浮羽
静かな広間に、耶馬台国からの遣使が姿を現す。
その出会いは、ミナギとアサの運命に、新たな風を吹き込む。
広間は、静かな緊張に満ちていた。
重厚に組まれた梁の下、磨かれた床に光が淡く落ちる。
外の気配は遠く、ここだけが切り取られたように澄んでいる。
左右には重臣たちが控え、沈黙の列を成す。
その奥――
上座に、ミナギ。
そして、その一歩わずかに後ろ。
距離は控えめでありながら、しかし確かに。
「内」に位置する形で、アサがいる。
その曖昧な位置取りこそが、今の彼女の立場を雄弁に語っていた。
その時。
外より、低く、抑えられた声が落ちる。
「――耶馬台国の遣使一行、参着」
空気が、すっと張り詰める。
やがて、足音。
規律のある、揃った歩み。
布が払われ、遣使の一行が姿を現す。
先頭に立つ者が、一歩、進み出た。
その姿を視界に入れた瞬間、空気がわずかに変わる。
女だった。
だが――
その立ち方。
視線。
気配の張り方は――
明らかに、ただ者ではない。
凛としている。
研ぎ澄まされている。
無駄がない。
一筋の乱れもなく結い上げられた髪。
所作ひとつで崩れぬ、完成された衣の線。
そして何より、その顔立ち。
見る者の視線を奪い、離さない類の――
研磨されたような美しさ。
その眼が、ゆるやかに上がる。
ミナギと――ぶつかる。
やがて、その口元が、わずかに緩んだ。
「……久しいな、ミナギ」
低く、抑えた声。
女の声音でありながら、言葉遣いは男そのもの。
飾りもなく、遠慮もない。
場の空気が、ぴんと張る。
ミナギは、眉ひとつ動かさずに応える。
「浮羽」
短い呼びかけ。
だが、それだけで関係性が伝わる。
浮羽は小さく笑った。
「こうして面と向かうのは、いつ以来だったか」
「さあな」
素気ない応答。
だが、拒絶ではない。
その微かな温度差を、浮羽は正確に拾う。
そして。
その視線が、すっと横へ流れた。
――アサへ。
ほんの一瞬。
アサは息を呑んだ。
(……きれい……)
思考が、止まる。
浮羽の姿勢には一点の乱れもなかった。
凛と張り詰めたものが、そのまま形を与えられたような立ち姿。
視線が、離せない。
次の瞬間。
浮羽の目が、わずかに細められる。
ただ静かに。
しかし確実に――
アサという存在の奥へ入り込もうとするような、鋭く澄んだ眼差し。
その視線に晒され、アサの身体が強張る。
息が浅くなる。
逃げ場を探すように、わずかに視線が揺れる。
――その時。
すっと、影が差し込んだ。
ミナギだった。
自然な所作で、後ろへと手を伸ばし――
アサの腰を抱き寄せる。
「……っ」
息が詰まる。
引き寄せられた距離は、あまりにも近い。
衣越しに伝わる体温。
逃げる間もなく、腕の内に収められる。
さらに。
ミナギは、わずかに顔を寄せた。
耳元にかかるほどの距離。
そして――
浮羽に向けて、ゆるやかに笑う。
余裕に満ちていて、どこか艶を帯びた、支配的な微笑み。
「あまり見つめてくれるな」
低く、滑るような声。
「――我が姫は、人前に慣れておらぬ」
ぴたり、と場の空気が固まる。
重臣たちの間に、微かな動揺が走る。
タヅマが、ほんのわずかに目を細めた。
浮羽は――
一瞬、沈黙した。
その後、くつりと喉の奥で笑う。
「……ほう」
わずかに首を傾げる。
「随分と、大事にしているようだな」
愉快そうに。
興味深そうに。
「ああ」
ミナギの口元に、わずかな弧が浮かぶ。
それは意図を含んだ、挑発の形だった。
「大事にしすぎて、外に出すのも惜しいほどだ」
平然と言い放つ。
冗談めいた口調の裏には、確かな牽制があった。
その目は、浮羽の反応を静かに測っている。
アサは混乱していた。
(え、ちょ――)
思考が追いつかない。
先程までの、ミナギを思い出す。
あの、ぎこちない沈黙。
お互いに視線を合わせきれず、逃がしていた距離。
――それなのに。
今、腕を回しているその動きに、ためらいは一切ない。
引き寄せる力も。
離さぬ指も。
あまりにも自然で。
視線も。
声も。
すべてが、淀みなく流れている。
迷いがない。
揺らぎがない。
まるで――
最初から、こういう男だったかのように。
抱き寄せられること自体は、初めてではない。
だが今、腕に収められているこれは、まるで別のものだった。
逃がさぬように。
しかし、強引ではなく。
力を誇示するでもなく、ただ。
――これは、自分のものだと。
当たり前のように、外へ向けて示すかのような。
(……確かに、距離を近くと言われたけど……!)
アサの胸の内で、言葉にならない焦りが跳ねる。
心臓が大きく打つたびに、腕の内で、それが伝わってしまう気がして、余計に意識してしまう。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
それでも。
外から見れば。
わずかに身を強張らせ、視線を伏せたその姿は――
恥じらっている姫として、あまりにもよく出来きすぎていた。
ミナギの腕は、そのまま動かない。
緩める気配も。
外す気配もない。
アサを内に収めたまま、ただ静かに視線を浮羽へ向けている。
「そちらの用向きは」
短く、促す。
浮羽は肩をすくめるようにして、わずかに息を吐いた。
場の緊張を楽しむような、余裕のある仕草。
「せっかちだな。旧知に会って、もう少し言葉を交わすゆとりもないのか」
「無駄話をするために来たわけではあるまい」
間を置かない応答。
温度は低いが、拒絶ではない。
だが同時に――
これ以上踏み込ませぬ、線引きでもある。
浮羽の口元が、わずかに吊り上がる。
「……相変わらずだな」
半ば呆れ。
半ば感心したような声音。
だが、その内側には、探るような鋭さが潜んでいた。
やがて、浮羽は軽く息を整え――
声音をわずかに改めた。
「――本題に入ろう」
空気が、変わる。
先程までの軽さが、すっと引く。
残るのは、遣使としての顔。
「我らが女王――日神呼様が、そちらの姫に、興味を持たれた」
広間の空気が、わずかに揺れる。
重臣たちの間に、微かなざわめきが走りかけ――
しかし、すぐに押し殺される。
ミナギの目が、細まる。
浮羽は続ける。
「名は既に届いている。そなたの側に置かれ、内に入れられている娘――アサ」
はっきりと、名を呼ぶ。
アサの肩が、びくりと揺れた。
無意識に、ミナギの衣を掴みそうになり――
寸前で止める。
けれど、その微かな動きすら、ミナギは感じ取っていた。
腕の内で、逃がさぬように。
けれど、圧しつけることなく。
ほんのわずかに、支えを強める。
「……それで」
ミナギの声は、変わらない。
「何を望む」
浮羽は、わずかに口角を上げた。
「単純な話だ」
そして、はっきりと告げる。
「――耶馬台国へ来てもらいたい」
飾りも。
迂回もない。
広間の空気が、ぴたりと止まる。
「日神呼様ご自身が、会いたがっておられる」
その一言は、重い。
ただの招きではない。
ミナギは、ゆっくりと口を開いた。
「……断ると言えば」
低く。
静かに。
だが、確かに刃を含んだ声音。
浮羽は、即座に応える。
「言うと思った」
笑みを含んだまま。
「だからこれは、願いとして伝えている」
わずかに言葉を区切り、
「――今は、な」
と、続けた。
その一言で、意味は十分だった。
広間の空気が、さらに張り詰める。
ミナギの目が、わずかに鋭くなる。
だが。
その腕の内で。
アサの鼓動は、早まるばかりだった。
自分を巡って交わされている言葉。
その重さ。
そして――
離されない、この距離。
逃げ場はない。
けれど、不思議と恐怖だけではなかった。
胸の奥で、何かが結びつく。
――あの時。
暗く沈みきった意識の底。
闇に引きずり込まれ、輪郭すら曖昧になっていく中で。
ただひとつ、はっきりと響いた声。
老いた女のものだった。
だが、衰えはなかった。
揺らぎも。
迷いもない。
静かで。
重くて。
抗えないほどに――確かな声。
(……あれは、ただの夢じゃない)
アサの喉が、かすかに鳴る。
(やっぱり……)
今なら、分かる。
あの声が持っていた「力」。
ただ者ではないと、肌が理解していた圧。
確信が、落ちる。
あの時。
沈みきる寸前で、自分を引き上げたのは。
助けてくれたのは。
――あの人だ。
(日神呼様――)
その瞬間。
言葉が、蘇る。
ひとつずつ。
刻まれるように。
『……火を持ちすぎているね』
『そのままじゃ、いずれ喰われるよ』
『お前は一日でも早く、こっちに来な』
息が、浅くなる。
こっち。
それが意味する場所は、もう明白だった。
耶馬台国。
『どちらにせよ』
心臓が、大きく打つ。
『お前に、ゆっくり選んでいる暇はない』
余地のない言葉。
その響きが、今この場の現実と重なる。
浮羽の言葉。
差し出された選択。
アサの指先が、わずかに震える。
理解してしまった。
自分が思っていたよりも、ずっと早く。
ずっと深く。
事は進んでいる。
ゆっくりと息を吸う。
ミナギの腕の中。
ぬくもりが、確かにそこにある。
守るような力。
離さぬ意思。
その内側で。
それでもなお――自分は、引かれている。
別の場所へ。
別の「火」のもとへ。
(……行かなきゃ)
言葉にはならない。
けれど、確かに形になりかける。
その思いが。
胸の奥で、静かに定まっていた。




