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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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溢れる



 広間《ひろま》の外《そと》は、ひやりとしていた。


 夜風《よかぜ》が頬《ほお》に触《ふ》れる。


 火照《ほて》った熱《ねつ》を、ゆっくりと冷《さ》ましていく。



「……はあ」


 深《ふか》く、息《いき》を吐《は》く。


 肺《はい》の奥《おく》まで、冷《つめ》たい空気《くうき》が満《み》ちる。


 空《そら》を見上《みあ》げると、雲《くも》の切《き》れ間《ま》からわずかに星《ほし》が覗《のぞ》いていた。


 遠《とお》くで、風《かぜ》が木々(きぎ)を揺《ゆ》らす音《おと》がする。


 さっきまでの喧騒《けんそう》が、嘘《うそ》みたいに遠《とお》い。


 腕《うで》をさすりながら、柱《はしら》にもたれかかる。



(……仲《なか》がいいのは、当《あ》たり前《まえ》だ)


 浮羽《うきは》は、昔《むかし》のミナギを知《し》っている。


 自分《じぶん》の知《し》らない時間《じかん》を、共有《きょうゆう》している。


 それは、どうしたって埋《う》まらないものだ。


(――わかってる)


 頭《あたま》では。


 けれど。


 胸《むね》の奥《おく》は、まだ少《すこ》しだけざわついていた。



 夜風《よかぜ》が、また吹《ふ》く。


 髪《かみ》が頬《ほお》に触《ふ》れ、冷《つめ》たさがわずかに現実《げんじつ》へと引《ひ》き戻《もど》す。



 その時《とき》――


 背後《はいご》で、かすかに足音《あしおと》がした。


 砂《すな》を踏《ふ》む、乾《かわ》いた音《おと》。


 ひとつ。


 またひとつ。


 近《ちか》づいてくる。


 心臓《しんぞう》が、どくりと跳《は》ねる。


 振《ふ》り向《む》かなくても、わかる。



「――アサ」


 低《ひく》く、落《お》ちる声《こえ》。


 やはり、ミナギだった。


 来《き》てほしいと、思《おも》っていた。


 来《こ》ないでほしいとも、思《おも》っていた。


 相反《あいはん》する感情《かんじょう》が、胸《むね》の中《なか》でぶつかる。


 アサは、ゆっくりと息《いき》を吸《す》い――


 それでも、振《ふ》り向《む》かなかった。


 今《いま》、顔《かお》を見《み》たら。


 きっとまた、余計《よけい》なことを言《い》ってしまう。


 言《い》わなくていいことまで、全部《ぜんぶ》。



 夜風《よかぜ》が、二人《ふたり》の間《あいだ》を抜《ぬ》けていく。


 耐《た》えきれず、アサはぎゅっと目《め》を閉《と》じた。


 ほんのわずかに。


 アサの身体《からだ》が、後《うし》ろへと傾《かたむ》く。


 逃《に》げるようで、けれど逃《に》げきれない動《うご》き。


 その瞬間《しゅんかん》――


 背《せ》に、温《ぬく》もりが触《ふ》れた。


 強《つよ》くはない。


 だが、確《たし》かな支《ささ》え。


「……泣《な》くくらいなら、最初《さいしょ》からこっちを向《む》け」


 その言葉《ことば》に――


 はっとする。


 頬《ほお》に触《ふ》れた風《かぜ》が、やけに冷《つめ》たい。


 そこでようやく、自分《じぶん》の顔《かお》が濡《ぬ》れていることに気《き》づいた。



 ――泣《な》いている。



 その事実《じじつ》が、遅《おく》れて胸《むね》に落《お》ちてくる。


「……あ」


 かすかな声《こえ》が、漏《も》れる。



 どうして。


 いつから。


 わからない。


 ただ、胸《むね》の奥《おく》にずっと溜《た》め込《こ》んでいたものが、知《し》らないうちに溢《あふ》れていくようだった。



 小《ちい》さく、肩《かた》が震《ふる》える。


 背《せ》にある温《ぬく》もりが、逃《に》げ場《ば》を塞《ふさ》ぐようで。


 けれど同時《どうじ》に、崩《くず》れることを許《ゆる》してくる。


「……やだ」


 ぽつりと零《こぼ》れる。


 何《なに》が嫌《いや》なのか、自分《じぶん》でもはっきりしないまま。


「こんなの……」


 喉《のど》の奥《おく》がひくつく。


 こらえようとするほど、余計《よけい》にこみ上《あ》げてくる。


「何《なに》が嫌《いや》なんだ」


 低《ひく》く、逃《に》がさない問《と》い。


 その一言《ひとこと》に――


 止《と》めていたものが、崩《くず》れた。



「……嫌《いや》なの」


 声《こえ》が、震《ふる》える。


 うまく息《いき》が吸《す》えない。


 喉《のど》が締《し》めつけられるようで――


 それでも言葉《ことば》は堰《せき》を切《き》ったように止《と》まらなかった。



「離《はな》れるのが、嫌《いや》なの……!」



 言《い》ってはいけないと思《おも》っていたこと。


 飲《の》み込《こ》むべきだと思《おも》っていたこと。


「本当《ほんとう》は、行《い》きたくない……」


 顔《かお》を上《あ》げる。


 涙《なみだ》で滲《にじ》んだ視界《しかい》の向《む》こう。


 揺《ゆ》らめく火《ひ》の残光《ざんこう》を背《せ》に、ミナギが立《た》っている。


「ずっと……ここにいたい」


 胸《むね》を押《お》さえる。


「ミナギの、そばに……!」


 ぐちゃぐちゃにかき乱《みだ》される感情《かんじょう》。


 何《なに》が何《なん》だかわからないほど、絡《から》み合《あ》っている。


 涙《なみだ》で視界《しかい》が歪《ゆが》む。


 それでも――


 もう、隠《かく》せなかった。


 押《お》し殺《ころ》してきたすべてが、決壊《けっかい》する。



「……好《す》き……」



 ようやく零《こぼ》れたその一言《ひとこと》は、ひどく弱《よわ》くて。


 けれど同時《どうじ》に、何《なに》よりも真《ま》っ直《す》ぐだった。


「ずっと……ずっと好《す》きだった……」


 呼吸《こきゅう》が乱《みだ》れる。


 胸《むね》が痛《いた》い。


 苦《くる》しい。


 だが、止《と》められない。


「どうしようもないくらい……!」


 声《こえ》が崩《くず》れる。


 涙《なみだ》が頬《ほお》を伝《つた》い、顎《あご》から落《お》ちる。


 ぐしゃぐしゃに顔《かお》を歪《ゆが》めながら、それでも言葉《ことば》を絞《しぼ》り出《だ》す。


「でも……っ」


 息《いき》が、うまく吸《す》えない。


「全部《ぜんぶ》、わかってるから……!」


 震《ふる》える指先《ゆびさき》。


「ミナギの立場《たちば》も……私《わたし》がやらなきゃいけないことも……!」


 叫《さけ》ぶように。


「行《い》かなきゃいけないって、わかってるのに……!」


 拳《こぶし》を握《にぎ》りしめる。


 爪《つめ》が食《く》い込《こ》む。


 その痛《いた》みすら、感《かん》じない。


「決《き》めたのは自分《じぶん》なのに……」



 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》。


 ぐい、と腕《うで》を引《ひ》かれた。 


「――っ」


 息《いき》が詰《つ》まる。


 視界《しかい》が揺《ゆ》れる。 


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》には、強《つよ》く引《ひ》き寄《よ》せられていた。 


 抗《あらが》う間《ま》もなく、胸《むね》の内《うち》へと抱《だ》き込《こ》まれる。


 力強《ちからづよ》い。


 逃《に》がさないとでも言《い》うように。


 背《せ》に回《まわ》された腕《うで》が、容赦《ようしゃ》なく締《し》まる。


 心臓《しんぞう》の音《おと》が、近《ちか》い。


 ぶつかるほどに。


 重《かさ》なるほどに。



「……っ、ミナ――」



 呼《よ》びかけた名前《なまえ》は、最後《さいご》まで届《とど》かなかった。


 唇《くちびる》が、塞《ふさ》がれる。


 ためらいもなく。


 確《たし》かめる余地《よち》もなく。


 奪《うば》うように――


 噛《か》みつくように、重《かさ》ねられる。


「――っ……!」


 息《いき》が止《と》まる。


 思考《しこう》が白《しろ》く弾《はじ》ける。 


 けれど、離《はな》れない。


 むしろ――深《ふか》くなる。


 強《つよ》く、逃《に》げ場《ば》を塞《ふさ》ぐように。


 拒《こば》む隙《すき》など与《あた》えず、感情《かんじょう》ごと押《お》し込《こ》まれる。


 熱《あつ》い。


 荒《あら》い。


 ぶつかる。


 押《お》し寄《よ》せる。


 言葉《ことば》にならなかったものすべてが、そこにある。


 触《ふ》れ方《かた》の奥《おく》に。


 息《いき》の混《ま》じり方《かた》に。


 抑《おさ》えきれなかった何《なに》かが、剥《む》き出《だ》しのまま。



 やがて、わずかに離《はな》れる。


 息《いき》が絡《から》む。


 近《ちか》すぎて、視界《しかい》が揺《ゆ》れる。


 ミナギの呼吸《こきゅう》も、荒《あら》い。


 こんな姿《すがた》――見《み》たことがない。


 常《つね》に静《しず》かで、揺《ゆ》るがないはずのその人《ひと》が。


 今《いま》は、確《たし》かに乱《みだ》れている。



「……わかっているなら」


 低《ひく》く、掠《かす》れた声《こえ》。


 怒《おこ》っているようで。


 それ以上《いじょう》に、何《なに》かを必死《ひっし》に押《お》し殺《ころ》している響《ひび》き。


「そんなことを言《い》うな」


 抱《だ》きしめる腕《うで》が、さらに強《つよ》くなる。


 骨《ほね》がきしむほどに。


「俺《おれ》が――」


 一瞬《いっしゅん》、言葉《ことば》が途切《とぎ》れる。


 喉《のど》の奥《おく》で、何《なに》かを噛《か》み締《し》めるように。


「……離《はな》せると思《おも》うか」


 その声《こえ》は、低《ひく》く。


 重《おも》く。


 決《けっ》して揺《ゆ》るがないものとして、落《お》ちた。


 腕《うで》の力《ちから》が、さらに強《つよ》まる。


 まるで最初《さいしょ》から――


 離《はな》す気《き》など、欠片《かけら》もなかったかのように。



 夜風《よかぜ》が、また強《つよ》く吹《ふ》く。


 冷《つめ》たいはずのその風《かぜ》は、二人《ふたり》の間《あいだ》をすり抜《ぬ》けていく。



 それでも――


 その内《うち》にある熱《ねつ》だけは。


 決《けっ》して、冷《さ》めることはなかった。



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