているようにしか聞こえない。
ミナギの動きが、ぴたりと止まる。
浮羽は一瞬きょとんとして、次の瞬間にやりと笑った。
「お? なんだ、妬いてるのか?」
「……ちがいます!」
思ったより強い声が出た。
一瞬、周囲の視線が集まる。
しまった、と思う。
だが――もう遅い。
浮羽は、ますます面白そうに笑った。
「ははは! 可愛いヤツだな、お前は!」
ひょい、と覗き込まれる。
視線が泳ぐ。
落ち着かない。
その時――
「浮羽」
低く、押さえた声。
ミナギだった。
さっきまでとは違う。
明らかに、線を引く声音。
「それ以上はやめろ」
短く、だがはっきりと告げる。
浮羽は一瞬だけ目を細めて――
「はいはい。怖い怖い」
やれやれと肩をすくめた。
アサは、いたたまれずに視線を落とした。
頬が熱い。
酒のせいだけではないと、はっきりわかる。
(……何やってるんだろう、私)
胸の奥が、じくりと疼く。
あんな言い方をするつもりじゃなかった。
ただ――ほんの少し、引っかかっただけなのに。
それが、そのまま声に出てしまった。
子どもみたいだ。
ぐ、と唇を噛む。
(……嫌だ)
こんなふうに、感情を持て余す自分が。
もう一度だけ、顔を上げる。
ミナギと、目が合いそうになって――
反射的に逸らした。
これ以上ここにいたら、余計に何かをこぼしてしまいそうだった。
すっと立ち上がる。
ざわめきの中に紛れるようにして、その場を離れた。




