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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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98/136

夕映えに残るもの



 陽(ひ)の光(ひかり)が、宮(みや)の回廊(かいろう)へ静(しず)かに降(ふ)り注(そそ)いでいた。


 穏(おだ)やかな午後(ごご)。


 アサは、隣(となり)を歩(ある)くミツの話(はなし)に耳(みみ)を傾(かたむ)けながら、ゆっくりと歩(ある)いていた。



 出立(しゅったつ)の日(ひ)が近(ちか)づいている。


 そう思(おも)ってからの日々(ひび)は、驚(おどろ)くほど早(はや)かった。


 目(め)に映(うつ)るもの。


 聞(き)こえる声(こえ)。


 何気(なにげ)ない宮(みや)での時間(じかん)。


 すべてが、少(すこ)しずつ「最後(さいご)」になっていく。


 それでも――


 アサは、変(か)わらないものを大切(たいせつ)にしていた。


 そのひとつが、こうしてミツと並(なら)んで歩(ある)く時間(じかん)だった。



「それでさぁ、厨房(ちゅうぼう)のトメさんがまた怒(おこ)ってたのよ」


 ミツは身振(みぶ)り手振(てぶ)りを交(まじ)えながら、楽(たの)しそうに話(はな)している。


「『味見(あじみ)をする人(ひと)が多(おお)すぎるから料理(りょうり)が減(へ)るんだ』って。でもね、一番(いちばん)つまみ食(ぐ)いしてるの、結局(けっきょく)トメさん本人(ほんにん)なの」


 思(おも)い出(だ)しただけで可笑(おか)しいのか、ミツは肩(かた)を揺(ゆ)らして笑(わら)った。


「もう皆(みんな)、言(い)わないだけで分(わ)かってるんだから」


 その屈託(くったく)のない笑顔(えがお)を見(み)て、アサも自然(しぜん)と口元(くちもと)を緩(ゆる)める。



 その時(とき)だった。


 ふいに、ミツの足(あし)が止(と)まる。


「……あ」


 小(ちい)さな声(こえ)。


 アサが不思議(ふしぎ)そうに顔(かお)を向(む)けると、ミツの視線(しせん)は少(すこ)し先(さき)へ向(む)いていた。



「……ヒシンだ」


 名前(なまえ)を呼(よ)ぶ声(こえ)が、ほんの少(すこ)しだけ弾(はず)む。


 そこにいたのは、背(せ)の高(たか)い青年(せいねん)だった。


 整(ととの)った涼(すず)しげな顔立(かおだ)ち。


 ミツの幼(おさな)なじみ。


 そして――


 ミツが想(おも)い続(つづ)けている相手(あいて)。



 次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)。


 ミツは急(きゅう)に落(お)ち着(つ)きをなくしたように、髪(かみ)へ手(て)をやった。


 衣(ころも)の端(はし)を整(ととの)え、姿勢(しせい)を正(ただ)す。


 そして、アサへ小声(こごえ)で尋(たず)ねた。


「ねえ……大丈夫(だいじょうぶ)かな?」


「え?」


「変(へん)なところない?」


 真剣(しんけん)な顔(かお)で聞(き)くミツに、アサは思(おも)わず目(め)を細(ほそ)めた。


「うん」


 少(すこ)し間(ま)を置(お)いて。


「可愛(かわい)いよ」


「えっ!?」


 ミツの目(め)が大(おお)きく開(ひら)く。


「や、やだなぁ、もう!」


 ミツは頬(ほお)を染(そ)め、照(て)れたように手(て)を振(ふ)った。


 その表情(ひょうじょう)を見(み)ていると、アサまで自然(しぜん)と笑(え)みがこぼれる。


 恋(こい)をしている人(ひと)は、こんなにも変(か)わるのだと思(おも)った。


 普段(ふだん)は明(あか)るく、どこか豪快(ごうかい)なミツが。


 頬(ほお)を染(そ)め。


 瞳(ひとみ)を輝(かがや)かせ。


 その姿(すがた)は、誰(だれ)が見(み)ても可愛(かわい)らしかった。




「よぉ、ミツ」


 軽(かる)い声(こえ)が飛(と)んできた。


 ヒシンだった。


「お前(まえ)の声(こえ)、向(む)こうの角(かど)から丸聞(まるぎ)こえだったぞ」


「えっ……!?」


 一瞬(いっしゅん)でミツの顔(かお)が赤(あか)くなる。


「ちょっと! 嘘(うそ)でしょ!?」


「いや、本当(ほんとう)」


 ヒシンは悪(わる)びれもせず、笑(わら)う。


「やだもう……!」


 恥(は)ずかしそうに眉(まゆ)を寄(よ)せるミツ。



 アサは少(すこ)し離(はな)れた場所(ばしょ)から、二人(ふたり)を眺(なが)めていた。


(やっぱり……仲(なか)いいな)


 遠慮(えんりょ)のない言葉(ことば)。


 気安(きやす)い笑(わら)い。


 けれど。


 その奥(おく)には確(たし)かな優(やさ)しさがある。


 言葉(ことば)にしなくても伝(つた)わるものがある。


 二人(ふたり)の間(あいだ)には、穏(おだ)やかで温(あたた)かな空気(くうき)が流(なが)れていた。




 ふと。


 アサは、少(すこ)し後(うし)ろに立(た)つ人物(じんぶつ)に気(き)づいた。


 こちらを見(み)ている。


 真面目(まじめ)な顔(かお)。


 けれど、視線(しせん)が重(かさ)なった瞬間(しゅんかん)――


 その瞳(ひとみ)が、わずかに揺(ゆ)れた。


(あ……)


 アサは記憶(きおく)を探(さが)す。


 そして。


(あの時(とき)の……)


 思(おも)い出(だ)した。


 以前(いぜん)、井戸(いど)で水汲(みずく)みを手伝(てつだ)ってくれた若《わか》い兵(へい)。


 名前(なまえ)までは知(し)らない。


 けれど、あの日(ひ)の親切(しんせつ)は覚(おぼ)えていた。


 アサは小(ちい)さく頭(あたま)を下(さ)げる。


 ありがとう。


 そう伝(つた)えるように。


 そして、柔(やわ)らかく微笑(ほほえ)んだ。



 その瞬間(しゅんかん)。


 アオバの身体(からだ)は、まるで時(とき)が止(と)まったように動(うご)かなくなった。


 胸(むね)の奥(おく)が、大(おお)きく鳴(な)る。


 頬(ほお)が熱(あつ)い。


 何(なに)か言(い)わなければ。


 そう思(おも)うのに、喉(のど)から声(こえ)が出(で)てこない。



 そんなアオバの変化(へんか)に、ヒシンはすぐ気(き)づいた。


 けれど。


 からかうことはしなかった。


 ただ、少(すこ)しだけ口元(くちもと)を緩(ゆる)める。


 そして――


「そういや、アサちゃんももうすぐ投馬国(とうまこく)を発(た)つんだよな」


 突然(とつぜん)話(はなし)を振(ふ)られ、アサが目(め)を瞬(またた)かせる。


「は、はい」


 小(ちい)さく頷(うなず)く。


「いやぁ……しかし、もうアサちゃんなんて気軽(きがる)には呼(よ)べないか」


 ヒシンは冗談(じょうだん)めかして笑(わら)った。


 アサは困(こま)ったように眉(まゆ)を下(さ)げる。


「そんな……今(いま)まで通(どお)りで大丈夫(だいじょうぶ)ですよ」


 するとヒシンは、急(きゅう)に表情(ひょうじょう)を引(ひ)き締(し)めた。


 そして。


 わざとらしく背筋(せすじ)を伸(の)ばす。


「本日(ほんじつ)も御元気(おげんき)そうで何(なに)よりでございます、アサ様(さま)」


 深々(ふかぶか)と頭(あたま)を下(さ)げる。


 その妙(みょう)に丁寧(ていねい)な仕草(しぐさ)に――


 ミツが吹(ふ)き出(だ)した。


 アサも焦(あせ)ったように頬(ほお)を赤(あか)らめる。


「もう、全然《ぜんぜん》似合《にあ》わない〜」


 ミツのけらけらと笑(わら)う声(こえ)が、廊下(ろうか)に響(ひび)いた



 その光景(こうけい)を見(み)ながら。


 アオバは、目(め)を丸(まる)くしていた。


(……いつの間(ま)に)


 自分(じぶん)の知(し)らないところで。


 こんなにも自然(しぜん)に話(はな)せる関係(かんけい)になっていたのか。


 自分(じぶん)など、おそらく名前(なまえ)すら覚(おぼ)えられていないというのに。


 いつもモモジが、社交的(しゃこうてき)で、少(すこ)し気障(きざ)なところのあるヒシンを見(み)るたびに。


「ぐぬぬ……」


 と悔(くや)しそうな顔(かお)をしている。


 アオバは、それを半(なか)ば呆(あき)れながら見(み)ていたのだが――


 今(いま)なら少(すこ)し分(わ)かる。


 あいつが悔(くや)しがる理由(りゆう)が。



 その時(とき)。


 ヒシンがふとアオバを見(み)る。


「そうだ」


 軽(かる)く首(くび)を傾(かし)げた。


「二人(ふたり)とも、アオバとは話(はな)したことなかったっけ?」


「……ッ」


 突然(とつぜん)名前(なまえ)を呼(よ)ばれ、アオバの肩(かた)が跳(は)ねる。


「こいつ、こう見(み)えてすごい奴(やつ)なんだぞ」


 ヒシンは笑(わら)う。


「俺(おれ)たち新兵(しんぺい)の中(なか)でも、槍(やり)の腕(うで)はかなりのもんだ」


「おい、ヒシン……」


 止(と)めようとするアオバ。


 だが。


「稽古(けいこ)でこいつから一本(いっぽん)取(と)るのは簡単(かんたん)なことじゃない」


 ヒシンは何(なん)でもないことのように言(い)った。


「そんなに強(つよ)いの?」


 ミツが目(め)を丸(まる)くする。


 そして。


 アサも。


「すごいですね」


 まっすぐな瞳(ひとみ)で言(い)った。



 その瞬間(しゅんかん)。


 アオバの顔(かお)が、一気(いっき)に熱(あつ)くなる。


「いや……その……」


 好(す)きな人(ひと)から向(む)けられる、純粋(じゅんすい)な称賛(しょうさん)。


 嬉(うれ)しい。


 けれど。


 どう返(かえ)せばいいのか分(わ)からない。


「……たいしたことでは……」


 やっと出(で)た言葉(ことば)は、いつものように短(みじか)かった。


(……勘弁(かんべん)してくれ)


 胸(むね)の内(うち)で呟(つぶや)く。


 ヒシンは絶対(ぜったい)に面白(おもしろ)がっている。


 そう思(おも)って横(よこ)を見(み)ると――


 案(あん)の定(じょう)。


 口元(くちもと)がニヤニヤしていた。


 アオバは小(ちい)さく溜息(ためいき)をつく。


 だが。


 不思議(ふしぎ)と嫌(いや)な気持(きも)ちはしなかった。

 

 その後(ご)もヒシンは、


「こいつは槍(やり)だけじゃなく、面倒見(めんどうみ)もいい」


「頼(たの)まれたことは最後(さいご)までやりとげて手《て》を抜《ぬ》かない」


 などと、次々(つぎつぎ)にアオバの長所(ちょうしょ)を挙(あ)げていった。


 アオバは顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にして、


「ヒシン、もういい……」


 と俯(うつむ)くが、アサとミツは素直(すなお)に感心(かんしん)していた。


 褒(ほ)められるたびに、照(て)れて困(こま)り果(は)てるアオバを見(み)て、ヒシンは楽(たの)しそうに笑(わら)った。



 その時(とき)だった。


 遠(とお)くから、


 カン――


 澄(す)んだ音(おと)が響(ひび)いた。


 夕(ゆう)の鉦(かね)。


 宮(みや)に、一日(いちにち)の終(お)わりを告(つ)げる音(おと)だった。


 廊(ろう)を渡(わた)る風(かぜ)が、少(すこ)し冷(つめ)たくなる。


「あ……もうこんな時間(じかん)」


 ミツが空(そら)を見上(みあ)げる。


 西(にし)の空(そら)は、赤(あか)く染(そ)まり始(はじ)めていた。


「話(はな)し込(こ)んじゃったね」


 ヒシンが笑(わら)う。


「だな」


 短(みじか)い時間(じかん)だった。


 けれど。


 なぜか、いつもより長(なが)く感(かん)じた。


 しばらくして。


「じゃあ、またね」


 ミツがヒシンへ手(て)を振(ふ)る。


「ああ」


 ヒシンも笑(わら)って返(かえ)した。


 アサも小(ちい)さく頭(あたま)を下(さ)げる。


 三人(さんにん)が歩(ある)き出(だ)そうとした、その時(とき)だった。


「あの……!」


 声(こえ)が出(で)ていた。


 自分(じぶん)でも驚(おどろ)くほど、自然(しぜん)に。


 アサが振(ふ)り返(かえ)る。


「あ……」


 アオバは小(ちい)さく息(いき)を吸(す)う。


 何《なに》を言(い)えば。


 そう考(かんが)えているうちに、アサと目《め》が合《あ》う。


 どきり、と胸(むね)が鳴(な)る。



 もっと気後(きおく)れせずに話(はな)しかければよかった。


 もっと勇気(ゆうき)を出(だ)していればよかった。


 今《いま》になって、そんな後悔(こうかい)が胸(むね)の奥(おく)から湧(わ)いてくる。


 けれど、もう遅(おそ)い。


 アサは、もうすぐここを離(はな)れる。


 次《つぎ》にいつ会《あ》えるかなんて、分《わ》からない。


 もしかしたら――


 もう、二度《にど》と会《あ》えないかもしれない。


 そう思(おも)うと、胸《むね》の奥(おく)が締(し)めつけられるようだった。


 アオバは、ぎゅっと手(て)を握(にぎ)った。


「向《む》こうでも……」


 そこで、言葉《ことば》が途切(とぎ)れる。


 何《なに》か気(き)の利(き)いたことを言(い)いたかった。


 けれど、そんな言葉《ことば》は思(おも)いつかなかった。


 結局《けっきょく》、口《くち》から出《で》てきたのは――


「お、お元気(げんき)で」


 たった、それだけだった。


 不器用(ぶきよう)な言葉(ことば)。


 飾(かざ)り気(け)のない言葉(ことば)。


 けれど。


 その一言《ひとこと》には、アオバの胸(むね)の奥(おく)にあるものが、すべて詰《つ》まっていた。


 元気《げんき》でいてほしい。


 無事《ぶじ》でいてほしい。


 そして――


 いつかまた、会《あ》えたらいい。


 言《い》えなかった言葉《ことば》の代《か》わりに、その願《ねが》いだけが、静《しず》かに残《のこ》った。




 アサは一瞬(いっしゅん)、目(め)を瞬(またた)かせる。


 そして――


 柔(やわ)らかく微笑(ほほえ)んだ。


「ありがとうございます」


 静(しず)かな声(こえ)。


「アオバさんも、頑張(がんば)ってくださいね」


 その瞬間(しゅんかん)。


 アオバの世界(せかい)から、周囲(しゅうい)の音(おと)が消(き)えた。


 風(かぜ)の音(おと)も。


 鳥(とり)の声(こえ)も。


 廊(ろう)を歩(ある)く人々(ひとびと)の気配(けはい)も。


 ただひとつ。


 自分(じぶん)の名(な)を呼(よ)んでくれた。


 たったそれだけ。


 それだけのことなのに。


 胸(むね)がいっぱいになった。


 

 アサはもう一度(いちど)、丁寧(ていねい)に一礼(いちれい)した。


 そして。


 踵(きびす)を返(かえ)す。


 揺(ゆ)れる髪(かみ)。


 夕暮(ゆうぐ)れの光(ひかり)を受(う)ける小(ちい)さな背中(せなか)。


 その姿(すがた)が、少(すこ)しずつ遠(とお)ざかっていく。


 アオバは、ただ黙(だま)ってその姿(すがた)を見送(みおく)っていた。


 そんなアオバの隣(となり)で。


 ヒシンは腕(うで)を組(く)みながら、その様子(ようす)を眺(なが)めていた。


 やがて。


 小(ちい)さく息(いき)を吐(は)く。


「良(よ)かったじゃねぇか」


 からかうでもなく。


 茶化(ちゃか)すでもなく。


 ただ、優(やさ)しく言(い)った。


 アオバの肩(かた)が、わずかに揺(ゆ)れる。


「……何(なに)が」


 ようやく返(かえ)した声(こえ)は、いつもより少(すこ)し弱(よわ)かった。


 ヒシンは前(まえ)を向(む)いたまま笑(わら)う。


「名前(なまえ)、覚(おぼ)えてもらえたな」


 アオバは答(こた)えなかった。


 否定(ひてい)もしない。


 照(て)れ隠(かく)しの言葉(ことば)も出(で)てこない。


 ただ。


 胸(むね)の奥(おく)に残(のこ)った温(あたた)かなものを、大切(たいせつ)に抱(かか)えるように。


 静(しず)かに夕暮(ゆうぐ)れの空(そら)を見上(みあ)げていた。


 


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