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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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93/135

決断



 広間《ひろま》には、重《おも》い沈黙《ちんもく》が降《お》りていた。


 磨《みが》かれた床《ゆか》に落《お》ちる光《ひかり》は淡《あわ》く、梁《はり》の影《かげ》は静《しず》かに伸《の》びている。


 その静寂《せいじゃく》を。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》――


「お待《ま》ちくだされ!」


 鋭《するど》い声《こえ》が、切《き》り裂《さ》いた。


 刃《やいば》を抜《ぬ》いたような一声《ひとこえ》だった。


 広間《ひろま》の空気《くうき》が、びり、と震《ふる》える。


 声《こえ》の主《ぬし》は、クラジ。


 彼《かれ》は一歩《いっぽ》、前《まえ》へ出《で》た。


 床板《ゆかいた》を踏《ふ》む足音《あしおと》が、異様《いよう》なほど大《おお》きく響《ひび》く。


 周囲《しゅうい》の視線《しせん》が一斉《いっせい》に集《あつ》まる。


 それでも、クラジは退《ひ》かなかった。


 膝《ひざ》を折《お》ることもない。


 頭《こうべ》を垂《た》れることもない。


 礼《れい》を欠《か》いていることなど、百《ひゃく》も承知《しょうち》だった。


 だが、それでも言《い》わずにはいられなかった。


「お言葉《ことば》ながら……それは、認《みと》められませぬ」


 声《こえ》には、抑《おさ》えきれぬ熱《ねつ》が滲《にじ》んでいた。


 広間《ひろま》のあちこちで、わずかな気配《けはい》が揺《ゆ》れる。


 誰《だれ》も口《くち》には出《だ》さない。


 しかし。


 クラジの言葉《ことば》は、そこにいる者《もの》たちの胸中《きょうちゅう》を代弁《だいべん》していた。


「アサ様《さま》は……」


 クラジは、まっすぐに言《い》った。


「すでに我《われ》らの内《うち》に置《お》かれた御方《おかた》」


 ただの娘《むすめ》ではない。


 この国《くに》が、長《なが》い年月《ねんげつ》をかけて築《きず》いてきたもの。


 失《うしな》ったもの。


 耐《た》えてきたもの。


 その先《さき》で見《み》つけた光《ひかり》。


「それを……」


 クラジの声《こえ》が、わずかに低《ひく》くなる。


「それを他国《たこく》へ――」


 一瞬《いっしゅん》、言葉《ことば》が詰《つ》まる。


 怒《いか》りではない。


 恐《おそ》れでもない。


 失《うしな》うことへの、純粋《じゅんすい》な拒絶《きょぜつ》だった。


「しかも、理由《りゆう》も定《さだ》かでない『火《ひ》』などという曖昧《あいまい》なもののために……差《さ》し出《だ》すなど――」


 納得《なっとく》できるはずがない。


 クラジの視線《しせん》が、浮羽《うきは》へ向《む》く。


 そこにあるのは疑念《ぎねん》。


 警戒《けいかい》。


 そして、明確《めいかく》な拒絶《きょぜつ》。


 浮羽《うきは》は、その視線《しせん》を受《う》けても、表情《ひょうじょう》を変《か》えなかった。


 ただ静《しず》かに、クラジを見返《みかえ》している。


 しかし。


 広間《ひろま》には、確《たし》かに熱《ねつ》が生《う》まれていた。


 押《お》し殺《ころ》された声《こえ》。


 飲《の》み込《こ》まれた反論《はんろん》。


 それらが形《かたち》にならぬまま、空気《くうき》の中《なか》に澱《よど》んでいる。



 その時《とき》だった。


 ミナギが、ゆっくりと口《くち》を開《ひら》いた。


「……お前《まえ》たちの言《い》い分《ぶん》は、わかる」


 静《しず》かな声《こえ》だった。


 叱《しか》るでもない。


 押《お》さえつけるでもない。


 ただ、すべてを受《う》け止《と》める声《こえ》。


「長《なが》く、この国《くに》を支《ささ》えてきてくれた」


 ミナギの視線《しせん》が、重臣《じゅうしん》たちへ向《む》く。


「血《ち》を流《なが》し、時《とき》を費《つい》やし、ようやくここまで積《つ》み上《あ》げてきた」


 その言葉《ことば》に、誰《だれ》も反論《はんろん》できなかった。


「その上《うえ》で得《え》たものを、軽々(かるがる)しく手放《てばな》せぬと思《おも》うのは……当然《とうぜん》だ」


 否定《ひてい》しない。


 切《き》り捨《す》てない。


 まず、その想《おも》いを認《みと》める。


 それこそが、ミナギの在《あ》り方《かた》だった。


 だが――


「……先《さき》を見誤《みあやま》るな」


 声《こえ》が、わずかに沈《しず》む。


 その一言《ひとこと》で、空気《くうき》が変《か》わった。


 叱責《しっせき》ではない。


 しかし、誰《だれ》も逃《に》げられない。


 視線《しせん》を、ひとつ高《たか》い場所《ばしょ》へ導《みちび》く声《こえ》だった。



「日神呼様《ひみこさま》は――意味《いみ》のないことは、なさらない」


 ミナギの声《こえ》は静《しず》かだった。


 だが、その言葉《ことば》には揺《ゆ》るぎがなかった。


 疑《うたが》う余地《よち》を与《あた》えぬほどの、確信《かくしん》。


 それは、その力《ちから》も、その人《ひと》の在《あ》り方《かた》も知《し》る者《もの》だけが持《も》つ理解《りかい》だった。

 


 ミナギの視線《しせん》が、ゆっくりとアサへ向《む》く。


「アサのためだと仰《おっしゃ》るなら――」


 静《しず》かに。


 しかし、はっきりと。


「それは紛《まぎ》れもなく真《まこと》だ」


 広間《ひろま》に、わずかな沈黙《ちんもく》が落《お》ちた。


 誰《だれ》も、すぐには言葉《ことば》を返《かえ》せない。



 日神呼《ひみこ》。


 その名《な》が持《も》つ重《おも》みを、この場《ば》にいる者《もの》たちは知《し》っている。


 ただの他国《たこく》の巫女《みこ》ではない。


 倭《わ》の国々(くにぐに)を束《たば》ねる存在《そんざい》。


 目《め》に見《み》えぬものを見《み》る者《もの》。


 人《ひと》の力《ちから》では届《とど》かぬ場所《ばしょ》へ、手《て》を伸《の》ばす者《もの》。


 その者《もの》が、アサを求《もと》めている。


 ミナギは続《つづ》けた。


「たとえ……他国《たこく》であろうとも」


 その視線《しせん》が、浮羽《うきは》へ向《む》く。


「それだけは、よくわかる」


 浮羽《うきは》は、わずかに目《め》を細《ほそ》めた。


 ミナギが何《なに》を見《み》ているのか。


 何《なに》を理解《りかい》しているのか。


 言葉《ことば》にせずとも、伝《つた》わっていた。


 力《ちから》の差《さ》。


 見《み》えている世界《せかい》の違《ちが》い。


 同《おな》じ場所《ばしょ》に立《た》っているようで、決《けっ》して同《おな》じものを見《み》てはいない。


 ミナギは、それを知《し》っている。


 だからこそ、認《みと》めるしかなかった。



 アサの胸《むね》は、激《はげ》しく打《う》っていた。


 行《い》かなければならない。


 もう、わかっている。


 頭《あたま》では、とっくに理解《りかい》していた。


 あの声《こえ》。


 あの光《ひかり》。


 あの黄金《おうごん》の鳥《とり》。


 すべてが、自分《じぶん》を導《みちび》いている。


 それでも――


 心《こころ》は、簡単《かんたん》には追《お》いつかなかった。


 ミナギの腕《うで》の中《なか》にいた時《とき》の温《ぬく》もり。


 背中《せなか》を支《ささ》える手《て》。


 外《そと》へ向《む》けて、自分《じぶん》を「守《まも》るべきもの」と示《しめ》した姿《すがた》。



 離《はな》れたくない。


 その想《おも》いは、もう誤魔化《ごまか》せなかった。


 けれど。


(……でも)


 胸《むね》の奥《おく》で、何《なに》かが静《しず》かに揺《ゆ》れた。


 自分《じぶん》は、いつまで守《まも》られるだけでいるのか。


 ミナギの優《やさ》しさに包《つつ》まれて。


 その腕《うで》の中《なか》で安心《あんしん》して。


 それだけで終《お》わっていいのか。



 違《ちが》う。


 もう、知《し》ってしまった。


 自分《じぶん》の中《なか》にあるもの。


 制御《せいぎょ》できなければ、誰《だれ》かを傷《きず》つけるかもしれない力《ちから》。


 ならば。


 向《む》き合《あ》わなければならない。


 逃《に》げることはできない。


 アサは、ゆっくりと息《いき》を吸《す》った。


 そして。


 顔《かお》を上《あ》げる。


 ミナギと目《め》が合《あ》った。


 鋭《するど》さはなかった。


 問い詰《つ》める色《いろ》も。


 引《ひ》き止《と》める意思《いし》も。


 ただ――


 見《み》ていた。


 選《えら》ぶのは、お前《まえ》だ。


 そう告《つ》げるように。


 言葉《ことば》にせず、すべてを委《ゆだ》ねるように。


 その眼差《まなざ》しを見《み》た瞬間《しゅんかん》。


 アサの胸《むね》の奥《おく》で、固《かた》く結《むす》ばれていたものが、少《すこ》しだけほどけた。


(……そう、だよね)


 守《まも》られるだけでは、いられない。


 ここに留《とど》まるだけでは、いけない。


 自分《じぶん》自身《じしん》が選《えら》ばなければならない。


 たとえ。


 その先《さき》にあるものが――


 この人《ひと》と離《はな》れる未来《みらい》だとしても。



 喉《のど》が、ひどく乾《かわ》く。


 声《こえ》が震《ふる》える。


 それでも。


 アサは、言葉《ことば》を絞《しぼ》り出《だ》した。


「……行《い》きます」


 小《ちい》さな声《こえ》。


 けれど。


 確《たし》かな意志《いし》を宿《やど》した声《こえ》だった。


 広間《ひろま》の誰《だれ》もが、その一言《ひとこと》を聞《き》いた。


「私《わたし》……耶馬台国《やまたいこく》へ行《い》きます」


 今度《こんど》は、はっきりと言《い》った。


 震《ふる》えはある。


 怖《こわ》さもある。


 それでも。


 退《ひ》く気配《けはい》はなかった。


 その瞬間《しゅんかん》。


 すべてが決《き》まった。


 アサ自身《じしん》が、自分《じぶん》の運命《うんめい》を選《えら》んだのだ。



 わずかな沈黙《ちんもく》が、広間《ひろま》を満《み》たした。


 誰《だれ》もが、アサの言葉《ことば》を受《う》け止《と》めていた。


 反対《はんたい》の声《こえ》を上《あ》げようとしていた者《もの》も。


 拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めていた者《もの》も。


 その覚悟《かくご》の前《まえ》では、言葉《ことば》を失《うしな》っていた。



 ミナギは、しばらく何《なに》も言《い》わなかった。


 ただ静《しず》かに、アサを見《み》ていた。


 その眼差《まなざ》しの奥《おく》には、様々《さまざま》な感情《かんじょう》が交《ま》じっている。


 引《ひ》き止《と》めたい。


 手《て》を伸《の》ばせば、まだ届《とど》く距離《きょり》にいる。


 このまま腕《うで》の中《なか》に閉《と》じ込《こ》めてしまえばいい。


 そう思《おも》う自分《じぶん》が、確《たし》かにいる。


 だが。


 ゆっくりと頷《うなず》いた。


「……わかった」


 短《みじか》い言葉《ことば》。


 だが、その中《なか》に込《こ》められたものは重《おも》かった。


 そして。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》。


 ミナギの視線《しせん》が、ゆっくりと浮羽《うきは》へ向《む》く。


 空気《くうき》が変《か》わった。


 先《さき》ほどまで、アサの意思《いし》を見守《みまも》っていた男《おとこ》の顔《かお》ではない。


 そこにいるのは。


 投馬国《とうまこく》を背負《せお》う王《おう》の顔《かお》だった。


「――ただし」


 低《ひく》い声《こえ》が落《お》ちる。


 広間《ひろま》の全《すべ》ての視線《しせん》が、ミナギへ集《あつ》まる。


 ミナギは、静《しず》かに言《い》った。


「預《あず》けるだけだ」


 一瞬《いっしゅん》。


 誰《だれ》も意味《いみ》を測《はか》りかねた。


 だが。


 次《つぎ》の言葉《ことば》で、理解《りかい》する。


「完全《かんぜん》に明《あ》け渡《わた》すつもりはない」


 広間《ひろま》の空気《くうき》が張《は》り詰《つ》める。


 それは、単《たん》なる所有欲《しょゆうよく》ではなかった。


 王《おう》としての線引《せんび》きだった。


「いずれ戻《もど》す」


 浮羽《うきは》は、しばらくミナギを見《み》ていた。


 やがて。


 ほんのわずかに。


 口元《くちもと》が緩《ゆる》む。



 ミナギは最後《さいご》に、広間《ひろま》へ向《む》けて告《つ》げた。


「――これは決定《けってい》だ」


 その瞬間《しゅんかん》。


 広間《ひろま》に残《のこ》っていた揺《ゆ》らぎが、静《しず》かに消《き》えた。


 反論《はんろん》する者《もの》はいない。


 誰《だれ》もが理解《りかい》していた。


 これは議論《ぎろん》ではない。


 王《おう》が、自《みずか》ら背負《せお》うと決《き》めた未来《みらい》なのだ。


 ただ残《のこ》されたのは。


 受《う》け入《い》れるための、静《しず》かな沈黙《ちんもく》だけだった。



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