想いの、その先 (※ミナギ視点)
夜風が、肌を撫でる。
視界の先に、アサの背がある。
細い肩。
揺れる髪。
その背中が――ひどく頼りなく見えた。
砂を踏む音が、やけに大きく響く。
一歩。
また一歩。
距離を詰めるたびに、胸の奥がざわつく。
いつもなら抑え込めるはずのそれが、今日はうまくいかない。
「――アサ」
呼んだ声は、思ったより低く落ちた。
振り向かない。
あえて、だとすぐに分かる。
――逃げている。
それでも、逃げきれないことも分かっている。
そんな中途半端な背中だった。
次の瞬間、わずかに揺れた身体。
崩れるように後ろへ傾く。
考えるより先に、手が出ていた。
背に触れる。
その直後、気づく。
小さく震える肩。
濡れた頬。
呼吸。
泣いている。
その事実が、妙に胸に刺さった。
「……泣くくらいなら、最初からこっちを向け」
気づいたように、彼女が息を呑む。
逃げ場を探すような気配。
だが、離さない。
「何が嫌なんだ」
問いは短く。
逃がさないように。
聞かなければならない。
聞いてしまえば、引き返せないと分かっていても。
そして。
堰を切ったように溢れる言葉。
――嫌なの。
――離れるのが、嫌なの。
その言葉が、まっすぐ胸に刺さる。
予想していた。
覚悟もしていた。
それでも――
「本当は、行きたくない……」
その一言で、すべてが吹き飛んだ。
理屈も。
立場も。
責務も。
ただひとつの事実だけが残る。
――行かせたくない。
「ミナギの、そばに……!」
呼ばれた名が、こんなにも重く、熱を持って響くとは思わなかった。
「……好き……」
理性が、音もなく崩れる。
ずっと、抑えていた。
線を引いていた。
越えてはならないと、何度も自分に言い聞かせてきた。
だが――
「どうしようもないくらい……!」
限界だった。
腕を引く。
強く。
考える前に、引き寄せていた。
抱き込む。
逃がさないように。
その細い身体が腕の中に収まる感触に、逆に自分の理性が削れていく。
「――っ、ミナ――」
呼ばれる前に、唇を塞いだ。
奪うように。
噛みつくように。
抑え込んできたものが、そのまま形になって溢れる。
離せない。
離したくない。
――離せるわけがない。
わずかに離れたとき、息が荒れているのは自分も同じだった。
こんな自分を見せることはない。
見せるべきでもない。
それでも、もう取り繕う余地はない。
「……分かっているなら、そんなことを言うな」
言い聞かせているのは、半分は自分だった。
「俺が――」
言葉が詰まる。
言ってしまえば、戻れない。
だが、もう遅い。
「……離せると思うか」
答えは決まっている。
最初からずっと。
――その後。
震える声で問われた言葉。
結婚するな、と。
幼いほど真っ直ぐな願い。
だが、それを笑う余裕はなかった。
むしろ――
それを言わせている状況に、苛立ちすら覚える。
沈黙のあと、口を開く。
「……三年だ」
線を引く。
時間を定める。
「三年で帰って来い」
命令の形を借りた、願い。
「后の座は……空けておく」
これは約束だ。
軽い言葉ではない。
だからこそ、揺るがせない。
不安を零す声。
帰れるかどうか。
そんなもの、答えはひとつしかない。
手を頭に置く。
撫でる。
落ち着かせるためか。
自分を保つためか。
もう、分からない。
「帰って来い」
それだけでいい。
――そして。
「志摩様より……すごい美人が現れたら……どうしよう……」
一瞬。
思考が止まる。
次いで、息が漏れる。
こんな状況で、そこを気にするのか。
呆れと――
それ以上に、どうしようもない愛しさ。
そのまま、抱き上げた。
軽い。
驚くほどに。
視線を合わせる。
「いいか、よく聞け」
ひとつずつ、刻むように。
「これほど俺を乱し、これほど俺に『王』であることを忘れさせるのは……後にも先にも、お前一人だ」
事実だ。
唇が、わずかに歪む。
自嘲に近い。
「他に目を向ける暇はない」
本音だった。
三年という時間。
長いはずなのに――
待つことしか、考えられない。
帰ると言う声。
ようやく、少しだけ力が抜ける。
「そうしろ」
それでいい。
それだけでいい。
もし違えば――
「迎えに行く」
半分は事実だ。
半分は――それ以上だ。
彼女が笑う。
その表情を見た瞬間、胸の奥が静かに満たされる。
再び、唇を重ねる。
今度は、先ほどとは違う。
確かめるように。
刻み込むように。
この温度を。
この距離を。




