イザナ
南の狗奴国――
かつては由緒ある王家のもと、多くの部族を束ねる強国であった。
しかし先王の死を境に王家は断絶し、玉座を巡る争いは瞬く間に各地へ広がった。
有力部族が互いに兵を挙げ、国は長きにわたる内乱へと陥った。
焼かれる集落。
奪われる実り。
昨日まで同じ国に生きた者たちが、今日には敵として刃を交える。
秩序は失われ、人々は明日をも知れぬ日々を送っていた。
その混乱の中、一人の男が頭角を現す。
山地の一部族を率いる首長――カダン。
幾つもの部族を武力でねじ伏せ、ときに懐柔し、ときに裏切りを利用して勢力を広げていった。
そしてついに――乾ききらぬ血の匂いが残る玉座へと腰を下ろし、自ら狗奴国の新王を名乗る。
だが、その玉座は正統な継承によるものではない。
武力による簒奪であったがゆえに、各地にはなお、反乱の火種は絶えることがなかった。
新王カダンは恐怖と力で国を押さえつけたが、その支配は薄氷の上に築かれたものに過ぎない。
狗奴国はひとつの国でありながら、いまだ癒えぬ内乱の傷を抱え続けていた。
◇
そんなある日のことだった。
王宮の奥深く、誰人も容易には近づくことを許されぬ祭殿から、一人の男が狂乱の叫びを上げた。
カダンに仕える呪禁師である。
髪を振り乱し、自らの喉を掻きむしりながら、何もない闇に向かって怯え、絶叫し続けた。
やがて呪禁師は口から黒ずんだ血を吐き、全身を痙攣させると、そのまま冷たい石床へ崩れ落ちる。
二度と立ち上がることはなかった。
カダンの部族に古くから伝わる禁呪――その秘術をもって、遠く投馬国の王ミナギを呪い殺そうとしたのだ。
失敗したのか。
それとも、呪いそのものが打ち破られ、術者へと跳ね返ったのか。
答えを語る者は、もはや誰もいなかった。
そして、カダン自身もまた。
それ以来、変わってしまった。
夜になると寝所の隅にうずくまり、誰もいない闇を見つめる。
かつて多くの兵を従え、王座を奪い取った男の姿は、そこにはなかった。
「来る……来る……」
何かに怯えるように、ただそれだけを繰り返す。
誰もが口を閉ざした。
もう呪術には触れるべきではないと。
だが――その中でただ一人だけ、静かにカダンを見つめる青年がいた。
カダンの第五王子、イザナだった。
彼は震える父の前にしゃがみ込むと、怯えきった瞳を覗き込み、口元に薄い笑みを浮かべる。
「興味深いな」
穏やかな声だった。
「本当に、こんなことが起こるのか」
呪禁師の亡骸。
正気を失った父。
そして、その呪いを打ち破った――
投馬国王、ミナギ。
歓喜にも似た光が、その瞳に宿っていた。
「父上」
震える父に手を伸ばし、その指先が冷え切った頬に触れる。
「あなたは今、何が見えているんです?」
返事はない。
ただ、カダンは見えない何かから逃れるように震え続ける。
イザナはその様子をじっと観察し、まるで珍しい生き物でも見るかのように微笑んだ。
「やはり呪術は面白い」
その声は、静かな闇へ溶けていった。




