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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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想いの、その先 (※ミナギ視点)




 夜風《よかぜ》が、肌《はだ》を撫《な》でる。


 視界《しかい》の先《さき》に、アサの背《せ》がある。


 細《ほそ》い肩《かた》。


 揺《ゆ》れる髪《かみ》。


 その背中《せなか》が――ひどく頼《たよ》りなく見《み》えた。



 砂《すな》を踏《ふ》む音《おと》が、やけに大《おお》きく響《ひび》く。


 一歩《いっぽ》。


 また一歩《いっぽ》。


 距離《きょり》を詰《つ》めるたびに、胸《むね》の奥《おく》がざわつく。


 いつもなら抑《おさ》え込《こ》めるはずのそれが、今日《きょう》はうまくいかない。



「――アサ」


 呼《よ》んだ声《こえ》は、思《おも》ったより低《ひく》く落《お》ちた。


 振《ふ》り向《む》かない。


 あえて、だとすぐに分《わ》かる。


 ――逃《に》げている。


 それでも、逃《に》げきれないことも分《わ》かっている。


 そんな中途半端《ちゅうとはんぱ》な背中《せなか》だった。



 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》、わずかに揺《ゆ》れた身体《からだ》。


 崩《くず》れるように後《うし》ろへ傾《かたむ》く。


 考《かんが》えるより先《さき》に、手《て》が出《で》ていた。


 背《せ》に触《ふ》れる。


 その直後《ちょくご》、気《き》づく。


 小《ちい》さく震《ふる》える肩《かた》。


 濡《ぬ》れた頬《ほお》。


 呼吸《こきゅう》。


 泣《な》いている。


 その事実《じじつ》が、妙《みょう》に胸《むね》に刺《さ》さった。


「……泣《な》くくらいなら、最初《さいしょ》からこっちを向《む》け」


 気《き》づいたように、彼女《かのじょ》が息《いき》を呑《の》む。


 逃《に》げ場《ば》を探《さが》すような気配《けはい》。


 だが、離《はな》さない。




「何《なに》が嫌《いや》なんだ」


 問《と》いは短《みじか》く。


 逃《に》がさないように。


 聞《き》かなければならない。


 聞《き》いてしまえば、引《ひ》き返《かえ》せないと分《わ》かっていても。


 そして。


 堰《せき》を切《き》ったように溢《あふ》れる言葉《ことば》。



 ――嫌《いや》なの。


 ――離《はな》れるのが、嫌《いや》なの。



 その言葉《ことば》が、まっすぐ胸《むね》に刺《さ》さる。


 予想《よそう》していた。


 覚悟《かくご》もしていた。


 それでも――


「本当《ほんとう》は、行《い》きたくない……」


 その一言《ひとこと》で、すべてが吹《ふ》き飛《と》んだ。


 理屈《りくつ》も。


 立場《たちば》も。


 責務《せきむ》も。


 ただひとつの事実《じじつ》だけが残《のこ》る。



 ――行《い》かせたくない。



「ミナギの、そばに……!」



 呼《よ》ばれた名《な》が、こんなにも重《おも》く、熱《ねつ》を持《も》って響《ひび》くとは思《おも》わなかった。



「……好《す》き……」



 理性《りせい》が、音《おと》もなく崩《くず》れる。


 ずっと、抑《おさ》えていた。


 線《せん》を引《ひ》いていた。


 越《こ》えてはならないと、何度《なんど》も自分《じぶん》に言《い》い聞《き》かせてきた。


 だが――



「どうしようもないくらい……!」



 限界《げんかい》だった。


 腕《うで》を引《ひ》く。


 強《つよ》く。


 考《かんが》える前《まえ》に、引《ひ》き寄《よ》せていた。


 抱《だ》き込《こ》む。


 逃《に》がさないように。


 その細《ほそ》い身体《からだ》が腕《うで》の中《なか》に収《おさ》まる感触《かんしょく》に、逆《ぎゃく》に自分《じぶん》の理性《りせい》が削《けず》れていく。



「――っ、ミナ――」



 呼《よ》ばれる前《まえ》に、唇《くちびる》を塞《ふさ》いだ。


 奪《うば》うように。


 噛《か》みつくように。


 抑《おさ》え込《こ》んできたものが、そのまま形《かたち》になって溢《あふ》れる。


 離《はな》せない。


 離《はな》したくない。


 ――離《はな》せるわけがない。



 わずかに離《はな》れたとき、息《いき》が荒《あ》れているのは自分《じぶん》も同《おな》じだった。


 こんな自分《じぶん》を見《み》せることはない。


 見《み》せるべきでもない。


 それでも、もう取《と》り繕《つくろ》う余地《よち》はない。



「……分《わ》かっているなら、そんなことを言《い》うな」



 言《い》い聞《き》かせているのは、半分《はんぶん》は自分《じぶん》だった。



「俺《おれ》が――」



 言葉《ことば》が詰《つ》まる。


 言《い》ってしまえば、戻《もど》れない。


 だが、もう遅《おそ》い。



「……離《はな》せると思《おも》うか」



 答《こた》えは決《き》まっている。


 最初《さいしょ》からずっと。



 ――その後《ご》。


 震《ふる》える声《こえ》で問《と》われた言葉《ことば》。


 結婚《けっこん》するな、と。


 幼《おさな》いほど真《ま》っ直《す》ぐな願《ねが》い。


 だが、それを笑《わら》う余裕《よゆう》はなかった。


 むしろ――


 それを言《い》わせている状況《じょうきょう》に、苛立《いらだ》ちすら覚《おぼ》える。


 沈黙《ちんもく》のあと、口《くち》を開《ひら》く。



「……三年《さんねん》だ」



 線《せん》を引《ひ》く。


 時間《じかん》を定《さだ》める。


「三年《さんねん》で帰《かえ》って来《こ》い」


 命令《めいれい》の形《かたち》を借《か》りた、願《ねが》い。


「后《きさき》の座《ざ》は……空《あ》けておく」



 これは約束《やくそく》だ。


 軽《かる》い言葉《ことば》ではない。


 だからこそ、揺《ゆ》るがせない。



 不安《ふあん》を零《こぼ》す声《こえ》。


 帰《かえ》れるかどうか。


 そんなもの、答《こた》えはひとつしかない。


 手《て》を頭《あたま》に置《お》く。


 撫《な》でる。


 落《お》ち着《つ》かせるためか。


 自分《じぶん》を保《たも》つためか。


 もう、分《わ》からない。



「帰《かえ》って来《こ》い」



 それだけでいい。


 ――そして。



「志摩様《しまさま》より……すごい美人《びじん》が現《あらわ》れたら……どうしよう……」



 一瞬《いっしゅん》。


 思考《しこう》が止《と》まる。


 次《つぎ》いで、息《いき》が漏《も》れる。


 こんな状況《じょうきょう》で、そこを気《き》にするのか。


 呆《あき》れと――


 それ以上《いじょう》に、どうしようもない愛《いと》しさ。


 そのまま、抱《だ》き上《あ》げた。


 軽《かる》い。


 驚《おどろ》くほどに。


 視線《しせん》を合《あ》わせる。



「いいか、よく聞《き》け」


 ひとつずつ、刻《きざ》むように。


「これほど俺《おれ》を乱《みだ》し、これほど俺《おれ》に『王《おう》』であることを忘《わす》れさせるのは……後《あと》にも先《さき》にも、お前《まえ》一人《ひとり》だ」


 事実《じじつ》だ。


 唇《くちびる》が、わずかに歪《ゆが》む。


 自嘲《じちょう》に近《ちか》い。


「他《ほか》に目《め》を向《む》ける暇《ひま》はない」


 本音《ほんね》だった。


 三年《さんねん》という時間《じかん》。


 長《なが》いはずなのに――


 待《ま》つことしか、考《かんが》えられない。


 帰《かえ》ると言《い》う声《こえ》。


 ようやく、少《すこ》しだけ力《ちから》が抜《ぬ》ける。


「そうしろ」


 それでいい。


 それだけでいい。


 もし違《ちが》えば――


「迎《むか》えに行《い》く」


 半分《はんぶん》は事実《じじつ》だ。


 半分《はんぶん》は――それ以上《いじょう》だ。


 彼女《かのじょ》が笑《わら》う。


 その表情《ひょうじょう》を見《み》た瞬間《しゅんかん》、胸《むね》の奥《おく》が静《しず》かに満《み》たされる。


 再《ふたた》び、唇《くちびる》を重《かさ》ねる。


 今度《こんど》は、先《さき》ほどとは違《ちが》う。


 確《たし》かめるように。


 刻《きざ》み込《こ》むように。


 この温度《おんど》を。


 この距離《きょり》を。




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