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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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消えないもの



 風《かぜ》が、枝葉《えだは》を揺《ゆ》らした。


 かさ、と乾《かわ》いた音《おと》が落《お》ちる。 


 しばらく、言葉《ことば》はなかった。


 やがて。


 ミツが、ふと思《おも》い出《だ》したように口《くち》を開《ひら》く。



「……でも」


 軽《かる》い調子《ちょうし》。


 だが、その一言《ひとこと》に、どこか含《ふく》みがあった。


「ミナギ様《さま》のことはいいの?」


 アサの肩《かた》が、わずかに強張《こわば》る。


「え……」


 反射的《はんしゃてき》に返《かえ》すが、言葉《ことば》にならない。


 視線《しせん》が、落《お》ちる。



 ――あれから。


 ミナギと、二人《ふたり》きりで話《はな》す機会《きかい》はなかった。


 耶馬台国《やまたいこく》への出立《しゅったつ》は、ひと月《つき》後《ご》と定《さだ》められた。


 その決定《けってい》が下《くだ》されてからというもの、宮内《きゅうない》の空気《くうき》は一段《いちだん》と慌《あわ》ただしさを増《ま》し、ミナギは王《おう》としての務《つと》めに追《お》われていた。


 日《ひ》を追《お》うごとにその姿《すがた》を見《み》かける機会《きかい》は減《へ》っていった。


 同《おな》じ宮《みや》の中《なか》にいるはずなのに、まるで遠《とお》い場所《ばしょ》にいるようだった。



 触《ふ》れられない。 


 言葉《ことば》も、交《か》わせない。


 その歪《いびつ》な距離《きょり》が、胸《むね》の奥《おく》でじわじわと広《ひろ》がっていた。



 ミツが、こちらを覗《のぞ》き込《こ》むようにして言《い》う。


「好《す》きなんでしょ?」


 あまりにも、あっさりと。


「離《はな》れちゃうの、嫌《いや》じゃないの?」


 続《つづ》けざまに。


 逃《に》げ道《みち》を塞《ふさ》ぐように。



 ――思考《しこう》が、止《と》まる。



『好《す》きなんでしょ』



 その言葉《ことば》が、頭《あたま》の中《なか》で反響《はんきょう》する。



 好《す》きか、嫌《きら》いか。


 そんな単純《たんじゅん》な二択《にたく》で問《と》われれば――


 答《こた》えは、ひとつしかない。



 好《す》きだ。


 大好《だいす》きだ。


 以前《いぜん》よりも、ずっと。


 比《くら》べものにならないほどに。


 それは、もう否定《ひてい》しようがない。


 (……でも)


 胸《むね》の奥《おく》で、言葉《ことば》が引《ひ》っかかる。


 それを単純《たんじゅん》に「恋《こい》」と呼《よ》ぶには、何《なに》かが違《ちが》う気《き》がした。


 もっと重《おも》くて。


 もっと深《ふか》くて。


 ただ一緒《いっしょ》にいたい、というだけではない。


 あの人《ひと》が、そこにいること。


 それ自体《じたい》が、支《ささ》えになっているような。


 そんな感覚《かんかく》。

 


「アサが耶馬台国《やまたいこく》にいる間《あいだ》に、志摩様《しまさま》の時《とき》みたいに――新《あたら》しい后候補《きさきこうほ》が現《あらわ》れるかもよ?」


 軽《かる》い調子《ちょうし》で放《はな》たれたミツの一言《ひとこと》に、アサの胸《むね》が大《おお》きく跳《は》ねた。


 ――もし。


 その想像《そうぞう》が、ふいに胸《むね》を掠《かす》めた。


 あり得《え》ない話《はなし》では、ない。


 むしろ――


 それが、自然《しぜん》だ。


 王《おう》である以上《いじょう》。


 后《きさき》を迎《むか》えることは、いずれ避《さ》けられない。


 それが、自分《じぶん》でない可能性《かのうせい》の方《ほう》が、ずっと高《たか》い。


 わかっている。


 最初《さいしょ》から。



 想像《そうぞう》してしまう。


 ミナギの隣《となり》に、別《べつ》の誰《だれ》かが立《た》つ光景《こうけい》。


 その人《ひと》に向《む》けられる視線《しせん》。


 触《ふ》れる手《て》。


(……やだ)


 言葉《ことば》にならない声《こえ》が、胸《むね》の内《うち》で弾《はじ》ける。


 胸《むね》が、締《し》めつけられる。


 苦《くる》しい。


 どうしようもなく。



 ――一度《いちど》は、思《おも》ったことがある。


 この気持《きも》ちを受《う》け入《い》れて。


 たとえ報《むく》われなくてもいい。


 そばにいられれば、それでいいと。


 それだけで、十分《じゅうぶん》だと。


 そう、思《おも》った。


 けれど。


 これからは――


 その「そばにいる」ことすら、許《ゆる》されない。


 自分《じぶん》から、離《はな》れていく。


 選《えら》んだのは、自分《じぶん》だ。


 離《はな》れると、決《き》めたのは。


 この道《みち》しかないと、受《う》け入《い》れたのは。


 自分自身《じぶんじしん》だ。


 だから――


 この痛《いた》みも。


 全部《ぜんぶ》、引《ひ》き受《う》けるしかない。



 言葉《ことば》にならないまま、アサは視線《しせん》を落《お》とした。


膝《ひざ》の上《うえ》で指先《ゆびさき》をぎゅっと握《にぎ》りしめたまま、俯《うつむ》いて沈《しず》むアサを見《み》て、ミツは小《ちい》さく息《いき》を吐《は》いた。


「……まあ、そう簡単《かんたん》な話《はなし》じゃないよね」


 ぽつり。


 土《つち》を指《ゆび》でいじりながら、続《つづ》ける。


「向《む》こうは王様《おうさま》だもんなぁ……」


 軽《かる》く言《い》ったはずの言葉《ことば》が、少《すこ》しだけ重《おも》く落《お》ちる。


「アサだけのものになる、なんてさ。最初《さいしょ》から無理《むり》な話《はなし》だし」


 アサの肩《かた》が、わずかに揺《ゆ》れる。


「……でもさ」


 やわらかい声《こえ》。


「だからって、割《わ》り切《き》れるわけじゃないよね」


 断言《だんげん》ではなく、寄《よ》り添《そ》うような肯定《こうてい》。


 アサの喉《のど》が、小《ちい》さく鳴《な》る。


「立場《たちば》とか、国《くに》とか、そういうの全部《ぜんぶ》抜《ぬ》きにして、ただ好《す》きだっていう気持《きも》ち――」


 一瞬《いっしゅん》だけ言葉《ことば》を区切《くぎ》る。


「それってさ、正《ただ》しいとか間違《まちが》ってるとかで片付《かたづ》くもんじゃないと思《おも》うんだよね」


 アサを見《み》る。


 まっすぐではあるが、圧《あつ》をかけない目《め》。


「好《す》きって気持《きも》ちは、止《と》めようがないじゃん」


 小《ちい》さく肩《かた》をすくめて、少《すこ》しだけ笑《わら》う。


「だから、アサは普通《ふつう》だよ」


 慰《なぐさ》めというより、事実《じじつ》の提示《ていじ》に近《ちか》い。


 アサの胸《むね》の奥《おく》で、固《かた》まっていた何《なに》かがわずかにほどける。


 締《し》めつけていた指先《ゆびさき》が、一瞬《いっしゅん》だけ力《ちから》を抜《ぬ》いたような、そんな微細《びさい》な変化《へんか》。


 アサは自分《じぶん》の手元《てもと》を見《み》たまま、息《いき》を整《ととの》えるように小《ちい》さく唇《くちびる》を開《ひら》いた。


「……普通《ふつう》かな」


 掠《かす》れた声《こえ》が、静《しず》かな空気《くうき》に溶《と》ける。


「この気持《きも》ち、持《も》ち続《つづ》けてていいのかな」


 ミツは、肩《かた》の力《ちから》を抜《ぬ》くように息《いき》を吐《は》き、軽《かる》く笑《わら》った。


「いいよ」


 あまりにも自然《しぜん》で、あまりにも軽《かる》い声《こえ》だった。


「いいよいいよ、持《も》ち続《つづ》けなよ」


 そのまま、何《なん》でもない動作《どうさ》のように、ミツはアサの肩《かた》を軽《かる》く叩《たた》いた。


「邪魔《じゃま》になったら、そのうち自分《じぶん》で置《お》き場所《ばしょ》変《か》えるでしょ」


 その明《あか》るい声《こえ》に、アサの視界《しかい》が揺《ゆ》れる。


 喉《のど》の奥《おく》がきゅっと詰《つ》まり、堰《せき》を切《き》ったように涙《なみだ》が滲《にじ》む。


「……ミツに、会《あ》えなくなるのも……寂《さび》しい」


 言葉《ことば》は途中《とちゅう》で途切《とぎ》れながら、それでも落《お》ちていった。


 ミツは少《すこ》しだけ目《め》を見開《みひら》いて、それから、困《こま》ったように笑《わら》った。


「……あたしもだよ」


 声《こえ》が、少《すこ》しだけ掠《かす》れる。


「向《む》こうに行《い》っても、忘《わす》れないでね」


 冗談《じょうだん》みたいに言《い》おうとして、結局《けっきょく》それが本音《ほんね》になってしまったような、涙声《なみだごえ》だった。


 その言葉《ことば》に、アサは顔《かお》を上《あ》げる。


 涙《なみだ》で濡《ぬ》れたままの目《め》で、必死《ひっし》に笑《わら》おうとする。


「……忘《わす》れないよ」


 泣《な》きながら、ほどけた声《こえ》がこぼれた。


 夕方《ゆうがた》の光《ひかり》が二人《ふたり》の影《かげ》をゆっくりと長《なが》く伸《の》ばし、ただ隣《とな》り合《あ》ったまま揺《ゆ》れている。


 どこか遠《とお》くで風《かぜ》が鳴《な》き、近《ちか》くで誰《だれ》かの足音《あしおと》が通《とお》り過《す》ぎる。


 アサの涙《なみだ》は止《と》まらないまま、けれどもう苦《くる》しさだけのものではなくなっていた。


 やがてミツは、軽《かる》く肩《かた》をすくめるようにして、いつもの調子《ちょうし》を無理《むり》やり取《と》り戻《もど》す。


「ほら、泣《な》きすぎ。顔《かお》ひどいよ」


「……ミツもでしょ」


 小《ちい》さく笑《わら》い合《あ》う声《こえ》が重《かさ》なって、空気《くうき》が少《すこ》しだけ軽《かる》くなる。


 別《わか》れの輪郭《りんかく》はまだそこにあるのに、それでも確《たし》かに、二人《ふたり》の間《あいだ》には消(き)えないものだけが残《のこ》っていた。

   


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