出立の朝
夜明け前の冷え込みが澱む投馬の宮の広場は、既に松明の光で満ちていた。
眠気の残る静けさは、どこにもない。
代わりに満ちているのは、張り詰めた緊張と、抑えきれない忙しさ。
木組みの櫓から爆ぜる火の粉が、慌ただしく行き交う兵や侍従たちの影を無数に引き伸ばす。
食糧。
保存のための器。
予備の武具。
そして――耶馬台国へ捧げる貢物。
それらはすべて、先遣隊とともに、夜のうちに発っていた。
昨夜は侍従たちが目まぐるしく動き回り、荷の目録と現物を突き合わせながら、怒号を飛ばしていた。
その頃――
別棟の奥。
アサはそこに居た。
外の喧騒から切り離されたように、そこだけは、底冷えのする静寂に支配されていた。
土間に据えられた大きな水桶から、白い湯気がかすかに立ちのぼる。
「失礼します」
感情の抑揚を削ぎ落とした侍女の囁きが合図だった。
直後、ざばりと容赦のない水流がアサの頭上から浴びせられる。
「――っ……!」
喉の奥で息が凍りついた。
井戸の底から汲み上げられたばかりの刺すような水は、皮膚を裂いて骨の芯へと直接突き刺さる。
肩から背筋を伝い、鎖骨の窪みへと雪崩れ落ちる冷水が、体温を一瞬で奪い去っていく。
激しい悪寒に思考は白く弾け、噛み締めた奥歯がカタカタと乾いた音を立てた。
だが、間髪を容れず二度、三度と水が降り注ぐ。
ざばり、と容赦なく。
指先が、無意識に強張る。
だが――逃げ場はない。
これは、清め。
穢れを落とし、私情も、迷いも、すべて洗い流すためのもの。
水は、何度もかけられた。
やがて。
滴る雫が落ち着いた頃。
侍女たちが静かに動く。
差し出されるのは――白。
曇りのない、麻の衣。
「こちらを」
短い言葉。
アサは、小さく息を整え――それに腕を通す。
冷えた肌に、乾いた布が触れる。
さらりとした感触。
温もりはない。
だが、不思議と落ち着く。
余計なものを許さない、ただ清く、まっすぐな白。
帯が締められ、体の輪郭が引き締まる。
逃げ場を許さないように。
そのとき――
幕布が上がり、空気がわずかに動く。
現れたのは、浮羽だった。
すでに装備を整え終えている。
表情は引き締まり、視線は鋭く、迷いがない。
完全に、隊を率いる指揮官の顔だ。
浮羽の瞳は、まっすぐにアサを捉えていた。
一歩、近づく。
視線が、頭から足元まで流れる。
そして――止まる。
一瞬の沈黙。
やがて。
「覚悟はいいか」
凛とした声が、間を切り裂く。
短く、だが退路を断つような問いだった。
アサは胸の奥に残るわずかな揺らぎを飲み干し、背筋を伸ばして、その視線を正面から受け止めた。
「――はい」
凛とした声音。
その一言に、すべてを込めるように。
それを聞いた浮羽の口元が、ふっと不敵に歪んだ。
「……いい顔だ」
あの見慣れた、どこか人を食ったような笑みだ。
凍りついていた空気に、ほんの一瞬だけ温度が戻る。
「よし」
短く、満足げに言う。
そして、くるりと背を向けた。
「――では、行こうか」
軽い調子で、肩越しに告げる。
アサは結んだ唇を強く引き締め、その背中を追って朱色の光渦巻く広場へと踏み出した。




