遠ざかる日々
練武場の喧騒が、遠くからかすかに届いてくる。
その脇に広がる小さな庭。
踏み固められた土の匂いと、木陰に落ちるやわらかな光。
その片隅。
古木の根元に、アサとミツは腰を下ろしていた。
葉擦れの音が、かすかに耳を撫でる。
「耶馬台国かぁ……それはまた……遠いねえ」
気の抜けたような、けれどどこか実感を含んだ声で、ミツが言った。
「うん……」
アサは小さく頷いた。
最近、周囲の視線が変わった。
畏れ。
遠慮。
探るような気配。
誰もが一歩、距離を取るようになった。
――けれど。
ミツは、何ひとつ変わらなかった。
気軽に声をかけてきて、隣に座り、くだらない話をして笑う。
まるで、何も起きていないかのように。
以前と同じ調子で、同じ距離で。
気負いもなく、遠慮もなく。
その変わらなさが、どれほど救いになっているか。
ミツは、膝を抱えるようにして、空を見上げている。
「――実はあたしさ」
ふいに、ミツが言った。
軽い調子のまま。
「耶馬台国の近くの村で生まれ育ったんだ」
アサは、目を瞬かせた。
「……そう、なの?」
「うん。まぁ、近くって言っても、山ふたつみっつ越えたところだけどさ……」
ミツは、木の幹にもたれながら、空を見上げる。
葉の隙間からこぼれる光が、頬をまだらに照らしていた。
「七つの時にさ、戦に巻き込まれて――村、焼けちゃって」
さらりとした言い方。
けれど、その内容はあまりにも重い。
アサの胸が、ひくりと揺れる。
炎。
煙。
逃げ惑う人々《ひとびと》。
――焼ける、村。
その像が、アサの脳裏に重なる。
胸の奥が、きゅ、と縮む。
自分の記憶が、呼び起こされる。
逃げる足。
振り返れなかった背中。
失われたもの――
顔が、わずかに曇る。
ミツは気づいているのかいないのか、続けた。
「それで、必死に逃げてさ」
指先で、地面の小石を転がす。
「……まぁ、そのあと色々《いろいろ》あって、この投馬国に流れ着いたってわけ」
あっけらかんとした締め方。
だが、その色々の中身が軽いはずもない。
アサは、言葉を失った。
目の前にいるミツは、いつもよく笑って、よく喋って。
どこまでも明るい。
底抜けに、軽やかで。
――けれど。
胸の奥に、じわりとしたものが広がる。
知らなかっただけで。
彼女もまた、焼け落ちたものを抱えている。
風が、ふっと強く吹いた。
木の葉が揺れ、光が揺らぐ。
その中で、ミツは変わらず空を見上げたまま、ぽつりと続けた。
「昔はさ――今より、もっとたくさんの国があったんだって」
遠くを見るような目。
「でも、ずっと争ってた」
言葉が、ゆっくりと重なる。
「奪い合って、ぶつかって、たくさんたくさん、人が死んだ」
ミツは、そこで小さく息を吐いた。
「……その中で――」
わずかに声の調子が変わる。
「日神呼様が立ち上がったんだって」
視線が、空から降りてくる。
「争いを鎮めるために」
アサは、ゆっくりと瞬きをする。
その話は、知っている。
タヅマから聞かされたことがある。
いくつもの国が割れ、争い続けていた時代。
その中で現れ、押し鎮めた存在。
――日神呼。
ただの為政者ではない。
人の理の外から、均衡そのものを引き寄せるような。
――そんな存在。
アサは、膝の上で手を重ねる。
「……うん」
小さく、頷いた。
ミツは、膝に頬杖をついたまま、少しだけ声を緩めた。
「だからさ、耶馬台国って、なんか……特別なんだよね」
言葉を探すように、少しだけ視線が泳ぐ。
「うまく言えないけど、ただの国って感じじゃなくて」
指先で、地面の砂を軽くなぞる。
「うかつに……近づきすぎちゃいけないような場所、っていうか」
曖昧な言い回し。
けれど、その曖昧さ自体が、距離の在り方を物語っていた。
耶馬台国。
――遠い。
ただ距離の話ではない。
届かない場所。
踏み込めば、戻れない気がする場所。
人の営みから、どこか切り離されたような――
秘境。
そんな像が、ぼんやりと浮かぶ。
そこへ、自分は行く。
決めた。
もう、言葉にもした。
それでも。
不安が、消えるわけではない。
むしろ、形を持ちはじめていた。
見えなかったものが、輪郭を持つ。
知らなかった場所が、現実として迫ってくる。
胸の奥で、小さく何かが軋む。
それは恐れなのか。
それとも――別の何かなのか。
まだ、分からない。
ただ。
これから自分が向かう先が、決してただの場所ではないことだけは、はっきりと理解していた。




