黎明の餞
夜明け前。
宮の庭はまだ薄暗く、空は墨を流したように深い藍を残している。
夜露を含んだ土はしっとりと沈み、踏みしめれば僅かに音を吸う。
遠くでは、出立の支度をする者たちの気配――
布の擦れる音。
低く交わされる声。
微かな金具の触れ合いが、霧の向こうで滲むように響いている。
アサは、柱の影に一人立っていた。
夜の冷たさを残した空気が、頬を撫でる。
「アサ殿」
低く、穏やかな声が届いた。
静かな夜へ、自然に溶け込むような声だった。
振り向くと、タヅマが歩いてくる。
歳月を重ねた足取りは静かで、それでいて一歩ごとに揺るがなかった。
「タヅマ様」
アサはすぐに姿勢を正し、深く頭を下げた。
「出立の前に、姿が見えぬと聞きましてな」
責めるような響きはない。
ただ、気遣う声だった。
「……申し訳ありません。少しだけ、心を整えておりました」
しばらくの沈黙。
――やがて、タヅマが口を開く。
「異なる土地へ向かい、異なる考えを持つ者たちと向き合う……」
「頭で考えた通りには、いかぬことも多いでしょう」
アサは顔を上げた。
タヅマは、その瞳をまっすぐ見ている。
「迷いはありますか」
問いは短い。
アサは一度だけ息を整えた。
胸の奥に隠していた思いを、そっと取り出すように。
「……ございます」
夜明け前の空気が、わずかに張り詰める。
「ですが――それでも、参ります」
「よろしい」
タヅマは小さく頷いた。
「迷いを抱えながら、それでも進む者のほうが、遠くまで歩いていけるものです」
長い時を生きてきた者だけが言える、重みのある言葉だった。
遠くで誰かが名を呼ぶ。
出立の準備が、少しずつ近づいてくる。
「恐れはありますか」
「……はい」
「それでよいのです」
タヅマは迷わず答えた。
「恐れは、生き延びるための目を授けてくれる。ただ、その恐れに心を呑まれてはなりません。己が何のためにその地へ赴くのか。その芯だけは、決して手放してはなりませぬぞ」
その言葉を聞き、アサの指先に力が入いる。
「はい」
短いが、深い返事だった。
タヅマは懐から、小さな包みを取り出した。
布は長い年月を越え、柔らかくなっている。
角は少し丸くなり、長く大切にされてきたことが分かった。
「これを」
両手で差し出す。
アサは一瞬ためらった。
これは、ただの物ではない。
そう感じたからだ。
それでも、静かに手を伸ばす。
「これは……」
「護りです」
タヅマは穏やかに言った。
「かつて私が若かりし頃、初めて境を越える折に授かったもの」
わずかな間。
その言葉の奥には、語られていない多くの時間があった。
「……タヅマ様の、大切なものでは」
「ええ」
タヅマは少し笑った。
「ですが、私はこうして無事に役目を果たし、戻ってこられた。縁起は悪くないはずです」
アサはおずおずと手を伸ばし、両手でその包みを受け取った。
布越しの温もりが、不思議なほど心に残った。
「大切にいたします」
深く頭を下げる。
タヅマは静かに頷いた。
そして――
「アサ殿」
名を呼ぶ。
ただそれだけで、空気が少し変わった。
「はい」
「どうか、ご無事で」
抑えた声。
アサは顔を上げた。
「……タヅマ様も、どうかお身体を大切になさってください」
その言葉に、張り詰めていた空気が少しほどける。
タヅマは目を細めた。
そこには、年相応の柔らかな表情が浮かんでいた。
「アサ様――!」
遠くから侍女の呼ぶ声が響く。
タヅマは一歩下がった。
「お行きなされ」
まるで道を開くような仕草だった。
「はい」
アサは深く礼をし、歩き出す。
砂を踏む音。
数歩進んだところで――
アサは足を止めた。
そして振り返る。
「タヅマ様」
「何です」
「戻りましたら……もう一度、ご指導を願えますか」
静かな願い。
けれど、その声には確かな想いが込められていた。
タヅマは少しだけ目を細める。
篝火の光が、その皺を柔らかく照らした。
「いくらでも」
短く、けれど迷いのない答え。
アサの表情が、ほんの少し緩む。
それだけで十分だった。
今度こそ、振り返らない。
人の流れの中へ、歩み出していく。
タヅマは、その背中を静かに見送った。
周囲の音が少しずつ戻り、宮の朝が始まっていく。
それでもタヅマは、しばらくその場に立っていた。
やがて――
「……ますます、良い目になられた」
誰に向けるでもなく、静かに呟く。
次の瞬間には、いつもの老臣の顔に戻り、ゆっくりと踵を返した。




