水の旅路
輿は、まだ揺れていた。
投馬国の宮を出てから、どれほどの刻が経ったのか――アサには、もうわからない。
朝方の肌を刺すような冷気は、いつの間にか柔らかなものへ変わっていた。
輿を包む荒織りの白布の隙間から射し込む陽光も、出発した頃とは違う。
夜明けの青白さは消え、陽は少しずつ高くなっている。
白布が揺れるたび、外の景色が細く切り取られて見えた。
緑。
土の道。
遠くに連なる山。
けれど、それらはすぐに後ろへ流れていく。
規則正しい足音。
輿を担ぐ者たちの、短い掛け声。
木々の葉が風に擦れる音。
それらが重なり合い、ひとつの流れとなって耳に届いていた。
アサは両手で口元を押さえていた。
涙は、もう流れていない。
けれど。
指先には、まだ残っている。
唇にも。
胸の奥にも。
先ほどまでの出来事が、消えずに残っていた。
目を閉じれば、すぐに思い出してしまう。
だからアサは、目を開けていた。
揺れる白布を。
流れていく景色を。
ただ、見つめていた。
◇
しばらくして、道の様子が変わった。
乾いた土の道から、湿り気を帯びた土へ。
草の匂いに、かすかな水の匂いが混じり始める。
鳥の声も増えていた。
遠くから、甲高い鳴き声が聞こえる。
水辺に近づいている。
そんなことを、アサは知らず知らずのうちに感じ取っていた。
やがて。
輿が、ゆっくりと止まった。
外で声が交わされる。
「――中継の村に到着致しました」
幕布が開く。
眩しい光が、差し込んできた。
アサは目を細める。
浮羽が、顔を覗かせた。
「疲れたか?」
軽く投げてよこす口調とは裏腹に、その視線は村のあちこちへ鋭く配られている。
アサは小さく首を横に振った。
「大丈夫です」
声は、もう揺れていない。
浮羽は、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、顎先で木立の先を促した。
「じゃあ、行くぞ。こっちだ」
アサは輿から降りた。
そこは、小さな集落だった。
家は川沿いに寄り添うように建ち並び、屋根の向こうには青々とした木々が見える。
少し離れたところでは、畑仕事をしている者たちの姿があった。
土を耕す鍬の音。
見知らぬ高貴な一行を物陰からじっと見つめる子どもたちの、濁りのない瞳。
浮羽の背を追って雑木林を抜けると、視界が一気にひらけた。
目の前を奔る大河が、正午の光を浴びて無数の銀鱗のように波打っている。
風に騒めく葦の茂みの向こう――岸辺の杭には、丸太を刳り抜いた細長い舟や、厚板を継ぎ合わせた頑丈な荷舟が幾艘も揺らめいていた。
「……舟」
思わず、アサの口から声が漏れた。
浮羽が振り返った。
「舟は初めてか?」
アサは小さく頷いた。
舟は岸辺に繋がれている。
細長いものもあれば、荷を積むためなのか、少し幅の広いものもある。
男たちが荷を運び込んでいる。
籠。
木箱。
束ねた布。
誰かが声を掛ける。
別の誰かが応じる。
そのたびに、舟が小さく揺れた。
アサは、しばらく動かなかった。
川は、ただ流れている。
けれど、その流れの上に人の営みがある。
陸とは違う世界が、そこにはあった。
◇
昼を少し過ぎる頃。
荷の積み替えが終わった。
アサが舟へ近づく。
舟着き場は簡素なものだった。
岸辺に杭が打たれ、何本かの木材が渡されている。
足を乗せると、木が小さく軋んだ。
思ったよりも細い。
下を見れば、木材の隙間から水が見える。
ゆっくりと流れる水面。
光。
その下を、影が流れていく。
「気をつけろ」
浮羽が言った。
アサは慎重に足を進めた。
舟の縁へ手をかける。
掌に、冷たく湿った木の感触が広がった。
浮羽が先に乗り込む。
身体を低くし、舟を安定させる。
「ほら」
差し出された手。
アサは、一瞬だけそれを見た。
そして、そっと手を重ねる。
舟へ足を乗せた瞬間――
世界が、わずかに傾いた。
身体が揺れる。
「……わわっ」
反射的に、浮羽の手を強く握った。
「大丈夫だ」
「……すみません」
けれど、声とは裏腹に、胸は早く鼓動している。
水の上にいる。
そのことが、身体を通して伝わってくる。
アサが腰を下ろすと、舟底の硬さが身体へ伝わった。
その下では、水が絶えず舟を押している。
かすかな振動。
木が軋む音。
水が船腹を撫でる音。
陸とは、音まで違っていた。
やがて櫂が水へ入る。
ぱしゃり、と水が跳ねた。
次の瞬間、舟がゆっくりと動き始める。
岸が遠ざかっていく。
さっきまで足を置いていた木材。
川辺の草。
集落の家々。
人の姿。
すべてが、少しずつ小さくなっていく。
アサは振り返った。
投馬国を出てから、まだ一日も経っていない。
けれど。
もう、自分がいた場所が遠くなっている。
舟は流れに沿って進んでいく。
浅い支流へ入ると、川幅は少し狭くなった。
両岸から木々が迫り、枝葉が水面に影を落としている。
時折、鳥が枝から飛び立つ。
水面すれすれを滑るように飛び、向こう岸の茂みへ消えていく。
アサは、何も言わずにそれを見ていた。
風が頬を撫でる。
朝の道で感じた風とは違う。
水の匂いを含んでいた。
草の青い匂い。
湿った土の匂い。
遠くで焚かれている火の煙。
それらが混ざり合って、知らない土地の匂いになっている。
やがて、空の色が変わり始めた。
昼の白い光が、少しずつ金色を帯びていく。
川面にも、夕日の色が伸びていた。
櫂が水を掻くたび、金色の光が崩れる。
アサは、その光を見つめた。
美しい。
胸の奥には、まだ痛みがある。
この先に、何が待っているのか。
不安も消えてはいない。
それでも。
目の前の景色は、美しかった。
旅は、始まったばかりだった。




