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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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浮羽

 静かな広間に、耶馬台国からの遣使が姿を現す。

 その出会いは、ミナギとアサの運命に、新たな風を吹き込む。



 広間《ひろま》は、静《しず》かな緊張《きんちょう》に満《み》ちていた。


 重厚《じゅうこう》に組《く》まれた梁《はり》の下《した》、磨《みが》かれた床《ゆか》に光《ひかり》が淡《あわ》く落《お》ちる。


 外《そと》の気配《けはい》は遠《とお》く、ここだけが切《き》り取《と》られたように澄《す》んでいる。


 左右《さゆう》には重臣《じゅうしん》たちが控《ひか》え、沈黙《ちんもく》の列《れつ》を成《な》す。


 その奥《おく》――


 上座《かみざ》に、ミナギ。


 そして、その一歩《いっぽ》わずかに後《うし》ろ。


 距離《きょり》は控《ひか》えめでありながら、しかし確《たし》かに。


「内《うち》」に位置《いち》する形《かたち》で、アサがいる。


 その曖昧《あいまい》な位置取《いちど》りこそが、今《いま》の彼女《かのじょ》の立場《たちば》を雄弁《ゆうべん》に語《かた》っていた。



 その時《とき》。


 外《そと》より、低《ひく》く、抑《おさ》えられた声《こえ》が落《お》ちる。


「――耶馬台国《やまたいこく》の遣使《けんし》一行《いっこう》、参着《さんちゃく》」


 空気《くうき》が、すっと張《は》り詰《つ》める。


 やがて、足音《あしおと》。


 規律《きりつ》のある、揃《そろ》った歩《あゆ》み。


 布《ぬの》が払《はら》われ、遣使《けんし》の一行《いっこう》が姿《すがた》を現《あらわ》す。


 先頭《せんとう》に立《た》つ者《もの》が、一歩《いっぽ》、進《すす》み出《で》た。



 その姿《すがた》を視界《しかい》に入《い》れた瞬間《しゅんかん》、空気《くうき》がわずかに変《か》わる。


 女《おんな》だった。


 だが――


 その立《た》ち方《かた》。


 視線《しせん》。


 気配《けはい》の張《は》り方《かた》は――


 明《あき》らかに、ただ者《もの》ではない。


 凛《りん》としている。


 研《と》ぎ澄《す》まされている。


 無駄《むだ》がない。


 一筋《ひとすじ》の乱《みだ》れもなく結《ゆ》い上《あ》げられた髪《かみ》。


 所作《しょさ》ひとつで崩《くず》れぬ、完成《かんせい》された衣《ころも》の線《せん》。


 そして何《なに》より、その顔立《かおだ》ち。


 見《み》る者《もの》の視線《しせん》を奪《うば》い、離《はな》さない類《たぐい》の――


 研磨《けんま》されたような美《うつく》しさ。


 その眼《め》が、ゆるやかに上《あ》がる。


 ミナギと――ぶつかる。


 やがて、その口元《くちもと》が、わずかに緩《ゆる》んだ。


「……久《ひさ》しいな、ミナギ」


 低《ひく》く、抑《おさ》えた声《こえ》。


 女《おんな》の声音《こわね》でありながら、言葉遣《ことばづか》いは男《おとこ》そのもの。


 飾《かざ》りもなく、遠慮《えんりょ》もない。


 場《ば》の空気《くうき》が、ぴんと張《は》る。


 ミナギは、眉《まゆ》ひとつ動《うご》かさずに応《こた》える。


「浮羽《うきは》」


 短《みじか》い呼《よ》びかけ。


 だが、それだけで関係性《かんけいせい》が伝《つた》わる。


 浮羽《うきは》は小《ちい》さく笑《わら》った。


「こうして面《めん》と向《む》かうのは、いつ以来《いらい》だったか」


「さあな」


 素気《そっけ》ない応答《おうとう》。


 だが、拒絶《きょぜつ》ではない。


 その微《かす》かな温度差《おんどさ》を、浮羽《うきは》は正確《せいかく》に拾《ひろ》う。


 そして。


 その視線《しせん》が、すっと横《よこ》へ流《なが》れた。


 ――アサへ。


 ほんの一瞬《いっしゅん》。


 アサは息《いき》を呑《の》んだ。


(……きれい……)


 思考《しこう》が、止《と》まる。


 浮羽《うきは》の姿勢《しせい》には一点《いってん》の乱《みだ》れもなかった。


 凛《りん》と張《は》り詰《つ》めたものが、そのまま形《かたち》を与《あた》えられたような立《た》ち姿《すがた》。


 視線《しせん》が、離《はな》せない。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》。


 浮羽《うきは》の目《め》が、わずかに細《ほそ》められる。


 ただ静《しず》かに。


 しかし確実《かくじつ》に――


 アサという存在《そんざい》の奥《おく》へ入《はい》り込《こ》もうとするような、鋭《するど》く澄《す》んだ眼差《まなざ》し。


 その視線《しせん》に晒《さら》され、アサの身体《からだ》が強張《こわば》る。


 息《いき》が浅《あさ》くなる。


 逃《に》げ場《ば》を探《さが》すように、わずかに視線《しせん》が揺《ゆ》れる。



 ――その時《とき》。


 すっと、影《かげ》が差《さ》し込《こ》んだ。


 ミナギだった。


 自然《しぜん》な所作《しょさ》で、後《うし》ろへと手《て》を伸《の》ばし――


 アサの腰《こし》を抱《だ》き寄《よ》せる。


「……っ」


 息《いき》が詰《つ》まる。


 引《ひ》き寄《よ》せられた距離《きょり》は、あまりにも近《ちか》い。


 衣越《ころもご》しに伝《つた》わる体温《たいおん》。


 逃《に》げる間《ま》もなく、腕《うで》の内《うち》に収《おさ》められる。


 さらに。


 ミナギは、わずかに顔《かお》を寄《よ》せた。


 耳元《みみもと》にかかるほどの距離《きょり》。


 そして――


 浮羽《うきは》に向《む》けて、ゆるやかに笑《わら》う。


 余裕《よゆう》に満《み》ちていて、どこか艶《つや》を帯《お》びた、支配的《しはいてき》な微笑《ほほえ》み。


「あまり見《み》つめてくれるな」


 低《ひく》く、滑《すべ》るような声《こえ》。


「――我《わ》が姫《ひめ》は、人前《ひとまえ》に慣《な》れておらぬ」


 ぴたり、と場《ば》の空気《くうき》が固《かた》まる。


 重臣《じゅうしん》たちの間《あいだ》に、微《かす》かな動揺《どうよう》が走《はし》る。


 タヅマが、ほんのわずかに目《め》を細《ほそ》めた。


 浮羽《うきは》は――


 一瞬《いっしゅん》、沈黙《ちんもく》した。


 その後《ご》、くつりと喉《のど》の奥《おく》で笑《わら》う。


「……ほう」


 わずかに首《くび》を傾《かし》げる。


「随分《ずいぶん》と、大事《だいじ》にしているようだな」


 愉快《ゆかい》そうに。


 興味深《きょうみぶか》そうに。


「ああ」


 ミナギの口元《くちもと》に、わずかな弧《こ》が浮《う》かぶ。


 それは意図《いと》を含《ふく》んだ、挑発《ちょうはつ》の形《かたち》だった。


「大事《だいじ》にしすぎて、外《そと》に出《だ》すのも惜《お》しいほどだ」


 平然《へいぜん》と言《い》い放《はな》つ。


 冗談《じょうだん》めいた口調《くちょう》の裏《うら》には、確《たし》かな牽制《けんせい》があった。


 その目《め》は、浮羽《うきは》の反応《はんのう》を静《しず》かに測《はか》っている。


 

 アサは混乱《こんらん》していた。


(え、ちょ――)


 思考《しこう》が追《お》いつかない。


 先程《さきほど》までの、ミナギを思《おも》い出《だ》す。


 あの、ぎこちない沈黙《ちんもく》。


 お互《たが》いに視線《しせん》を合《あ》わせきれず、逃《に》がしていた距離《きょり》。


 ――それなのに。


 今《いま》、腕《うで》を回《まわ》しているその動《うご》きに、ためらいは一切《いっさい》ない。


 引《ひ》き寄《よ》せる力《ちから》も。


 離《はな》さぬ指《ゆび》も。


 あまりにも自然《しぜん》で。


 視線《しせん》も。


 声《こえ》も。


 すべてが、淀《よど》みなく流《なが》れている。


 迷《まよ》いがない。


 揺《ゆ》らぎがない。


 まるで――


 最初《さいしょ》から、こういう男《おとこ》だったかのように。


 

 抱《だ》き寄《よ》せられること自体《じたい》は、初《はじ》めてではない。


 だが今《いま》、腕《うで》に収《おさ》められているこれは、まるで別《べつ》のものだった。


 逃《に》がさぬように。


 しかし、強引《ごういん》ではなく。


 力《ちから》を誇示《こじ》するでもなく、ただ。


 ――これは、自分《じぶん》のものだと。


 当《あ》たり前《まえ》のように、外《そと》へ向《む》けて示《しめ》すかのような。


 

(……確《たし》かに、距離《きょり》を近《ちか》くと言《い》われたけど……!)


 アサの胸《むね》の内《うち》で、言葉《ことば》にならない焦《あせ》りが跳《は》ねる。



 心臓《しんぞう》が大《おお》きく打《う》つたびに、腕《うで》の内《うち》で、それが伝《つた》わってしまう気《き》がして、余計《よけい》に意識《いしき》してしまう。


 頭《あたま》の中《なか》が、ぐちゃぐちゃになる。


 それでも。


 外《そと》から見《み》れば。


 わずかに身《み》を強張《こわば》らせ、視線《しせん》を伏《ふ》せたその姿《すがた》は――


 恥《は》じらっている姫《ひめ》として、あまりにもよく出来《で》きすぎていた。



 ミナギの腕《うで》は、そのまま動《うご》かない。


 緩《ゆる》める気配《けはい》も。


 外《はず》す気配《けはい》もない。


 アサを内《うち》に収《おさ》めたまま、ただ静《しず》かに視線《しせん》を浮羽《うきは》へ向《む》けている。


「そちらの用向《ようむ》きは」


 短《みじか》く、促《うなが》す。


 浮羽《うきは》は肩《かた》をすくめるようにして、わずかに息《いき》を吐《は》いた。


 場《ば》の緊張《きんちょう》を楽《たの》しむような、余裕《よゆう》のある仕草《しぐさ》。


「せっかちだな。旧知《きゅうち》に会《あ》って、もう少《すこ》し言葉《ことば》を交《か》わすゆとりもないのか」


「無駄話《むだばなし》をするために来《き》たわけではあるまい」


 間《ま》を置《お》かない応答《おうとう》。


 温度《おんど》は低《ひく》いが、拒絶《きょぜつ》ではない。


 だが同時《どうじ》に――


 これ以上《いじょう》踏《ふ》み込《こ》ませぬ、線引《せんび》きでもある。


 浮羽《うきは》の口元《くちもと》が、わずかに吊《つ》り上《あ》がる。


「……相変《あいか》わらずだな」


 半《なか》ば呆《あき》れ。


 半《なか》ば感心《かんしん》したような声音《こわね》。


 だが、その内側《うちがわ》には、探《さぐ》るような鋭《するど》さが潜《ひそ》んでいた。



 やがて、浮羽《うきは》は軽《かる》く息《いき》を整《ととの》え――


 声音《こわね》をわずかに改《あらた》めた。


「――本題《ほんだい》に入《はい》ろう」


 空気《くうき》が、変《か》わる。


 先程《さきほど》までの軽《かる》さが、すっと引《ひ》く。


 残《のこ》るのは、遣使《けんし》としての顔《かお》。


「我《われ》らが女王《じょおう》――日神呼《ひみこ》様《さま》が、そちらの姫《ひめ》に、興味《きょうみ》を持《も》たれた」


 広間《ひろま》の空気《くうき》が、わずかに揺《ゆ》れる。


 重臣《じゅうしん》たちの間《あいだ》に、微《かす》かなざわめきが走《はし》りかけ――


 しかし、すぐに押《お》し殺《ころ》される。


 ミナギの目《め》が、細《ほそ》まる。


 浮羽《うきは》は続《つづ》ける。


「名《な》は既《すで》に届《とど》いている。そなたの側《そば》に置《お》かれ、内《うち》に入《い》れられている娘《むすめ》――アサ」


 はっきりと、名《な》を呼《よ》ぶ。


 アサの肩《かた》が、びくりと揺《ゆ》れた。


 無意識《むいしき》に、ミナギの衣《ころも》を掴《つか》みそうになり――


 寸前《すんぜん》で止《と》める。


 けれど、その微《かす》かな動《うご》きすら、ミナギは感《かん》じ取《と》っていた。


 腕《うで》の内《うち》で、逃《に》がさぬように。


 けれど、圧《お》しつけることなく。


 ほんのわずかに、支《ささ》えを強《つよ》める。


「……それで」


 ミナギの声《こえ》は、変《か》わらない。


「何《なに》を望《のぞ》む」


 浮羽《うきは》は、わずかに口角《こうかく》を上《あ》げた。


「単純《たんじゅん》な話《はなし》だ」


 そして、はっきりと告《つ》げる。


「――耶馬台国《やまたいこく》へ来《き》てもらいたい」


 飾《かざ》りも。


 迂回《うかい》もない。


 広間《ひろま》の空気《くうき》が、ぴたりと止《と》まる。


「日神呼《ひみこ》様《さま》ご自身《じしん》が、会《あ》いたがっておられる」


 その一言《ひとこと》は、重《おも》い。


 ただの招《まね》きではない。


 ミナギは、ゆっくりと口《くち》を開《ひら》いた。


「……断《ことわ》ると言《い》えば」


 低《ひく》く。


 静《しず》かに。


 だが、確《たし》かに刃《やいば》を含《ふく》んだ声音《こわね》。


 浮羽《うきは》は、即座《そくざ》に応《こた》える。


「言《い》うと思《おも》った」


 笑《え》みを含《ふく》んだまま。


「だからこれは、願《ねが》いとして伝《つた》えている」


 わずかに言葉《ことば》を区切《くぎ》り、


「――今《いま》は、な」


 と、続《つづ》けた。


 その一言《ひとこと》で、意味《いみ》は十分《じゅうぶん》だった。


 広間《ひろま》の空気《くうき》が、さらに張《は》り詰《つ》める。


 ミナギの目《め》が、わずかに鋭《するど》くなる。



 だが。


 その腕《うで》の内《うち》で。


 アサの鼓動《こどう》は、早《はや》まるばかりだった。


 自分《じぶん》を巡《めぐ》って交《か》わされている言葉《ことば》。


 その重《おも》さ。


 そして――


 離《はな》されない、この距離《きょり》。


 逃《に》げ場《ば》はない。


 けれど、不思議《ふしぎ》と恐怖《きょうふ》だけではなかった。



 胸《むね》の奥《おく》で、何《なに》かが結《むす》びつく。


 ――あの時《とき》。


 暗《くら》く沈《しず》みきった意識《いしき》の底《そこ》。


 闇《やみ》に引《ひ》きずり込《こ》まれ、輪郭《りんかく》すら曖昧《あいまい》になっていく中《なか》で。


 ただひとつ、はっきりと響《ひび》いた声《こえ》。


 老《お》いた女《おんな》のものだった。


 だが、衰《おとろ》えはなかった。


 揺《ゆ》らぎも。


 迷《まよ》いもない。


 静《しず》かで。


 重《おも》くて。


 抗《あらが》えないほどに――確《たし》かな声《こえ》。


(……あれは、ただの夢《ゆめ》じゃない)


 アサの喉《のど》が、かすかに鳴《な》る。


(やっぱり……)


 今《いま》なら、分《わ》かる。


 あの声《こえ》が持《も》っていた「力《ちから》」。


 ただ者《もの》ではないと、肌《はだ》が理解《りかい》していた圧《あつ》。


 確信《かくしん》が、落《お》ちる。


 あの時《とき》。


 沈《しず》みきる寸前《すんぜん》で、自分《じぶん》を引《ひ》き上《あ》げたのは。


 助《たす》けてくれたのは。


 ――あの人《ひと》だ。


(日神呼《ひみこ》様《さま》――)


 その瞬間《しゅんかん》。


 言葉《ことば》が、蘇《よみがえ》る。


 ひとつずつ。


 刻《きざ》まれるように。



『……火《ひ》を持《も》ちすぎているね』


『そのままじゃ、いずれ喰《く》われるよ』


『お前《まえ》は一日《いちにち》でも早《はや》く、こっちに来《き》な』



 息《いき》が、浅《あさ》くなる。


 こっち。


 それが意味《いみ》する場所《ばしょ》は、もう明白《めいはく》だった。


 耶馬台国《やまたいこく》。



『どちらにせよ』



 心臓《しんぞう》が、大《おお》きく打《う》つ。

 


『お前《まえ》に、ゆっくり選《えら》んでいる暇《ひま》はない』



 余地《よち》のない言葉《ことば》。


 その響《ひび》きが、今《いま》この場《ば》の現実《げんじつ》と重《かさ》なる。


 浮羽《うきは》の言葉《ことば》。


 差《さ》し出《だ》された選択《せんたく》。


 アサの指先《ゆびさき》が、わずかに震《ふる》える。


 理解《りかい》してしまった。


 自分《じぶん》が思《おも》っていたよりも、ずっと早《はや》く。


 ずっと深《ふか》く。


 事《こと》は進《すす》んでいる。


 ゆっくりと息《いき》を吸《す》う。


 ミナギの腕《うで》の中《なか》。


 ぬくもりが、確《たし》かにそこにある。


 守《まも》るような力《ちから》。


 離《はな》さぬ意思《いし》。


 その内側《うちがわ》で。


 それでもなお――自分《じぶん》は、引《ひ》かれている。


 別《べつ》の場所《ばしょ》へ。


 別《べつ》の「火《ひ》」のもとへ。


(……行《い》かなきゃ)


 言葉《ことば》にはならない。


 けれど、確《たし》かに形《かたち》になりかける。


 その思《おも》いが。


 胸《むね》の奥《おく》で、静《しず》かに定《さだ》まっていた。




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