想いを残して
出立を目前にした祝宴――
その前日のことだった。
アサは部屋の隅に座り、耶馬台国へ持っていく荷物をまとめていた。
とはいえ――
目の前に広げられたものは、あまりにも慎ましい。
手入れされた替えの麻衣と、細かな日用品、そして手のひらに収まるほどの小さな巾着。
それだけだった。
その時。
「アサ、いるか?」
戸口から声がした。
顔を覗かせたのは、浮羽だった。
「浮羽さん?」
アサが顔を上げる。
返事を待つ間もなく、浮羽はずかずかと中へ入ってきた。
そして――
ぴたり、と足を止める。
「……」
浮羽は、無言のまま部屋を見回した。
小さな寝床。
衣をしまう籠。
水を入れる器。
それだけだった。
壁に飾りがあるわけでもない。
女の部屋らしい装飾も、ほとんどない。
あまりにも、物が少ない。
「……なんだ、ここ」
「え?」
「こざっぱりしすぎだろ」
浮羽が呆れたように言う。
「お前、物を持たなすぎじゃないか?」
「必要なものだけあれば、十分なので」
アサは困ったように笑った。
浮羽は肩をすくめる。
「まあ……お前らしいけどな」
そう言いながら、もう一度部屋の中を眺める。
その視線が――
ふと、アサの膝元で止まった。
「それ、何だ?」
「あ……」
アサの手が、わずかに止まる。
そこにあったのは、小さな布の包みだった。
「これは……」
アサは包みを膝の上へ置き、そっと布を開いた。
中から現れたのは――
二つの品だった。
ひとつは、簪。
細い軸の先に、深い緑の翡翠が飾られている。
昼の光を受けるたび、石の奥に眠るような色が、静かに浮かび上がった。
この部屋にある他の持ち物とは、明らかに格が違う。
もうひとつは――
木で作られた、素朴な櫛だった。
「これ……」
浮羽が目を細める。
「ミナギからか?」
「はい」
「どっちも?」
アサは小さく頷いた。
「櫛は、ミナギが作ってくれたんですよ」
「作った?」
浮羽は櫛を覗き込んだ。
素朴な木の櫛。
飾りはほとんどない。
けれど、歯の根元には、二羽の鳥が寄り添うように彫られていた。
「……あいつ、こんなの彫るのか?」
「ふふ……」
アサが小さく笑いながら、櫛を指先でそっと撫でた。
その手つきが、あまりにも優しい。
まるで櫛そのものを愛おしむように。
浮羽は、黙ってその様子を見ていた。
そして――
ふっと、息を吐く。
「……ミナギも、相当だな」
「え?」
「いや。なんでもない」
男が女へ、髪に触れるものを贈る。
いつも身につけていてほしいものを贈る。
それが、どんな意味を持つのか。
ただの贈り物ではない。
言葉にせずとも、想いを伝えるものだ。
それも――
並の想いではない。
そこまで考えて、浮羽は小さく苦笑した。
――あいつ。
思ってる以上に、惚れてるな。
浮羽はアサを見る。
けれど、当の本人は、そんなことには気づいていなさそうだった。
浮羽は、しばらく何も言わなかった。
ふっと目を伏せる。
数日後には――
アサは耶馬台国へ向かう。
ミナギは投馬国に残る。
それぞれが、それぞれの国で生きなければならない。
次に会えるのが、いつになるのか。
そもそも――
また会えるのか。
アサの耶馬台国行きの表向きの理由は、巫女としての修行。
だが――
それだけではない。
日神呼はすでに齢を重ね、その御身には、老いの影が静かに差し始めている。
そして今――
各地から、巫女の素養を持つ娘たちを集め、次なる後継者の選定が、水面下で進められている。
その数多の娘たちの中でも。
アサは異質だった。
日神呼自らが、直々に指名した娘――
そのことを、アサはまだ深く理解していない。
自分の身に課せられたものの重さを、彼女はまだ、本当には知らない。
ただ――
与えられた運命に従い、務めを果たすため。
そう思って、耶馬台国へ向かおうとしている。
けれど。
もしアサが真に日神呼の名を継ぐ者として選ばれてしまえば――
その先に待っているのは、祭殿の奥深くに籠もり、世俗から切り離された生き方だった。
そうなれば――
彼女が、この投馬国の土を踏むことはない。
ミナギとの再会も――
二度と、叶わない。
そしてミナギは、ただの一人の男ではない。
投馬国の王だ。
王には、王としての務めがある。
国を繋ぐため。
血を残すため。
同盟を結ぶため。
いつか、アサではない女を后として迎えることも――
きっと、避けられない。
そう考えた瞬間、
浮羽の胸に、重いものが沈んだ。
――こんなにも、想い合っているのにな。
それでも。
二人には、それぞれの立場がある。
だから、離れなければならない。
浮羽には、それが分かっていた。
分かっているからこそ――
やるせなかった。
ただ、ひとつだけ浮羽には分かっていることがあった。
この二人は、きっと簡単には忘れられない。
離れても。
何年経っても。
たとえ、それぞれ別の誰かと人生を歩むことになったとしても。
心のどこかに残り続けるだろう。
浮羽は、アサの手元に視線を落とした。
翡翠の簪。
ミナギが贈ったもの。
そして――
ミナギが、自ら作った木の櫛。
「……持っていくんだろ」
「え?」
「それ」
浮羽は顎で櫛を指した。
「忘れるな」
「……はい」
アサは櫛を大切そうに布へ戻した。
その横顔を見ながら、浮羽は小さく息を吐く。
「……まったく」
「?」
「お前らも……難儀な運命を背負ったもんだな」
アサは意味が分からず、首を傾げた。
浮羽は、それ以上何も言わなかった。
ただ、心の中で思う。
――せめて。
もう一度くらい。
二人が、何の立場も背負わずに。
ただ互いを想える日が来ればいい。
ただの男と女として。
そんな願いが叶う保証など、どこにもない。
それでも――
浮羽は、そう願わずにはいられなかった。




