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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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想いの、その先



 腕《うで》の中《なか》で、アサの呼吸《こきゅう》は、なお浅《あさ》く乱《みだ》れていた。


 胸元《むなもと》へと押《お》しつけられるように抱《だ》き込《こ》まれ、その体温《たいおん》に包《つつ》まれたまま――離《はな》れられない。


 鼓動《こどう》が、近《ちか》い。


 重《かさ》なるように響《ひび》いて、互《たが》いの境界《きょうかい》を曖昧《あいまい》にする。



 それでも――


 それだけでは、満《み》たされない。


 胸《むね》の奥《おく》に残《のこ》る、不安《ふあん》の澱《おり》。


 どうしても、確《たし》かめずにはいられない。



「……ねえ……」


 擦《かす》れるような声《こえ》が、ようやく零《こぼ》れる。


 ミナギの衣《ころも》を、きゅ、と掴《つか》む。


 布越《ぬのご》しに感《かん》じる確《たし》かな存在《そんざい》に縋《すが》るように。


 指先《ゆびさき》は、わずかに震《ふる》えていた。


「……私《わたし》が――」


 言葉《ことば》が喉《のど》に引《ひ》っかかる。



 怖《こわ》い。


 この先《さき》を口《くち》にすることが。


 返《かえ》ってくる答《こた》えを聞《き》くことが。


 それでも。


 聞《き》かなければ、前《まえ》へ進《すす》めない。


 涙《なみだ》が、また静《しず》かに溢《あふ》れる。


「……私《わたし》が耶馬台国《やまたいこく》に行《い》ってる間《あいだ》に……」


 掴《つか》む力《ちから》が、さらに強《つよ》まる。


「結婚《けっこん》しちゃ、やだよ……」


 幼《おさな》いほどに率直《そっちょく》で、拙《つたな》い願《ねが》い。


 自分《じぶん》でも、それがどれほど無様《ぶざま》か理解《りかい》している。


 それでも、押《お》し殺《ころ》すことなどできなかった。


 声《こえ》は細《ほそ》く、震《ふる》え、途切《とぎ》れがちになる。


「……誰《だれ》かと――」


 言《い》い切《き》る前《まえ》に、言葉《ことば》がほどける。


 ぽろぽろと、涙《なみだ》が落《お》ちていく。



 沈黙《ちんもく》。


 夜《よる》の気配《けはい》だけが、静《しず》かに満《み》ちる。


 ミナギは、すぐには答《こた》えない。


 ただ――


 抱《だ》きしめる腕《うで》が、わずかに強《つよ》まった。


 拒《こば》むのではなく、


 逃《に》がさぬように。


 そして、低《ひく》く。


「……三年《さんねん》だ」


 断《た》ち切《き》るように、言《い》い切《き》る。


 その声音《こわね》は、揺《ゆ》るがない。


「三年《さんねん》で帰《かえ》って来《こ》い」


 命令《めいれい》の形《かたち》を取《と》りながら、その奥《おく》に確《たし》かな願《ねが》いを宿《やど》している。


「后《きさき》の座《ざ》は……空《あ》けておく」


 アサは、息《いき》を呑《の》む。


 その言葉《ことば》の重《おも》さに、胸《むね》が震《ふる》える。


 どくり、と心臓《しんぞう》が強《つよ》く打《う》つ。


 ――けれど。


「……帰《かえ》れるかなぁ……」


 ふと、弱音《よわね》が零《こぼ》れる。


 先《さき》ほどまでの激《はげ》しさは消《き》え、ただ現実《げんじつ》だけが残《のこ》る。



 遠《とお》い道程《どうてい》。


 未知《みち》の土地《とち》。


 何《なに》が起《お》こるかもわからない日々(ひび)。


 不安《ふあん》が、じわじわと滲《にじ》み出《で》てくる。


「……ちゃんと……帰《かえ》ってこれるかな……」


 視線《しせん》が揺《ゆ》れる。


 ミナギの胸《むね》に額《ひたい》を押《お》しつけたまま、


 小《ちい》さく言葉《ことば》を落《お》とす。


 しばしの静寂《せいじゃく》。



 やがて――


 頭《あたま》に、手《て》が置《お》かれる。


 大《おお》きく、温《あたた》かな掌《てのひら》。


 ゆっくりと、撫《な》でる。


 荒《あら》ぶる感情《かんじょう》を鎮《しず》めるように。



「帰《かえ》って来《こ》い」


 短《みじか》い。


 それ以上《いじょう》は、何《なに》も言《い》わない。


 だが――


 それだけで十分《じゅうぶん》だった。


 疑《うたが》いを許《ゆる》さぬ命《めい》。


 そして、揺《ゆ》るぎない信頼《しんらい》。



 アサの喉《のど》が、小《ちい》さく鳴《な》る。


「うん」


 かすかな頷《うなず》き。


「――がんばる……」


 涙声《なみだごえ》のまま、それでも応《こた》える。


 その決意《けつい》は、まだか細《ぼそ》い。


 けれど確《たし》かに、そこにある。



 ――そして。


 わずかな間《ま》のあと。


「でも」


 再《ふたた》び、不安《ふあん》が顔《かお》を出《だ》す。


 もぞ、とわずかに顔《かお》を上《あ》げる。


 濡《ぬ》れた瞳《ひとみ》が、揺《ゆ》れる。


「志摩様《しまさま》より……すごい美人《びじん》が現《あらわ》れたら……どうしよう……」


 ぐす、と鼻《はな》をすする。


 切実《せつじつ》なのに、どこか拙《つたな》い。


 けれど、それもまた偽《いつわ》りのない本音《ほんね》だった。



 ミナギは、ほんの一瞬《いっしゅん》だけ沈黙《ちんもく》し――


 ふっと息《いき》を吐《は》く。


 呆《あき》れを含《ふく》みながらも、どこか柔《やわ》らぐ気配《けはい》。


 その直後《ちょくご》――


 ふわりと、視界《しかい》が持《も》ち上《あ》がった。


「――っ!?」


 息《いき》が詰《つ》まる。


 地面《じめん》の感触《かんしょく》が消《き》え、身体《からだ》が宙《ちゅう》に浮《う》く感覚《かんかく》に思考《しこう》が追《お》いつかない。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》には、しっかりとした腕《うで》に支《ささ》えられていることに気《き》づく。


 ミナギの腕《うで》が、当《あ》たり前《まえ》のようにアサの腰《こし》を抱《だ》き上《あ》げていた。


 軽々(かるがる)と。


 慌《あわ》てて、アサは彼《かれ》の肩《かた》に手《て》をかける。


 視線《しせん》が絡《から》む。


「――美人《びじん》、か」


 低《ひく》く、繰《く》り返《かえ》される。


 その声《こえ》は、耳《みみ》の奥《おく》にじわりと染《し》み込《こ》むようだった。


「いいか、よく聞《き》け」


 短《みじか》く告《つ》げられる言葉《ことば》。


 抗《あらが》う隙《すき》を与《あた》えない声音《こわね》。


「この世《よ》のどこに、泣《な》きじゃくりながら『行《い》きたくない』と縋《すが》るお前《まえ》以上《いじょう》の女《おんな》がいる」


 胸《むね》の奥《おく》に、まっすぐ突《つ》き刺《さ》さる。


 恥《は》ずかしさも、戸惑《とまど》いも、全部《ぜんぶ》まとめて掬《すく》い上《あ》げられるような言葉《ことば》。


 ミナギの唇《くちびる》が、わずかに歪《ゆが》む。


 笑《わら》っているのに、どこか苦《にが》く、どこか自嘲《じちょう》を含《ふく》んだ表情《ひょうじょう》。


「これほど俺《おれ》を乱《みだ》し、これほど俺《おれ》に『王《おう》』であることを忘《わす》れさせるのは……後《あと》にも先《さき》にも、お前《まえ》一人《ひとり》だ」


 静《しず》かに落《お》とされる声《こえ》。


 けれどその一言《ひとこと》一言《ひとこと》が、ひどく重《おも》く、確《たし》かに響《ひび》く。


 アサの瞳《ひとみ》に、また涙《なみだ》が滲《にじ》む。


 けれどそれは――


 さっきまでとは違《ちが》う。


 胸《むね》の奥《おく》が、じんわりと満《み》たされていくような、どうしようもない熱《ねつ》。


 ミナギは、そのまま。


 こつんと。


 額《ひたい》を重《かさ》ねた。


 距離《きょり》が、さらに近《ちか》づく。


 息《いき》がかかる。


「他《ほか》に目《め》を向《む》ける暇《ひま》なんて、俺《おれ》にはない」


 囁《ささや》きは、触《ふ》れるように近《ちか》くて、熱《ねつ》を帯《お》びていた。


「……お前《まえ》をどうやって待《ま》ちわびるか、その算段《さんだん》だけで三年間《さんねんかん》は埋《う》まる」



 胸《むね》が、きつく締《し》めつけられる。


 アサの指《ゆび》が、無意識《むいしき》に彼《かれ》の衣《ころも》を掴《つか》む。


「……帰《かえ》る……」


 ぽつりとこぼれる。


「ちゃんと……帰《かえ》ってくる……」


 自分《じぶん》に言《い》い聞《き》かせるように。


 ミナギの腕《うで》に、わずかに力《ちから》がこもった。


「そうしろ」


 短《みじか》い。


 けれど、それ以上《いじょう》はいらないというような声《こえ》。



 そして――


 ふっと、口元《くちもと》だけが緩《ゆる》む。


「でなければ、迎《むか》えに行《い》く」


 冗談《じょうだん》のようで、冗談《じょうだん》に聞《き》こえない。


 アサは、思《おも》わず目《め》を見開《みひら》く。


 言葉《ことば》に詰《つ》まる。



 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》。


 くすりと、小《ちい》さな笑《わら》いが漏《も》れた。


 涙《なみだ》の残《のこ》るまま、でも確《たし》かに。


 その余韻《よいん》を掬《すく》い取《と》るように――


 ミナギは、わずかに顔《かお》を傾《かたむ》けた。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》、再《ふたた》び、唇《くちびる》が重《かさ》なる。


 やわらかく、触《ふ》れるだけの口《くち》づけ。


 アサの指先《ゆびさき》が、びくりと震《ふる》える。


 けれど――そのまま、彼《かれ》の衣《ころも》を掴《つか》んだまま離《はな》さない。


 離《はな》れない。


 ほんのわずかに唇《くちびる》がほどけて、息《いき》が混《ま》じる。


 その隙間《すきま》すら埋《う》めるように――


 もう一度《いちど》。


 そのまま、抱《だ》き上《あ》げた腕《うで》に力《ちから》がこもる。


 触《ふ》れるだけだったはずの口《くち》づけが、次第《しだい》に深《ふか》さを帯《お》びていく。


 ゆっくりと。


 確《たし》かめるように。


 逃《に》げ場《ば》を与《あた》えないまま、けれど急《せ》かすこともなく――


 静《しず》かに、距離《きょり》を詰《つ》めていく。


 言葉《ことば》はいらなかった。


 ただ、この距離《きょり》と、この温度《おんど》だけで十分《じゅうぶん》だった。



 やがて――


 長《なが》く、静《しず》かな余韻《よいん》を残《のこ》して、唇《くちびる》が離《はな》れる。


 けれど、完全《かんぜん》には離《はな》れない。


 触《ふ》れそうな距離《きょり》のまま、呼吸《こきゅう》が混《ま》じる。


 ミナギは何《なに》も言《い》わない。


 ただ、そのまま額《ひたい》を寄《よ》せ、抱《だ》き上《あ》げた腕《うで》を緩《ゆる》めることもなく――


 静《しず》かに、アサを抱《だ》き留《と》めていた。



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