想いの、その先
腕の中で、アサの呼吸は、なお浅く乱れていた。
胸元へと押しつけられるように抱き込まれ、その体温に包まれたまま――離れられない。
鼓動が、近い。
重なるように響いて、互いの境界を曖昧にする。
それでも――
それだけでは、満たされない。
胸の奥に残る、不安の澱。
どうしても、確かめずにはいられない。
「……ねえ……」
擦れるような声が、ようやく零れる。
ミナギの衣を、きゅ、と掴む。
布越しに感じる確かな存在に縋るように。
指先は、わずかに震えていた。
「……私が――」
言葉が喉に引っかかる。
怖い。
この先を口にすることが。
返ってくる答えを聞くことが。
それでも。
聞かなければ、前へ進めない。
涙が、また静かに溢れる。
「……私が耶馬台国に行ってる間に……」
掴む力が、さらに強まる。
「結婚しちゃ、やだよ……」
幼いほどに率直で、拙い願い。
自分でも、それがどれほど無様か理解している。
それでも、押し殺すことなどできなかった。
声は細く、震え、途切れがちになる。
「……誰かと――」
言い切る前に、言葉がほどける。
ぽろぽろと、涙が落ちていく。
沈黙。
夜の気配だけが、静かに満ちる。
ミナギは、すぐには答えない。
ただ――
抱きしめる腕が、わずかに強まった。
拒むのではなく、
逃がさぬように。
そして、低く。
「……三年だ」
断ち切るように、言い切る。
その声音は、揺るがない。
「三年で帰って来い」
命令の形を取りながら、その奥に確かな願いを宿している。
「后の座は……空けておく」
アサは、息を呑む。
その言葉の重さに、胸が震える。
どくり、と心臓が強く打つ。
――けれど。
「……帰れるかなぁ……」
ふと、弱音が零れる。
先ほどまでの激しさは消え、ただ現実だけが残る。
遠い道程。
未知の土地。
何が起こるかもわからない日々。
不安が、じわじわと滲み出てくる。
「……ちゃんと……帰ってこれるかな……」
視線が揺れる。
ミナギの胸に額を押しつけたまま、
小さく言葉を落とす。
しばしの静寂。
やがて――
頭に、手が置かれる。
大きく、温かな掌。
ゆっくりと、撫でる。
荒ぶる感情を鎮めるように。
「帰って来い」
短い。
それ以上は、何も言わない。
だが――
それだけで十分だった。
疑いを許さぬ命。
そして、揺るぎない信頼。
アサの喉が、小さく鳴る。
「うん」
かすかな頷き。
「――がんばる……」
涙声のまま、それでも応える。
その決意は、まだか細い。
けれど確かに、そこにある。
――そして。
わずかな間のあと。
「でも」
再び、不安が顔を出す。
もぞ、とわずかに顔を上げる。
濡れた瞳が、揺れる。
「志摩様より……すごい美人が現れたら……どうしよう……」
ぐす、と鼻をすする。
切実なのに、どこか拙い。
けれど、それもまた偽りのない本音だった。
ミナギは、ほんの一瞬だけ沈黙し――
ふっと息を吐く。
呆れを含みながらも、どこか柔らぐ気配。
その直後――
ふわりと、視界が持ち上がった。
「――っ!?」
息が詰まる。
地面の感触が消え、身体が宙に浮く感覚に思考が追いつかない。
次の瞬間には、しっかりとした腕に支えられていることに気づく。
ミナギの腕が、当たり前のようにアサの腰を抱き上げていた。
軽々と。
慌てて、アサは彼の肩に手をかける。
視線が絡む。
「――美人、か」
低く、繰り返される。
その声は、耳の奥にじわりと染み込むようだった。
「いいか、よく聞け」
短く告げられる言葉。
抗う隙を与えない声音。
「この世のどこに、泣きじゃくりながら『行きたくない』と縋るお前以上の女がいる」
胸の奥に、まっすぐ突き刺さる。
恥ずかしさも、戸惑いも、全部まとめて掬い上げられるような言葉。
ミナギの唇が、わずかに歪む。
笑っているのに、どこか苦く、どこか自嘲を含んだ表情。
「これほど俺を乱し、これほど俺に『王』であることを忘れさせるのは……後にも先にも、お前一人だ」
静かに落とされる声。
けれどその一言一言が、ひどく重く、確かに響く。
アサの瞳に、また涙が滲む。
けれどそれは――
さっきまでとは違う。
胸の奥が、じんわりと満たされていくような、どうしようもない熱。
ミナギは、そのまま。
こつんと。
額を重ねた。
距離が、さらに近づく。
息がかかる。
「他に目を向ける暇なんて、俺にはない」
囁きは、触れるように近くて、熱を帯びていた。
「……お前をどうやって待ちわびるか、その算段だけで三年間は埋まる」
胸が、きつく締めつけられる。
アサの指が、無意識に彼の衣を掴む。
「……帰る……」
ぽつりとこぼれる。
「ちゃんと……帰ってくる……」
自分に言い聞かせるように。
ミナギの腕に、わずかに力がこもった。
「そうしろ」
短い。
けれど、それ以上はいらないというような声。
そして――
ふっと、口元だけが緩む。
「でなければ、迎えに行く」
冗談のようで、冗談に聞こえない。
アサは、思わず目を見開く。
言葉に詰まる。
次の瞬間。
くすりと、小さな笑いが漏れた。
涙の残るまま、でも確かに。
その余韻を掬い取るように――
ミナギは、わずかに顔を傾けた。
次の瞬間、再び、唇が重なる。
やわらかく、触れるだけの口づけ。
アサの指先が、びくりと震える。
けれど――そのまま、彼の衣を掴んだまま離さない。
離れない。
ほんのわずかに唇がほどけて、息が混じる。
その隙間すら埋めるように――
もう一度。
そのまま、抱き上げた腕に力がこもる。
触れるだけだったはずの口づけが、次第に深さを帯びていく。
ゆっくりと。
確かめるように。
逃げ場を与えないまま、けれど急かすこともなく――
静かに、距離を詰めていく。
言葉はいらなかった。
ただ、この距離と、この温度だけで十分だった。
やがて――
長く、静かな余韻を残して、唇が離れる。
けれど、完全には離れない。
触れそうな距離のまま、呼吸が混じる。
ミナギは何も言わない。
ただ、そのまま額を寄せ、抱き上げた腕を緩めることもなく――
静かに、アサを抱き留めていた。




