溢れる
広間の外は、ひやりとしていた。
夜風が頬に触れる。
火照った熱を、ゆっくりと冷ましていく。
「……はあ」
深く、息を吐く。
肺の奥まで、冷たい空気が満ちる。
空を見上げると、雲の切れ間からわずかに星が覗いていた。
遠くで、風が木々を揺らす音がする。
さっきまでの喧騒が、嘘みたいに遠い。
腕をさすりながら、柱にもたれかかる。
(……仲がいいのは、当たり前だ)
浮羽は、昔のミナギを知っている。
自分の知らない時間を、共有している。
それは、どうしたって埋まらないものだ。
(――わかってる)
頭では。
けれど。
胸の奥は、まだ少しだけざわついていた。
夜風が、また吹く。
髪が頬に触れ、冷たさがわずかに現実へと引き戻す。
その時――
背後で、かすかに足音がした。
砂を踏む、乾いた音。
ひとつ。
またひとつ。
近づいてくる。
心臓が、どくりと跳ねる。
振り向かなくても、わかる。
「――アサ」
低く、落ちる声。
やはり、ミナギだった。
来てほしいと、思っていた。
来ないでほしいとも、思っていた。
相反する感情が、胸の中でぶつかる。
アサは、ゆっくりと息を吸い――
それでも、振り向かなかった。
今、顔を見たら。
きっとまた、余計なことを言ってしまう。
言わなくていいことまで、全部。
夜風が、二人の間を抜けていく。
耐えきれず、アサはぎゅっと目を閉じた。
ほんのわずかに。
アサの身体が、後ろへと傾く。
逃げるようで、けれど逃げきれない動き。
その瞬間――
背に、温もりが触れた。
強くはない。
だが、確かな支え。
「……泣くくらいなら、最初からこっちを向け」
その言葉に――
はっとする。
頬に触れた風が、やけに冷たい。
そこでようやく、自分の顔が濡れていることに気づいた。
――泣いている。
その事実が、遅れて胸に落ちてくる。
「……あ」
かすかな声が、漏れる。
どうして。
いつから。
わからない。
ただ、胸の奥にずっと溜め込んでいたものが、知らないうちに溢れていくようだった。
小さく、肩が震える。
背にある温もりが、逃げ場を塞ぐようで。
けれど同時に、崩れることを許してくる。
「……やだ」
ぽつりと零れる。
何が嫌なのか、自分でもはっきりしないまま。
「こんなの……」
喉の奥がひくつく。
こらえようとするほど、余計にこみ上げてくる。
「何が嫌なんだ」
低く、逃がさない問い。
その一言に――
止めていたものが、崩れた。
「……嫌なの」
声が、震える。
うまく息が吸えない。
喉が締めつけられるようで――
それでも言葉は堰を切ったように止まらなかった。
「離れるのが、嫌なの……!」
言ってはいけないと思っていたこと。
飲み込むべきだと思っていたこと。
「本当は、行きたくない……」
顔を上げる。
涙で滲んだ視界の向こう。
揺らめく火の残光を背に、ミナギが立っている。
「ずっと……ここにいたい」
胸を押さえる。
「ミナギの、そばに……!」
ぐちゃぐちゃにかき乱される感情。
何が何だかわからないほど、絡み合っている。
涙で視界が歪む。
それでも――
もう、隠せなかった。
押し殺してきたすべてが、決壊する。
「……好き……」
ようやく零れたその一言は、ひどく弱くて。
けれど同時に、何よりも真っ直ぐだった。
「ずっと……ずっと好きだった……」
呼吸が乱れる。
胸が痛い。
苦しい。
だが、止められない。
「どうしようもないくらい……!」
声が崩れる。
涙が頬を伝い、顎から落ちる。
ぐしゃぐしゃに顔を歪めながら、それでも言葉を絞り出す。
「でも……っ」
息が、うまく吸えない。
「全部、わかってるから……!」
震える指先。
「ミナギの立場も……私がやらなきゃいけないことも……!」
叫ぶように。
「行かなきゃいけないって、わかってるのに……!」
拳を握りしめる。
爪が食い込む。
その痛みすら、感じない。
「決めたのは自分なのに……」
次の瞬間。
ぐい、と腕を引かれた。
「――っ」
息が詰まる。
視界が揺れる。
次の瞬間には、強く引き寄せられていた。
抗う間もなく、胸の内へと抱き込まれる。
力強い。
逃がさないとでも言うように。
背に回された腕が、容赦なく締まる。
心臓の音が、近い。
ぶつかるほどに。
重なるほどに。
「……っ、ミナ――」
呼びかけた名前は、最後まで届かなかった。
唇が、塞がれる。
ためらいもなく。
確かめる余地もなく。
奪うように――
噛みつくように、重ねられる。
「――っ……!」
息が止まる。
思考が白く弾ける。
けれど、離れない。
むしろ――深くなる。
強く、逃げ場を塞ぐように。
拒む隙など与えず、感情ごと押し込まれる。
熱い。
荒い。
ぶつかる。
押し寄せる。
言葉にならなかったものすべてが、そこにある。
触れ方の奥に。
息の混じり方に。
抑えきれなかった何かが、剥き出しのまま。
やがて、わずかに離れる。
息が絡む。
近すぎて、視界が揺れる。
ミナギの呼吸も、荒い。
こんな姿――見たことがない。
常に静かで、揺るがないはずのその人が。
今は、確かに乱れている。
「……わかっているなら」
低く、掠れた声。
怒っているようで。
それ以上に、何かを必死に押し殺している響き。
「そんなことを言うな」
抱きしめる腕が、さらに強くなる。
骨がきしむほどに。
「俺が――」
一瞬、言葉が途切れる。
喉の奥で、何かを噛み締めるように。
「……離せると思うか」
その声は、低く。
重く。
決して揺るがないものとして、落ちた。
腕の力が、さらに強まる。
まるで最初から――
離す気など、欠片もなかったかのように。
夜風が、また強く吹く。
冷たいはずのその風は、二人の間をすり抜けていく。
それでも――
その内にある熱だけは。
決して、冷めることはなかった。




