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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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火の器



「……あの……」


 か細《ぼそ》い声《こえ》が、張《は》り詰《つ》めた空気《くうき》に触《ふ》れる。


 ほんのわずかに、広間《ひろま》の均衡《きんこう》が揺《ゆ》らいだ。


 アサはミナギの腕《うで》の内側《うちがわ》で、小《ちい》さく息《いき》を吸《す》う。


 視線《しせん》を上《あ》げることはできない。


 それでも、言葉《ことば》だけは落《お》とさなければならない気《き》がした。


「浮羽《うきは》、さま……と――」


 喉《のど》がひどく乾《かわ》いている。


 それでも、続《つづ》ける。


「少《すこ》しだけ、二人《ふたり》でお話《はなし》……できますか」



 その瞬間《しゅんかん》、空気《くうき》がわずかに沈《しず》む。


 誰《だれ》かが息《いき》を呑《の》んだ気配《けはい》が、確《たし》かに広間《ひろま》のどこかに落《お》ちた。


 言《い》い終《お》えた瞬間《しゅんかん》、アサは自分《じぶん》の声《こえ》が妙《みょう》に遠《とお》く感《かん》じた。


 その要求《ようきゅう》が、この場《ば》にどれほど不釣《ふつ》り合《あ》いかは理解《りかい》している。


 ミナギは、わずかに逡巡《しゅんじゅん》した。


 躊躇《ちゅうちょ》というよりは、状況《じょうきょう》の重《おも》さを一度《いちど》だけ秤《はかり》にかけるような、短《みじか》い沈黙《ちんもく》。


 そしてアサを見《み》つめ、静《しず》かに言《い》い切《き》る。


「……お前《まえ》自身《じしん》に関《かん》する話《はなし》だ」


 低《ひく》く、整《ととの》った声《こえ》が落《お》ちる。


「許可《きょか》する」


 その一言《ひとこと》で、広間《ひろま》の空気《くうき》がひとつ沈《しず》んだ。


「殿《との》……!」


 即座《そくざ》に、押《お》し殺《ころ》しきれない動揺《どうよう》が弾《はじ》ける。


 重臣《じゅうしん》たちの間《あいだ》に、ざわりとした波紋《はもん》が広《ひろ》がった。


 中《なか》でも、クラジの反応《はんのう》は鋭《するど》かった。


 一歩《いっぽ》、思《おも》わず踏《ふ》み出《だ》しかける。


 だが次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》、足《あし》が止《と》まる。


 言葉《ことば》を継《つ》ごうと開《ひら》いた口《くち》が、音《おと》になる前《まえ》に凍《こお》りついた。


 ミナギの視線《しせん》が、ただ一度《いちど》だけ向《む》いたためだった。


 鋭《するど》いわけではない。


 だが、その視線《しせん》に触《ふ》れた瞬間《しゅんかん》、クラジの反論《はんろん》は形《かたち》を失《うしな》う。


 代《か》わりに残《のこ》るのは、飲《の》み込《こ》まれた沈黙《ちんもく》だけだった。




 広間《ひろま》を抜《ぬ》け、廊下《ろうか》を渡《わた》る。


 外《そと》へ出《で》ると、柔《やわ》らかな風《かぜ》が頬《ほお》を撫《な》でた。


 庭《にわ》には朝露《あさつゆ》を残《のこ》した草木《くさき》が並《なら》び、遠《とお》くで鳥《とり》の声《こえ》が響《ひび》いている。


 人《ひと》の気配《けはい》は、先《さき》ほどまでとは比《くら》べものにならないほど薄《うす》い。


 二人《ふたり》だけの静《しず》かな場所《ばしょ》だった。


 浮羽《うきは》は庭《にわ》の端《はし》まで歩《ある》くと、足《あし》を止《と》めた。


 しばらく、何《なに》も言《い》わない。


 アサもまた、言葉《ことば》を探《さが》せずにいた。


 沈黙《ちんもく》が一度《いちど》、二人《ふたり》の間《あいだ》を満《み》たしたあと――


 浮羽《うきは》が、軽《かる》く肩《かた》をすくめた。


「――ミナギは、そなたに随分《ずいぶん》と甘《あま》いな」


 冗談《じょうだん》めかした声音《こわね》。


 アサは一瞬《いっしゅん》、言葉《ことば》に詰《つ》まる。


 腕《うで》の中《なか》にいた感覚《かんかく》が、まだ残《のこ》っていて、呼吸《こきゅう》の仕方《しかた》が少《すこ》しだけ乱《みだ》れていた。


「ミナギ様《さま》とは、その……親《した》しい間柄《あいだがら》なのですか?」


 その問《と》いに、浮羽《うきは》は肩《かた》をすくめるように苦笑《くしょう》した。


「親《した》しい、か」


 言葉《ことば》を繰《く》り返《かえ》し、わずかに目《め》を細《ほそ》める。


「……まあ、腐《くさ》れ縁《えん》みたいなものだ」


 軽《かる》い言葉《ことば》。


 だが、その奥《おく》には、簡単《かんたん》ではない時間《じかん》がある。


 アサは、ふと思《おも》い出《だ》していた。


 ミナギは自分《じぶん》の幼少期《ようしょうき》については、多《おお》くを語《かた》らなかった。


 けれど時折《ときおり》、遠《とお》くを見るような目《め》をして、ぽつりぽつりと話《はな》してくれた。


 幼《おさな》い頃《ころ》、投馬国《とうまこく》ではなく、耶馬台国《やまたいこく》で育《そだ》ったこと。


 そこで過《す》ごした日々《ひび》のこと。



 浮羽《うきは》は、わずかに視線《しせん》を外《はず》し、遠《とお》くを見るように目《め》を細《ほそ》めた。


「……あれは昔《むかし》、身体《からだ》が弱《よわ》くてな」


 淡々《たんたん》とした語《かた》り口《くち》。


 だが、その一言《ひとこと》だけで、過去《かこ》の輪郭《りんかく》が滲《にじ》む。


「倒《たお》れることも多《おお》かった。起《お》き上《あ》がれない日《ひ》も珍《めずら》しくなかった……」


 浮羽《うきは》は、そこで一度《いちど》言葉《ことば》を切《き》り、アサを見る。


「その命《いのち》を繋《つな》いだのが、日神呼様《ひみこさま》だ」


 一言《ひとこと》が、静《しず》かに落《お》ちる。


「常《つね》の理《ことわり》では測《はか》れぬやり方《かた》でな」


 アサは、ごくりと喉《のど》を鳴《な》らした。


 浮羽《うきは》は、わずかに息《いき》を吐《は》く。


「私《わたし》も子供《こども》の頃《ころ》、戦《いくさ》に巻《ま》き込《こ》まれてな」


 視線《しせん》を、わずかに横《よこ》へ流《なが》す。


「境《さかい》の争《あらそ》いで、死《し》にかけた」


 言葉《ことば》は静《しず》かで、過去《かこ》を懐《なつ》かしむ温度《おんど》はない。


 あくまで、起《お》こった出来事《できごと》を並《なら》べるだけの声音《こわね》だった。


「その時《とき》に、日神呼様《ひみこさま》に救《すく》われた」


 わずかな沈黙《ちんもく》。


 遠《とお》い記憶《きおく》の輪郭《りんかく》だけが、静《しず》かな庭《にわ》の空気《くうき》に滲《にじ》む。


「ミナギとは歳《とし》が近《ちか》かったこともあって」


 声《こえ》の質《しつ》が、ほんの少《すこ》しだけ変《か》わる。


「姉弟《きょうだい》のように育《そだ》ったんだ」


 懐《なつ》かしむというより、それが当然《とうぜん》だった過去《かこ》を確認《かくにん》するような言《い》い方《かた》だった。


 浮羽《うきは》は、そこで言葉《ことば》を切《き》り、アサを見る。


 その視線《しせん》に押《お》されるように、アサは小《ちい》さく息《いき》を吸《す》った。

 

「――私《わたし》も、日神呼様《ひみこさま》に救《すく》われた……のだと思《おも》います」


 躊躇《ためら》いながらも、確《たし》かめるように。


「ずっと、夢《ゆめ》かと思《おも》っていたのですが――」



 アサは、あの一連《いちれん》の不思議《ふしぎ》な出来事《できごと》を語《かた》った。


 言葉《ことば》にすれば、曖昧《あいまい》になってしまうはずの記憶《きおく》。


 それでも、あの闇《やみ》は確《たし》かに、そこにあった。


 ミナギを蝕《むしば》んでいた黒《くろ》い影《かげ》。


 触《ふ》れた瞬間《しゅんかん》、自分《じぶん》の輪郭《りんかく》すら溶《と》けていくような感覚《かんかく》。


 飲《の》み込《こ》まれかけた、その刹那《せつな》。


 響《ひび》いた声《こえ》。


 静《しず》かで、しかし抗《あらが》えない重《おも》さを持《も》った声音《こわね》。


 ――そして。


 光《ひかり》の奔流《ほんりゅう》。


 闇《やみ》を裂《さ》くように舞《ま》い上《あ》がった、黄金《おうごん》の鳥《とり》。


 現実《げんじつ》とは思《おも》えない光景《こうけい》を、アサは言葉《ことば》を選《えら》びながら辿《たど》る。


 途切《とぎ》れ途切《とぎ》れに。


 しかし、確《たし》かに。


 浮羽《うきは》は途中《とちゅう》、一度《いちど》も遮《さえぎ》らなかった。


 ただ、視線《しせん》だけが微《かす》かに鋭《するど》さを増《ま》していく。


「……あの時《とき》、言《い》われました」


 喉《のど》が、ひとつ鳴《な》る。


「火《ひ》を持《も》ちすぎている、と」


 沈黙《ちんもく》。


「このままだと、喰《く》われる……とも」


 その言葉《ことば》が落《お》ちた瞬間《しゅんかん》、空気《くうき》がわずかに変質《へんしつ》した。


 アサは続《つづ》ける。


 耶馬台国《やまたいこく》へ来《こ》いと言《い》われたこと。


 選《えら》ぶ時間《じかん》はない、と告《つ》げられたこと。



 それを聞《き》き終《お》えたあと、浮羽《うきは》は一度《いちど》だけ視線《しせん》を落《お》とした。


 考《かんが》えるというより、すでにある答《こた》えを言葉《ことば》にするための沈黙《ちんもく》だった。


 そして、静《しず》かに言《い》う。


「……それが、日神呼様《ひみこさま》だ」


 短《みじか》く切《き》る。


「夢《ゆめ》ではない」


 わずかに間《ま》を置《お》いて、続《つづ》ける。


「それが、あの方《かた》の御業《みわざ》だ」


 その言葉《ことば》は、抗《あらが》いがたい重《おも》みを伴《ともな》って、その場《ば》に響《ひび》いた。


「強《つよ》い火《ひ》を持《も》つ者《もの》は、放《はな》っておけば必《かなら》ず燃《も》え上《あ》がる」


 声《こえ》が、わずかに沈《しず》む。


「あの方《かた》は、だから呼《よ》ぶ――燃《も》え尽《つ》きる前《まえ》に救《すく》うためだ」


 その言葉《ことば》は、ただの比喩《ひゆ》ではなかった。


 浮羽《うきは》の視線《しせん》が、静《しず》かにアサへと据《す》えられる。


 逃《に》げ場《ば》のない、澄《す》んだ眼差《まなざ》し。


 アサの喉《のど》が、わずかに鳴《な》る。


「……火《ひ》を持《も》つ、とは……どういうことですか」


 絞《しぼ》り出《だ》すような問《と》い。


 浮羽《うきは》は、すぐには答《こた》えなかった。


 ほんのわずかに間《ま》を置《お》く。


 言葉《ことば》を選《えら》ぶというより――


 測《はか》るような沈黙《ちんもく》。



 やがて、口《くち》を開《ひら》く。


「火《ひ》は、人《ひと》の持《も》つ根源的《こんげんてき》な力《ちから》だ」


 低《ひく》く、断《だん》じる。


「理屈《りくつ》ではない。本能《ほんのう》の底《そこ》に沈《しず》んでいる、生《い》きるための衝動《しょうどう》そのものだ」


 ゆっくりと言葉《ことば》が重《かさ》ねられる。


「ゆえに、切《き》り離《はな》すことも、捨《す》てることもできない」


 否定《ひてい》は、余地《よち》を残《のこ》さない。


 浮羽《うきは》の視線《しせん》が、静《しず》かにアサへと降《お》りてくる。


 逃《に》げ場《ば》を塞《ふさ》ぐでもなく、ただ確《たし》かに捉《とら》えるような眼差《まなざ》し。


「――稀《まれ》に、それが強《つよ》すぎる者《もの》がいる」


 わずかな間《ま》。


 その沈黙《ちんもく》が、言葉《ことば》の重《おも》みを押《お》し広《ひろ》げる。


「器《うつわ》を越《こ》えて溢《あふ》れるほどの火《ひ》を抱《かか》えた者《もの》だ。そういう者《もの》は……いずれ暴走《ぼうそう》する」


 淡々《たんたん》としているのに、温度《おんど》だけが低《ひく》い。


「制御《せいぎょ》できなければ――自分《じぶん》を焼《や》く」


 短《みじか》く、切《き》り落《お》とす。


「周《まわ》りを巻《ま》き込《こ》んでな」


 その一言《ひとこと》で、場《ば》の温度《おんど》がさらに沈《しず》む。


 浮羽《うきは》は、わずかに息《いき》を吐《は》いた。


「だから学《まな》ぶ必要《ひつよう》がある」


 その声音《こわね》には揺《ゆ》らぎがない。


「火《ひ》は消《け》せない」


 視線《しせん》が、アサの奥《おく》を射抜《いぬ》く。


「ならば――持《も》ち方《かた》を覚《おぼ》えるしかない」


 その言葉《ことば》は、提案《ていあん》ではなかった。


 ただひとつの道《みち》として、静《しず》かに、しかし確《たし》かな重《おも》みをもって――


 アサの前《まえ》に置《お》かれていた。


 その重《おも》さに、胸《むね》の奥《おく》がわずかに軋《きし》む。



 ――逃《に》げ場《ば》はない。


 選《えら》ぶ余地《よち》など、最初《さいしょ》から存在《そんざい》しない。


 進《すす》むしかないのだと。


 そうするほかないのだと。


 理解《りかい》が、静《しず》かに落《お》ちた。




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