余白の時間
投馬国を出て、舟に乗り換えてからの記憶は、ほとんど定かではない。
ただ、揺れていた。
水面を滑るような揺れ。
櫂が水を掻くたびに伝わってくる、身体の芯まで響く細かな振動。
初日のうちは、流れていく景色を眺める余裕もあった。
だが、今――
アサは膝を抱え、舟の縁に額を押し当てたまま、丸一日近くを耐えていた。
喉の奥まで苦いものがせり上がっては、何度も冷たい唾を飲み込む。
顔は土気色になり、口元を押さえる指先にも、もう力が入らない。
目を閉じても、耳の奥で水が揺れている。
目を開ければ、天地が不意に傾く。
もう、空の色も。
川面にきらめく光も、心底どうでもよくなっていた。
「おい、大丈夫か」
時折かけられる浮羽の声にも、か細い息を漏らすことしかできなかった。
自分は、舟が苦手なのだ。
身動きの取れない狭い板の上で、世界そのものが頼りなく揺れ続ける。
それが、これほどまでに身を削るものだとは思わなかった。
陸のように踏みしめる場所がない。
その頼りなさが、胃の腑をじわじわと雑巾のように絞り上げていた。
「水だ。少し口に含め」
差し出された竹筒の水を、アサは喉を鳴らして、わずかに飲み込むのがやっとだった。
◇
そんな限界の中で、救いは唐突に訪れた。
舟の底板を叩く、鈍い音。
続いて、漕ぎ手たちの慌ただしい声が飛び交う。
舟は進む向きを大きく変え、小さな湊の砂利浜へと舳先を乗り上げた。
舟に亀裂が入ったらしい。
修理には半日はかかるという。
思いがけない足止めだった。
陸に上がった瞬間――アサは、踏みしめた大地の固さに涙が出そうになった。
ふらつく足で川沿いの大きな榎の木陰へ向かい、そのまま崩れるように腰を下ろす。
頭の芯では、まだ水面が傾き続けている。
青白い顔で膝を抱えるアサを見下ろしながら、浮羽が腰の荷を解いた。
「口、開けろ」
浮羽の長い指先からつまみ出されたのは、麻布に包まれた小豆粒ほどの乾いた黒い丸薬だった。
「これ……なに……?」
「気付け薬だ。噛み砕け。飛び上がるほど苦いぞ」
警告すら耳に入らないほど、アサは追い詰められていた。
この吐き気から逃れられるなら、泥でも呑み込む。
そんな気持ちで、震える指で丸薬を受け取り、口に入れ、噛んだ。
「――……う……ッ!」
その瞬間――
頭の芯を殴られたような猛烈な青臭さと苦味が、口いっぱいに広がった。
あまりの強烈さに、アサの顔中の筋肉が中央へ、ぎゅっと寄る。
涙が、ぼろぼろとこぼれた。
「ぶ……っ!」
それを見た浮羽が、吹き出した。
「はは、すごいブスだぞ、お前」
「ひ、ひどい……っ」
涙目で愕然とするアサに、浮羽は悪びれもせず、喉を鳴らして楽しそうに笑った。
「ミナギには見せられん顔だな」
「……どうせ、浮羽さんみたいな、美人じゃないもん……っ」
月光を浴びた薄氷のように透き通る完璧な美貌で、さらりと毒を吐く浮羽を前に、アサは湿った声で抗議する。
喉の奥に居座る圧倒的な苦味に悶絶しそうになりながらも。
喉を細く鳴らし。
喉頭を震わせながら。
どうにかその固形物を、ゴクリと重い音を立てて飲み下した。
瞬間、アサは力尽きたように膝から崩れ落ち、荒い息を吐き出しながら地面に突っ伏したのだった。
しばらくして――
ふと呼吸が少し楽になっていることに気づいた。
「あれ……?」
すうっと冷たい感覚が胸元へ広がっていく。
あれほどしつこく胃を絞り上げていた吐き気が、潮が引くように少しずつ消えていった。
「なんか急に……楽になってきました」
「だろ?」
アサの驚いた顔を見て、浮羽が得意げに眉を上げる。
「こういう調合が得意な奴がいてな。この二つ先の村で落ち合う手筈なんだが――」
そう言って浮羽は、川岸へ引き上げられた舟へ視線を向けた。
舟の周りでは、男たちが頭を抱えている。
木槌を振るう音も、まばらだった。
浮羽は小さく肩をすくめ、息を吐いた。
「……こりゃ、今日中は無理だな」
川風が木陰を吹き抜け、梢をさらさらと揺らす。
ふとアサへ視線を戻した浮羽が、呆れたように目を細めた。
「お前、髪もぐちゃぐちゃじゃないか」
「えっ」
慌てて髪に触れる。
丸一日、舟の縁に頭を擦りつけていたせいで、結び目はすっかり解けていた。
あちこちが跳ねて、まるで鳥の巣のようになっている。
恥ずかしさに顔を赤らめるアサの背後へ、浮羽がすっと回り込んだ。
「じっとしてろ」
そう言うと、浮羽の細くしなやかな指先が、優しくアサの髪を解きほぐし始めた。
意外なほど、その手つきは柔らかい。
櫛を滑らせるように指を通し、もつれをひとつずつ解いていく。
木漏れ日が、二人の頭上に柔らかな斑模様を落としていた。
川のせせらぎ。
時折、木々の間を抜けていく風。
そのどれもが、舟の上では感じられなかったほど心地よかった。
浮羽の指先は、まるで機を織るように迷いなく動いていく。
髪を幾筋かに分け、手際よく交差させる。
側頭部から後頭部へ、細かな編み込みが形を作っていった。
淀みのない、洗練された手さばきだった。
「はい、できた」
軽く肩を叩かれ、アサは立ち上がった。
そして川の浅瀬へ駆け寄る。
澄んだ水面に、おずおずと自分の姿を映してみた。
「……わぁ!」
そこに映っていたのは、さっきまでの青白い顔をした悲壮な自分ではなかった。
乱れていた髪はきれいに編み込まれ、顔まわりをすっきりと見せている。
それでいて、どこか華やかで愛らしい。
「すごい、浮羽さん! こんなの、自分じゃ絶対にできません」
水面を覗き込んだまま、アサは何度も角度を変え、嬉しそうに頭を撫でる。
その満面の笑みを、木陰に座り直した浮羽が眺めていた。
からかうような目。
けれど、その奥にはどこか満足そうな色が浮かんでいる。
思いがけない舟の損壊がもたらした、半日の足止め。
それは、過酷な逃避行の途中にふと落ちてきた、風の通る木陰のような時間だった。
静かで。
柔らかく。
二人にとって、ほんの少しだけ肩の力を抜ける余白の時間だった。




