白光の先へ
――出立の儀。
ミナギとアサの視線が重なる。
喧騒の只中にあって、そこだけが切り取られたように静かだった。
ほんの僅かな時間。
瞬きひとつ分にも満たない、短い交錯。
(……このまま、止まればいいのに)
アサの胸の奥で、願いがかすかに形を持つ。
刻が、このまま凍りついてしまえばいいと。
その一瞬に、すべてを閉じ込めてしまえたなら、と。
だが――
現実は容赦なく動き出す。
次の瞬間。
――カァン。
鋭い音が鳴り響いた。
鉦。
続けて。
――ドォン。
地を揺るがす太鼓の轟音が重なり、腹の底を激しく叩く。
空気が、一気に切り替わる。
儀礼から、移動へ。
静から、動へ。
整然と居並ぶ兵が長槍を立て直し、群衆を割って一本の道を開く。
アサは促されるまま輿の前へ進む。
輿は白布で覆われ、簡素でありながらも、どこか神聖な気配を帯びていた。
足をかける、その直前――
そっと、手が添えられた。
ミナギだった。
何も言わず、手を差し出す。
アサは一瞬だけ息を呑み、その手に自分の手を重ねた。
温かく、確かな体温。
そのまま、支えられるようにして輿へと足をかけ、布の内側へ、身体を滑り込ませる。
中は外界の光を遮り、柔らかく暗い。
その瞬間――
気配が、もうひとつ入り込んだ。
「――」
ミナギが、躊躇いなく、輿の中へ半身を滑り込ませていた。
外のざわめきや太鼓の音が、帳の向こうへと一気に遠のく。
狭い空間で、ぐい、と腰を抱かれた。
思考が追いつく前に――
距離が、一気に消える。
言葉はなかった。
そのまま――
唇が、重なる。
「――……っ!」
アサの目が見開かれる。
だが――
拒まない。
むしろ。
胸の底から堰を切って溢れ出した激情に突き動かされるように――
両腕が自然と伸び、彼の逞しい背中へと回る。
縋りつくように爪を立て、夢中で抱きしめ返した。
ミナギの腕も、応えるように、容赦なく締まる。
混じる心音。
絡む呼吸。
短いはずの時間が、引き延ばされる。
やがて――
名残を断ち切るように、唇が離れる。
一瞬。
視線が、絡む。
言葉はない。
それでも、すべてが伝わる。
そして――
ゆっくりと、離れる。
余韻を抱えたまま。
ミナギは、すっと輿の外へと身を引いた。
外の音が、戻ってくる。
ざわめき。
足音。
太鼓。
その直後。
「――おい」
顔を上げると、そこにいたのは浮羽だった。
腕を組み、じっとこちらを見ている。
「……全部見えてるぞ」
面白がりと、少しの呆れの入り混じった表情。
ミナギは、一瞬だけ目を細める。
「――頼んだぞ」
低く。
短く。
だが、その一言に込められた重さは明白だった。
浮羽は、ふっと肩を竦める。
「言われなくても」
口元に笑みを浮かべながら。
「命に代えても」
静かに、言い切る。
軽く言っているようで、その瞳の奥は、決して軽くない。
ミナギは、それ以上何も言わない。
ただ一度だけ、白い輿へと深く視線を投げ――
翻る衣とともに背を向けた。
掛け声が上がる。
「――出発!」
怒声が響き、六人の屈強な担ぎ手が輿を持ち上げる。
ぐらり、と揺れる。
その瞬間――
アサの中で張り詰めていたものが、切れた。
「……っ」
声が、漏れる。
止めようとしても、止まらない。
涙が、溢れる。
輿の暗がりの中――アサは両手で顔を覆い、しゃくりあげるように肩を震わせた。
嗚咽が、押し殺せない。
胸の奥に溜め込んでいたすべてが溶け出すように熱い雫となって、次から次へと指を濡らし、膝の上へこぼれ落ちていく。
外では、行列が進む。
門が、近づく。
やがて――
大きな正門をくぐる。
空気が変わる。
宮の外。
世界が、広がる。
緩やかな坂を、下りていく。
揺れる視界の中で、アサは顔を上げた。
布を押し分けるように、外を見る。
振り返る。
遠ざかる宮。
高台に立つ建物。
その屋根が、暁光を受けて白く輝いていた。
その下に、人影があるような気がした。
(……ミナギ?)
目を凝らす。
だが――
もう、はっきりとは見えない。
距離が、すでに遠い。
それでも、確かにそこにいると信じたかった。
――次の瞬間。
東の稜線から、朝日の金色の光輪が完全に姿を現した。
強烈な白光が視界を埋め尽くし、アサの濡れた頬をまっすぐに射抜く。
眩しさに耐えかねて目を細める。
遠ざかる宮も。
愛しい人の面影も。
すべてが、光の中に溶けていく。
それでも――
胸の奥には、確かに残っている。
あの温度も。
あの視線も。
あの一瞬も。
消えないまま。
アサの旅は、始まった。
第二章――完
『第二章――完』
そして――
第三章へ。
物語の舞台は、いよいよ耶馬台国へ。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
三章更新は、しばらく不定期になります。
これからもアサたちの物語を、どうぞよろしくお願いします。




