夕映えに残るもの
陽の光が、宮の回廊へ静かに降り注いでいた。
穏やかな午後。
アサは、隣を歩くミツの話に耳を傾けながら、ゆっくりと歩いていた。
出立の日が近づいている。
そう思ってからの日々は、驚くほど早かった。
目に映るもの。
聞こえる声。
何気ない宮での時間。
すべてが、少しずつ「最後」になっていく。
それでも――
アサは、変わらないものを大切にしていた。
そのひとつが、こうしてミツと並んで歩く時間だった。
「それでさぁ、厨房のトメさんがまた怒ってたのよ」
ミツは身振り手振りを交えながら、楽しそうに話している。
「『味見をする人が多すぎるから料理が減るんだ』って。でもね、一番つまみ食いしてるの、結局トメさん本人なの」
思い出しただけで可笑しいのか、ミツは肩を揺らして笑った。
「もう皆、言わないだけで分かってるんだから」
その屈託のない笑顔を見て、アサも自然と口元を緩める。
その時だった。
ふいに、ミツの足が止まる。
「……あ」
小さな声。
アサが不思議そうに顔を向けると、ミツの視線は少し先へ向いていた。
「……ヒシンだ」
名前を呼ぶ声が、ほんの少しだけ弾む。
そこにいたのは、背の高い青年だった。
整った涼しげな顔立ち。
ミツの幼なじみ。
そして――
ミツが想い続けている相手。
次の瞬間。
ミツは急に落ち着きをなくしたように、髪へ手をやった。
衣の端を整え、姿勢を正す。
そして、アサへ小声で尋ねた。
「ねえ……大丈夫かな?」
「え?」
「変なところない?」
真剣な顔で聞くミツに、アサは思わず目を細めた。
「うん」
少し間を置いて。
「可愛いよ」
「えっ!?」
ミツの目が大きく開く。
「や、やだなぁ、もう!」
ミツは頬を染め、照れたように手を振った。
その表情を見ていると、アサまで自然と笑みがこぼれる。
恋をしている人は、こんなにも変わるのだと思った。
普段は明るく、どこか豪快なミツが。
頬を染め。
瞳を輝かせ。
その姿は、誰が見ても可愛らしかった。
「よぉ、ミツ」
軽い声が飛んできた。
ヒシンだった。
「お前の声、向こうの角から丸聞こえだったぞ」
「えっ……!?」
一瞬でミツの顔が赤くなる。
「ちょっと! 嘘でしょ!?」
「いや、本当」
ヒシンは悪びれもせず、笑う。
「やだもう……!」
恥ずかしそうに眉を寄せるミツ。
アサは少し離れた場所から、二人を眺めていた。
(やっぱり……仲いいな)
遠慮のない言葉。
気安い笑い。
けれど。
その奥には確かな優しさがある。
言葉にしなくても伝わるものがある。
二人の間には、穏やかで温かな空気が流れていた。
ふと。
アサは、少し後ろに立つ人物に気づいた。
こちらを見ている。
真面目な顔。
けれど、視線が重なった瞬間――
その瞳が、わずかに揺れた。
(あ……)
アサは記憶を探す。
そして。
(あの時の……)
思い出した。
以前、井戸で水汲みを手伝ってくれた若い兵。
名前までは知らない。
けれど、あの日の親切は覚えていた。
アサは小さく頭を下げる。
ありがとう。
そう伝えるように。
そして、柔らかく微笑んだ。
その瞬間。
アオバの身体は、まるで時が止まったように動かなくなった。
胸の奥が、大きく鳴る。
頬が熱い。
何か言わなければ。
そう思うのに、喉から声が出てこない。
そんなアオバの変化に、ヒシンはすぐ気づいた。
けれど。
からかうことはしなかった。
ただ、少しだけ口元を緩める。
そして――
「そういや、アサちゃんももうすぐ投馬国を発つんだよな」
突然話を振られ、アサが目を瞬かせる。
「は、はい」
小さく頷く。
「いやぁ……しかし、もうアサちゃんなんて気軽には呼べないか」
ヒシンは冗談めかして笑った。
アサは困ったように眉を下げる。
「そんな……今まで通りで大丈夫ですよ」
するとヒシンは、急に表情を引き締めた。
そして。
わざとらしく背筋を伸ばす。
「本日も御元気そうで何よりでございます、アサ様」
深々と頭を下げる。
その妙に丁寧な仕草に――
ミツが吹き出した。
アサも焦ったように頬を赤らめる。
「もう、全然似合わない〜」
ミツのけらけらと笑う声が、廊下に響いた
その光景を見ながら。
アオバは、目を丸くしていた。
(……いつの間に)
自分の知らないところで。
こんなにも自然に話せる関係になっていたのか。
自分など、おそらく名前すら覚えられていないというのに。
いつもモモジが、社交的で、少し気障なところのあるヒシンを見るたびに。
「ぐぬぬ……」
と悔しそうな顔をしている。
アオバは、それを半ば呆れながら見ていたのだが――
今なら少し分かる。
あいつが悔しがる理由が。
その時。
ヒシンがふとアオバを見る。
「そうだ」
軽く首を傾げた。
「二人とも、アオバとは話したことなかったっけ?」
「……ッ」
突然名前を呼ばれ、アオバの肩が跳ねる。
「こいつ、こう見えてすごい奴なんだぞ」
ヒシンは笑う。
「俺たち新兵の中でも、槍の腕はかなりのもんだ」
「おい、ヒシン……」
止めようとするアオバ。
だが。
「稽古でこいつから一本取るのは簡単なことじゃない」
ヒシンは何でもないことのように言った。
「そんなに強いの?」
ミツが目を丸くする。
そして。
アサも。
「すごいですね」
まっすぐな瞳で言った。
その瞬間。
アオバの顔が、一気に熱くなる。
「いや……その……」
好きな人から向けられる、純粋な称賛。
嬉しい。
けれど。
どう返せばいいのか分からない。
「……たいしたことでは……」
やっと出た言葉は、いつものように短かった。
(……勘弁してくれ)
胸の内で呟く。
ヒシンは絶対に面白がっている。
そう思って横を見ると――
案の定。
口元がニヤニヤしていた。
アオバは小さく溜息をつく。
だが。
不思議と嫌な気持ちはしなかった。
その後もヒシンは、
「こいつは槍だけじゃなく、面倒見もいい」
「頼まれたことは最後までやりとげて手を抜かない」
などと、次々にアオバの長所を挙げていった。
アオバは顔を真っ赤にして、
「ヒシン、もういい……」
と俯くが、アサとミツは素直に感心していた。
褒められるたびに、照れて困り果てるアオバを見て、ヒシンは楽しそうに笑った。
その時だった。
遠くから、
カン――
澄んだ音が響いた。
夕の鉦。
宮に、一日の終わりを告げる音だった。
廊を渡る風が、少し冷たくなる。
「あ……もうこんな時間」
ミツが空を見上げる。
西の空は、赤く染まり始めていた。
「話し込んじゃったね」
ヒシンが笑う。
「だな」
短い時間だった。
けれど。
なぜか、いつもより長く感じた。
しばらくして。
「じゃあ、またね」
ミツがヒシンへ手を振る。
「ああ」
ヒシンも笑って返した。
アサも小さく頭を下げる。
三人が歩き出そうとした、その時だった。
「あの……!」
声が出ていた。
自分でも驚くほど、自然に。
アサが振り返る。
「あ……」
アオバは小さく息を吸う。
何を言えば。
そう考えているうちに、アサと目が合う。
どきり、と胸が鳴る。
もっと気後れせずに話しかければよかった。
もっと勇気を出していればよかった。
今になって、そんな後悔が胸の奥から湧いてくる。
けれど、もう遅い。
アサは、もうすぐここを離れる。
次にいつ会えるかなんて、分からない。
もしかしたら――
もう、二度と会えないかもしれない。
そう思うと、胸の奥が締めつけられるようだった。
アオバは、ぎゅっと手を握った。
「向こうでも……」
そこで、言葉が途切れる。
何か気の利いたことを言いたかった。
けれど、そんな言葉は思いつかなかった。
結局、口から出てきたのは――
「お、お元気で」
たった、それだけだった。
不器用な言葉。
飾り気のない言葉。
けれど。
その一言には、アオバの胸の奥にあるものが、すべて詰まっていた。
元気でいてほしい。
無事でいてほしい。
そして――
いつかまた、会えたらいい。
言えなかった言葉の代わりに、その願いだけが、静かに残った。
アサは一瞬、目を瞬かせる。
そして――
柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
静かな声。
「アオバさんも、頑張ってくださいね」
その瞬間。
アオバの世界から、周囲の音が消えた。
風の音も。
鳥の声も。
廊を歩く人々の気配も。
ただひとつ。
自分の名を呼んでくれた。
たったそれだけ。
それだけのことなのに。
胸がいっぱいになった。
アサはもう一度、丁寧に一礼した。
そして。
踵を返す。
揺れる髪。
夕暮れの光を受ける小さな背中。
その姿が、少しずつ遠ざかっていく。
アオバは、ただ黙ってその姿を見送っていた。
そんなアオバの隣で。
ヒシンは腕を組みながら、その様子を眺めていた。
やがて。
小さく息を吐く。
「良かったじゃねぇか」
からかうでもなく。
茶化すでもなく。
ただ、優しく言った。
アオバの肩が、わずかに揺れる。
「……何が」
ようやく返した声は、いつもより少し弱かった。
ヒシンは前を向いたまま笑う。
「名前、覚えてもらえたな」
アオバは答えなかった。
否定もしない。
照れ隠しの言葉も出てこない。
ただ。
胸の奥に残った温かなものを、大切に抱えるように。
静かに夕暮れの空を見上げていた。




