消えないもの
風が、枝葉を揺らした。
かさ、と乾いた音が落ちる。
しばらく、言葉はなかった。
やがて。
ミツが、ふと思い出したように口を開く。
「……でも」
軽い調子。
だが、その一言に、どこか含みがあった。
「ミナギ様のことはいいの?」
アサの肩が、わずかに強張る。
「え……」
反射的に返すが、言葉にならない。
視線が、落ちる。
――あれから。
ミナギと、二人きりで話す機会はなかった。
耶馬台国への出立は、ひと月後と定められた。
その決定が下されてからというもの、宮内の空気は一段と慌ただしさを増し、ミナギは王としての務めに追われていた。
日を追うごとにその姿を見かける機会は減っていった。
同じ宮の中にいるはずなのに、まるで遠い場所にいるようだった。
触れられない。
言葉も、交わせない。
その歪な距離が、胸の奥でじわじわと広がっていた。
ミツが、こちらを覗き込むようにして言う。
「好きなんでしょ?」
あまりにも、あっさりと。
「離れちゃうの、嫌じゃないの?」
続けざまに。
逃げ道を塞ぐように。
――思考が、止まる。
『好きなんでしょ』
その言葉が、頭の中で反響する。
好きか、嫌いか。
そんな単純な二択で問われれば――
答えは、ひとつしかない。
好きだ。
大好きだ。
以前よりも、ずっと。
比べものにならないほどに。
それは、もう否定しようがない。
(……でも)
胸の奥で、言葉が引っかかる。
それを単純に「恋」と呼ぶには、何かが違う気がした。
もっと重くて。
もっと深くて。
ただ一緒にいたい、というだけではない。
あの人が、そこにいること。
それ自体が、支えになっているような。
そんな感覚。
「アサが耶馬台国にいる間に、志摩様の時みたいに――新しい后候補が現れるかもよ?」
軽い調子で放たれたミツの一言に、アサの胸が大きく跳ねた。
――もし。
その想像が、ふいに胸を掠めた。
あり得ない話では、ない。
むしろ――
それが、自然だ。
王である以上。
后を迎えることは、いずれ避けられない。
それが、自分でない可能性の方が、ずっと高い。
わかっている。
最初から。
想像してしまう。
ミナギの隣に、別の誰かが立つ光景。
その人に向けられる視線。
触れる手。
(……やだ)
言葉にならない声が、胸の内で弾ける。
胸が、締めつけられる。
苦しい。
どうしようもなく。
――一度は、思ったことがある。
この気持ちを受け入れて。
たとえ報われなくてもいい。
そばにいられれば、それでいいと。
それだけで、十分だと。
そう、思った。
けれど。
これからは――
その「そばにいる」ことすら、許されない。
自分から、離れていく。
選んだのは、自分だ。
離れると、決めたのは。
この道しかないと、受け入れたのは。
自分自身だ。
だから――
この痛みも。
全部、引き受けるしかない。
言葉にならないまま、アサは視線を落とした。
膝の上で指先をぎゅっと握りしめたまま、俯いて沈むアサを見て、ミツは小さく息を吐いた。
「……まあ、そう簡単な話じゃないよね」
ぽつり。
土を指でいじりながら、続ける。
「向こうは王様だもんなぁ……」
軽く言ったはずの言葉が、少しだけ重く落ちる。
「アサだけのものになる、なんてさ。最初から無理な話だし」
アサの肩が、わずかに揺れる。
「……でもさ」
やわらかい声。
「だからって、割り切れるわけじゃないよね」
断言ではなく、寄り添うような肯定。
アサの喉が、小さく鳴る。
「立場とか、国とか、そういうの全部抜きにして、ただ好きだっていう気持ち――」
一瞬だけ言葉を区切る。
「それってさ、正しいとか間違ってるとかで片付くもんじゃないと思うんだよね」
アサを見る。
まっすぐではあるが、圧をかけない目。
「好きって気持ちは、止めようがないじゃん」
小さく肩をすくめて、少しだけ笑う。
「だから、アサは普通だよ」
慰めというより、事実の提示に近い。
アサの胸の奥で、固まっていた何かがわずかにほどける。
締めつけていた指先が、一瞬だけ力を抜いたような、そんな微細な変化。
アサは自分の手元を見たまま、息を整えるように小さく唇を開いた。
「……普通かな」
掠れた声が、静かな空気に溶ける。
「この気持ち、持ち続けてていいのかな」
ミツは、肩の力を抜くように息を吐き、軽く笑った。
「いいよ」
あまりにも自然で、あまりにも軽い声だった。
「いいよいいよ、持ち続けなよ」
そのまま、何でもない動作のように、ミツはアサの肩を軽く叩いた。
「邪魔になったら、そのうち自分で置き場所変えるでしょ」
その明るい声に、アサの視界が揺れる。
喉の奥がきゅっと詰まり、堰を切ったように涙が滲む。
「……ミツに、会えなくなるのも……寂しい」
言葉は途中で途切れながら、それでも落ちていった。
ミツは少しだけ目を見開いて、それから、困ったように笑った。
「……あたしもだよ」
声が、少しだけ掠れる。
「向こうに行っても、忘れないでね」
冗談みたいに言おうとして、結局それが本音になってしまったような、涙声だった。
その言葉に、アサは顔を上げる。
涙で濡れたままの目で、必死に笑おうとする。
「……忘れないよ」
泣きながら、ほどけた声がこぼれた。
夕方の光が二人の影をゆっくりと長く伸ばし、ただ隣り合ったまま揺れている。
どこか遠くで風が鳴き、近くで誰かの足音が通り過ぎる。
アサの涙は止まらないまま、けれどもう苦しさだけのものではなくなっていた。
やがてミツは、軽く肩をすくめるようにして、いつもの調子を無理やり取り戻す。
「ほら、泣きすぎ。顔ひどいよ」
「……ミツもでしょ」
小さく笑い合う声が重なって、空気が少しだけ軽くなる。
別れの輪郭はまだそこにあるのに、それでも確かに、二人の間には消えないものだけが残っていた。




