絆のかたち
宮の正門前。
広場は、すでに大勢の人で埋め尽くされていた。
やがて――
ざ、と音が揃う。
人の波が、自然と割れた。
その先。
高台へと続く階の上に、ひとつの影が現れる。
ミナギだった。
纏う白磁の衣は暁風を孕んで微かに波打ち、その立ち姿には迷いも揺らぎの欠片もない。
そのまま、高台へと立つ。
視線を巡らせる。
一度だけ。
それだけで、沸き立ちかけていたざわめきが、潮が引くように、すっと静まった。
「――此度」
声が落ちる。
朝の澄んだ空気を震わせて、広場の隅々まで、逃さず届く声。
「我が投馬国は、邪馬台国との絆を、言葉ではなく――形として示す」
風が、わずかに朱の旗を揺らす。
「これは、単なる往来ではない。我らの意志を示すものだ」
視線が、まっすぐ前を射抜く。
「道は長く、易くはない。だが――必ずや、成す」
覇気と冷徹さを併せ持った断言が、広場を満たす空気を一瞬で引き締める。
場を支配する沈黙の中――
「前へ」
タヅマの硬質な声が通った。
呼ばれたアサは、隣の浮羽とともに一歩を踏み出す。
冷えた敷石を踏み締め、階の下――見上げるミナギの御前へと進み出た。
歩み寄ったタヅマが両手で捧げ持つ器には、神酒が満たされている。
「――無事を」
短い言葉とともに、静かに差し出されたそれに、アサはゆっくりと手を伸ばす。
指先が、器の縁に触れる。
ひやり、とした感触。
その瞬間――
頭上から鋭く、しかし重みを持った視線が落ちてきた。
ミナギの双眸が、アサを射抜く。
まっすぐに。
「――」
息が詰まる。
胸が、どくりと強く鳴る。
ミナギの瞳は、何も語らない。
そこに浮かぶのは、あくまで投馬国を統べる王の顔であり、冷たく研ぎ澄まされた仮面そのものだ。
けれど、ほんの一瞬だけ。
その瞳の奥が、確かに応えた。
言葉にはならない、何かで。
アサは静かに息を整えながら、昨夜のことを思い出していた――
◇
――出立前夜。
夜の宮の回廊にて。
アサは太い木柱の影に身を寄せ、ぼんやりと篝火を見つめていた。
明日の出立は早いというのに、心が落ち着かず、なかなか寝付けない。
柱と柱の間に等間隔に据えられた鉄籠の中で、油を含んだ薪がぱち、と小さく火の粉を爆ぜさせる。
炎は、一定の形を保たない。
揺れ。
歪み。
時に大きく膨らみ、またすぐに細くなる。
まるで、落ち着かない自分の心みたいだと、ふと思う。
(……耶馬台国)
胸の奥で、言葉が浮かぶ。
まだ見たことのない景色。
知らない人々。
知らない空気。
その果てに、自分は立つのだ。
そう考えると、喉の奥がきつく絞られるような心細さに襲われた。
胸の中に、不安の澱が、じわりと広がる。
その時――
「アサ」
低く、柔らかな声。
はっとして、息が止まる。
振り返ると、ミナギが静かに歩み寄っていた。
篝火の光が、その面差しを淡く照らす。
整った表情。
いつもの冷静な眼差し。
だが――
ほんの僅かに、そこに気遣いの色が滲んでいる。
「ここで何を?」
問う声は、穏やかだった。
アサは、少しだけ口元を動かす。
笑おうとして――
うまくいかない。
「……眠れなくて」
掠れたような声。
情けないほど素直に出てしまった言葉に恥じ入るアサの隣へ、ミナギは何を咎めるでもなく並び立った。
肩が触れ合うほどではない。
だが、彼の纏う清冽な香りと、確かな体温が肌に届く距離だった。
アサは、ちらりと横を見る。
ミナギの横顔。
静かな気品を宿した顔立ち。
――明日からは。
この人の声も温もりも、届かない場所に行く。
そう意識した途端、胸が鉛を飲んだように重くなる。
柔らかな笑顔。
優しく名前を呼ぶ、低い声。
それらが再び自分へ向けられる日が、いつ来るのか分からない。
その事実が、静かに重くのしかかる。
(……三年)
約束した。
三年で帰ると。
想いを言葉にした。
受け取ってもらった。
それでも――不安は消えない。
道は長い。
何が起こるかも分からない。
帰れる保証なんて、どこにもない。
(……それでも)
指先に、かすかな力がこもる。
約束は、ただの願いじゃない。
この人が、空けておくと言った場所。
待つと言った時間。
それを、裏切るわけにはいかない。
小さく、息を吸う。
冷たい空気が、胸の奥まで満ちる。
衣擦れの音。
ミナギが、懐に手を入れる。
取り出されたのは、藍染めの布にくるまれた小さく細長い包みだった。
「これを」
差し出されたそれを、アサは戸惑いながらも両手で受け取る。
布をほどくと、中から現れたのは――
簡素な筆。
小さな墨。
そして、もうひとつ。
白く乾いた動物の骨を削った、小指ほどの細い管。
側面には、小さな穴がひとつだけ穿たれていた。
アサはそれを指先でそっと持ち上げる。
「……これは」
「ムスビを呼ぶためのものだ」
ミナギは短く言った。
「強く吹くな。息を細く通せばいい」
アサは、もう一度その管を見る。
軽い。
けれど、ただの飾りではない重みがある。
「ムスビなら、距離は問題にならないからな」
アサは、ぱちりと目を瞬かせる。
「文通……?」
思わず、声が少し弾む。
胸の奥が、ほんの僅かに軽くなる。
ミナギは、小さく頷いた。
「完璧である必要はない。読めればいい」
短く、実務的な言葉。
だが――
そのあと、僅かに間を置いて。
「お前の字は、嫌いじゃない」
不意打ちのように、落ちる。
アサの頬が、かっと熱くなる。
「ま、まだ下手だから」
「知っている」
即答。
思わず顔を上げると――
ほんの僅かに、目元が緩んでいた。
からかわれたのだと気づく。
「もう……」
小さな抗議の声が漏れる。
ミナギは、ハハッと笑った。
短く漏れた笑い声は、王の仮面を脱ぎ捨てた、どこか悪戯っぽい少年のようだった。
無防備に向けられたそれが――
温かくて。
そして。
泣きたくなるほど愛おしく、胸に沁み渡っていく。
アサはこぼれそうになる涙を隠すように俯き、包みをぎゅっと胸元に抱き締めた。
確かな存在。
――繋がり。
「……いっぱい書くね」
「ほどほどにしろ。読むのは俺だ」
「じゃあ、短く、たくさん書く」
「余計に増えるだろう」
軽いやり取り。
いつも通りの、何気ない言葉の往復。
それが――
逆に、胸を締めつける。
この時間が、もうすぐ終わることを、はっきりと突きつけてくる。
篝火が、またひとつ爆ぜた。
夜は、まだ深い。
けれど――
確実に、朝は近づいていた。




