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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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不器用な距離



 衣擦《きぬず》れの音《おと》が、静《しず》かな廊《ろう》の奥《おく》へと流《なが》れていく。


 身支度《みじたく》を整《ととの》えられたアサは、侍女《じじょ》たちに導《みちび》かれながら、ゆっくりと歩《ある》いていた。


 足取《あしど》りは、まだ少《すこ》しぎこちない。


 身《み》にまとう衣《ころも》の重《おも》さも、向《む》けられる視線《しせん》も、まだ慣《な》れない。



 やがて――


「お入《はい》りください」


 低《ひく》い声《こえ》が響《ひび》き、布《ぬの》がそっと持《も》ち上《あ》げられた。


 その先《さき》には、すでにミナギが立《た》っていた。


 差《さ》し込《こ》む光《ひかり》の中《なか》に静《しず》かにたたずむ姿《すがた》。


 揺《ゆ》るぎない気配《けはい》が、その場《ば》の空気《くうき》を引《ひ》き締《し》めている。



 布《ぬの》が開《ひら》かれた、その瞬間《しゅんかん》――


 ミナギの視線《しせん》が上《あ》がる。


 そして。


 動《うご》きを止《と》めた。


 思《おも》わず息《いき》をのむ。


 目《め》に映《うつ》った姿《すがた》を理解《りかい》するまで、ほんのわずかな時間《じかん》が必要《ひつよう》だった。



 そこにいるのは、間違《まちが》いなくアサだ。


 そう分《わ》かっているのに。


 白《しろ》く整《ととの》えられた肌《はだ》。


 淡《あわ》く差《さ》した紅《べに》。


 美《うつく》しく結《ゆ》い上《あ》げられた髪《かみ》が、光《ひかり》を受《う》けて静《しず》かに艶《つや》めく。


 見慣《みな》れているはずの面影《おもかげ》なのに、どこか別人《べつじん》のように見《み》えた。


 言葉《ことば》が出《で》ない。


 何《なに》か言《い》わなければと思《おも》うほど、言葉《ことば》は遠《とお》ざかっていく。


 視線《しせん》だけが、引《ひ》き寄《よ》せられたように離《はな》れなかった。



 ――こんな顔《かお》を、していたのか。


 ふと、そんな思《おも》いが胸《むね》に浮《う》かぶ。


 知《し》っていたはずなのに。


 初《はじ》めて見《み》たような、不思議《ふしぎ》な感覚《かんかく》だった。


 いや。


 見《み》ているつもりで、本当《ほんとう》は何《なに》も見《み》えていなかったのかもしれない。


 胸《むね》が、大《おお》きく鳴《な》る。


 どくん、と。


 鼓動《こどう》だけが、やけに鮮《あざ》やかに耳《みみ》へ届《とど》いた。


 距離《きょり》は変《か》わらない。


 それなのに、ひどく遠《とお》く感《かん》じる。


 同時《どうじ》に、手《て》を伸《の》ばせば届《とど》きそうなほど近《ちか》くも感《かん》じる。


 触《ふ》れれば壊《こわ》れてしまいそうで。


 けれど、目《め》を離《はな》せば消《き》えてしまいそうで。


 ただ――


 見《み》つめることしか、できなかった。



 静《しず》かな沈黙《ちんもく》が、ゆっくりと部屋《へや》に満《み》ちていく。


 見《み》つめられている。


 その理由《りゆう》も分《わ》からないまま、視線《しせん》を受《う》け続《つづ》けることに、アサは耐《た》えられなくなっていた。


 指先《ゆびさき》が、そっと衣《ころも》の端《はし》をつまむ。


 整《ととの》えられた布《ぬの》の感触《かんしょく》が、かえって落《お》ち着《つ》かない。


 一度《いちど》視線《しせん》を落《お》としかける。


 けれど思《おも》い直《なお》し、小《ちい》さく顔《かお》を上《あ》げた。


 そして――


「……どう、でしょう?」


 小《ちい》さく、ぎこちない声《こえ》だった。


 尋《たず》ねるというより、確《たし》かめるような響《ひび》き。


 似合《にあ》っているのか。


 おかしくないのか。


 この姿《すがた》で、ここにいてもいいのか。


 言葉《ことば》にならない不安《ふあん》が、その一言《ひとこと》ににじんでいた。


 ミナギの胸《むね》が、さらに強《つよ》く鳴《な》る。


 喉《のど》まで出《で》かかった言葉《ことば》が、そこで止《と》まる。


 何《なに》か言《い》わなければならない。


 そう思《おも》うのに、言葉《ことば》が見《み》つからない。


 美《うつく》しく整《ととの》えられた姿《すがた》。


 それでも、その中《なか》にはいつものアサがいる。


 その二《ふた》つが重《かさ》なり合《あ》い、胸《むね》を大《おお》きく揺《ゆ》らした。


 ゆっくりと息《いき》を吐《は》く。


 気持《きも》ちは、まだ整《ととの》わない。


 それでも――


「……綺麗《きれい》だ」


 低《ひく》く、自然《しぜん》にこぼれた。


 口《くち》にした瞬間《しゅんかん》、自分《じぶん》でも分《わ》かった。


 抑《おさ》えきれていない。


 その一言《ひとこと》には、隠《かく》しきれない想《おも》いがにじんでいた。


 アサが、息《いき》をのむ。


 目《め》を大《おお》きく見開《みひら》き――


 視線《しせん》が小《ちい》さく揺《ゆ》れた。


 その反応《はんのう》に、ミナギの鼓動《こどう》はさらに速《はや》くなる。


 それ以上《いじょう》は、何《なに》も言《い》えなかった。


 口《くち》を開《ひら》けば、胸《むね》の内《うち》まであふれてしまいそうだった。


 ただ、その場《ば》に立《た》ち尽《つ》くし。


 目《め》の前《まえ》のアサを、静《しず》かに見《み》つめ続《つづ》けていた。



 その静《しず》けさを破《やぶ》ったのは、控《ひか》えめな足音《あしおと》だった。


「――失礼《しつれい》いたします」


 布《ぬの》の向《む》こうから声《こえ》が届《とど》く。


 すぐに布《ぬの》が持《も》ち上《あ》げられ、タヅマが姿《すがた》を現《あらわ》した。


 ミナギは我《われ》に返《かえ》ったように視線《しせん》を外《はず》し、小《ちい》さく息《いき》を整《ととの》える。


 アサも背筋《せすじ》を伸《の》ばした。


 タヅマは部屋《へや》へ入《はい》り、二人《ふたり》をひと目《め》見《み》た。


 ほんの一瞬《いっしゅん》。


 その目《め》が、すべてを見抜《みぬ》いたように細《ほそ》くなる。


 しかし、何《なに》も言《い》わない。


 いつも通《どお》り一礼《いちれい》し、静《しず》かに口《くち》を開《ひら》いた。


「すでにお目通《めどお》りは叶《かな》いましたな」


 落《お》ち着《つ》いた声《こえ》だった。


 視線《しせん》をアサへ向《む》け、小《ちい》さくうなずく。


「見事《みごと》にございます」


 飾《かざ》り気《け》のない言葉《ことば》。


 侍女《じじょ》たちが整《ととの》えた姿《すがた》を、そのまま認《みと》めるような口調《くちょう》だった。


 そして間《ま》を置《お》かずに続《つづ》ける。


「――準備《じゅんび》は整《ととの》っております」


 その一言《ひとこと》で、部屋《へや》の空気《くうき》が変《か》わる。


 ミナギの表情《ひょうじょう》が静《しず》かに引《ひ》き締《し》まった。


「耶馬台《やまたい》の使者《ししゃ》が到着《とうちゃく》いたしました。間《ま》もなく対面《たいめん》となります」


 タヅマは続《つづ》ける。


「その前《まえ》に――お二人《ふたり》へ、ひとつお願《ねが》いがございます」


 視線《しせん》がアサへ。


 続《つづ》いてミナギへ向《む》けられる。


「本日《ほんじつ》の場《ば》では、お二人《ふたり》が仲睦《なかむつ》まじいご様子《ようす》であることを、お見《み》せいただきたく存《ぞん》じます」


 静《しず》かに言葉《ことば》が落《お》ちる。


 ミナギは黙《だま》ったままアサを見《み》た。


 アサも視線《しせん》を受《う》け、動《うご》けなくなる。


 タヅマは変《か》わらぬ表情《ひょうじょう》で続《つづ》けた。


「アサ殿《どの》が、王《おう》と深《ふか》く結《むす》ばれたお方《かた》であると、はっきり伝《つた》える必要《ひつよう》がございます。そのためにも、お振《ふ》る舞《ま》いでお示《しめ》しください」


 しばらく沈黙《ちんもく》が流《なが》れる。


「……振《ふ》る舞《ま》い、とは」


 アサが、おそるおそる尋《たず》ねた。


「簡単《かんたん》に申《もう》しますと」


 ほんの少《すこ》しだけ、タヅマの口元《くちもと》がやわらぐ。


「仲《なか》の良《よ》い男女《だんじょ》として、自然《しぜん》に振《ふ》る舞《ま》っていただければ結構《けっこう》です」


「自然《しぜん》に、とは何《なん》だ」


 ミナギがわずかに眉《まゆ》を寄《よ》せる。


「視線《しせん》を交《か》わし、言葉《ことば》を交《か》わし、互《たが》いに近《ちか》くいることをためらわぬこと」


 さらりと答《こた》える。


「必要《ひつよう》であれば――触《ふ》れ合《あ》うことも」


 ぴたりと、空気《くうき》が止《と》まった。


 アサの肩《かた》が、小《ちい》さく震《ふる》える。


 ミナギの思考《しこう》も、一瞬《いっしゅん》止《と》まる。



 触《ふ》れる?


 誰《だれ》が。


 誰《だれ》に。


 どこを。



 思考《しこう》が、妙《みょう》な方向《ほうこう》へ流《なが》れかける。


「それは……」


 ミナギは口《くち》を開《ひら》くが、その先《さき》が続《つづ》かない。


 タヅマは穏《おだ》やかに補足《ほそく》する。


「わざとらしく見《み》えては逆効果《ぎゃくこうか》でございます」


 その言葉《ことば》に、返《かえ》す言葉《ことば》はなかった。


 アサが、おずおずと口《くち》を開《ひら》く。


「あの……わ、私《わたし》……どうすれば……」


 困《こま》り切《き》った声《こえ》だった。


 タヅマは少《すこ》しだけやさしく答《こた》える。


「難《むずか》しく考《かんが》える必要《ひつよう》はございませぬ」


 少《すこ》し言葉《ことば》を選《えら》び、


「普段《ふだん》より、ほんの少《すこ》しだけ近《ちか》くに」


 その一言《ひとこと》が、不思議《ふしぎ》なほど重《おも》く響《ひび》く。


 アサの頬《ほお》が、ほんのりと赤《あか》くなる。


「今《いま》のお二人《ふたり》は、少《すこ》し距離《きょり》がございます」


 言《い》いながら、二人《ふたり》の間《あいだ》へ視線《しせん》を向《む》ける。


 確《たし》かに。


 互《たが》いを意識《いしき》しすぎるあまり、わずかな隙間《すきま》ができていた。


 アサは固《かた》まったまま動《うご》けない。


(……触《ふ》れる……?)


 その言葉《ことば》だけが頭《あたま》の中《なか》を巡《めぐ》る。


「ご安心《あんしん》ください」


 タヅマは静《しず》かに続《つづ》けた。


「過度《かど》なことをお願《ねが》いするつもりはございませぬ。自然《しぜん》に近《ちか》く見《み》えれば、それで十分《じゅうぶん》です」


 だが、その「自然《しぜん》」が一番《いちばん》難《むずか》しい。


 誰《だれ》も、それは口《くち》にはしなかった。


「……試《ため》しに」


 タヅマが一歩《いっぽ》下《さ》がる。


「今《いま》、この場《ば》で少《すこ》しだけ距離《きょり》を縮《ちぢ》めてみてください」


 また静《しず》けさが戻《もど》る。


 ミナギとアサの目《め》が合《あ》う。


 すぐに逸《そ》れる。


 気《き》まずい。


「……行《い》くぞ」


 ミナギが低《ひく》く言《い》う。


 アサは小《ちい》さくうなずく。


 一歩《いっぽ》。


 その一歩《いっぽ》だけで、二人《ふたり》の距離《きょり》は近《ちか》づいた。


 空気《くうき》が変《か》わる。


 近《ちか》い。


 先《さき》ほどより、ずっと近《ちか》い。


 淡《あわ》い香油《こうゆ》の香《かお》りが、ふわりと届《とど》く。


 ミナギは小《ちい》さく喉《のど》を鳴《な》らした。


 アサも視線《しせん》の置《お》き場《ば》に困《こま》る。


 見《み》ればいいのか。


 逸《そ》らすべきなのか。


 分《わ》からない。


 結局《けっきょく》、そっと見《み》てしまう。


 目《め》が合《あ》う。


 その瞬間《しゅんかん》、二人《ふたり》とも小《ちい》さく固《かた》まった。


 ぎこちない沈黙《ちんもく》だけが流《なが》れる。


 タヅマはその様子《ようす》を静《しず》かに見《み》つめた。


(……先《さき》が思《おも》いやられますな)


 心《こころ》の中《なか》で、小《ちい》さく息《いき》をつく。


 あまりにも初々《ういうい》しい二人《ふたり》。


 駆《か》け引《ひ》きとは無縁《むえん》の、まっすぐな反応《はんのう》。


 取《と》り繕《つくろ》うことさえできない、不器用《ぶきよう》さ。


 外交《がいこう》の場《ば》では危《あや》うさもある。


 だが、その一方《いっぽう》で。


 だからこそ、人《ひと》の心《こころ》を動《うご》かす力《ちから》もある。


 作《つく》られた親《した》しさよりも。


 本物《ほんもの》の戸惑《とまど》いの方《ほう》が、ずっと伝《つた》わることもある。


 タヅマは静《しず》かに口《くち》を開《ひら》いた。


「……よろしい」


 短《みじか》く区切《き》るような声《こえ》だった。


「そのままで」


 二人《ふたり》が、はっと顔《かお》を上《あ》げる。


「無理《むり》に取《と》り繕《つくろ》う必要《ひつよう》はございませぬ」


 落《お》ち着《つ》いた声《こえ》が続《つづ》く。


「むしろ、そのままの方《ほう》が――」


 少《すこ》しだけ言葉《ことば》を切《き》り、


「真実《しんじつ》らしく見《み》えるでしょう」


 作《つく》られたものではない距離《きょり》。


 ぎこちなくても、本当《ほんとう》の想《おも》いがある近《ちか》さ。


 それこそが、何《なに》よりの答《こた》えになる。


 まだ戸惑《とまど》いを抱《かか》えたままの二人《ふたり》。


 それでも。


 さっきより少《すこ》しだけ。


 二人《ふたり》の距離《きょり》は、確《たし》かに近《ちか》づいていた。



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