不器用な距離
衣擦れの音が、静かな廊の奥へと流れていく。
身支度を整えられたアサは、侍女たちに導かれながら、ゆっくりと歩いていた。
足取りは、まだ少しぎこちない。
身にまとう衣の重さも、向けられる視線も、まだ慣れない。
やがて――
「お入りください」
低い声が響き、布がそっと持ち上げられた。
その先には、すでにミナギが立っていた。
差し込む光の中に静かにたたずむ姿。
揺るぎない気配が、その場の空気を引き締めている。
布が開かれた、その瞬間――
ミナギの視線が上がる。
そして。
動きを止めた。
思わず息をのむ。
目に映った姿を理解するまで、ほんのわずかな時間が必要だった。
そこにいるのは、間違いなくアサだ。
そう分かっているのに。
白く整えられた肌。
淡く差した紅。
美しく結い上げられた髪が、光を受けて静かに艶めく。
見慣れているはずの面影なのに、どこか別人のように見えた。
言葉が出ない。
何か言わなければと思うほど、言葉は遠ざかっていく。
視線だけが、引き寄せられたように離れなかった。
――こんな顔を、していたのか。
ふと、そんな思いが胸に浮かぶ。
知っていたはずなのに。
初めて見たような、不思議な感覚だった。
いや。
見ているつもりで、本当は何も見えていなかったのかもしれない。
胸が、大きく鳴る。
どくん、と。
鼓動だけが、やけに鮮やかに耳へ届いた。
距離は変わらない。
それなのに、ひどく遠く感じる。
同時に、手を伸ばせば届きそうなほど近くも感じる。
触れれば壊れてしまいそうで。
けれど、目を離せば消えてしまいそうで。
ただ――
見つめることしか、できなかった。
静かな沈黙が、ゆっくりと部屋に満ちていく。
見つめられている。
その理由も分からないまま、視線を受け続けることに、アサは耐えられなくなっていた。
指先が、そっと衣の端をつまむ。
整えられた布の感触が、かえって落ち着かない。
一度視線を落としかける。
けれど思い直し、小さく顔を上げた。
そして――
「……どう、でしょう?」
小さく、ぎこちない声だった。
尋ねるというより、確かめるような響き。
似合っているのか。
おかしくないのか。
この姿で、ここにいてもいいのか。
言葉にならない不安が、その一言ににじんでいた。
ミナギの胸が、さらに強く鳴る。
喉まで出かかった言葉が、そこで止まる。
何か言わなければならない。
そう思うのに、言葉が見つからない。
美しく整えられた姿。
それでも、その中にはいつものアサがいる。
その二つが重なり合い、胸を大きく揺らした。
ゆっくりと息を吐く。
気持ちは、まだ整わない。
それでも――
「……綺麗だ」
低く、自然にこぼれた。
口にした瞬間、自分でも分かった。
抑えきれていない。
その一言には、隠しきれない想いがにじんでいた。
アサが、息をのむ。
目を大きく見開き――
視線が小さく揺れた。
その反応に、ミナギの鼓動はさらに速くなる。
それ以上は、何も言えなかった。
口を開けば、胸の内まであふれてしまいそうだった。
ただ、その場に立ち尽くし。
目の前のアサを、静かに見つめ続けていた。
その静けさを破ったのは、控えめな足音だった。
「――失礼いたします」
布の向こうから声が届く。
すぐに布が持ち上げられ、タヅマが姿を現した。
ミナギは我に返ったように視線を外し、小さく息を整える。
アサも背筋を伸ばした。
タヅマは部屋へ入り、二人をひと目見た。
ほんの一瞬。
その目が、すべてを見抜いたように細くなる。
しかし、何も言わない。
いつも通り一礼し、静かに口を開いた。
「すでにお目通りは叶いましたな」
落ち着いた声だった。
視線をアサへ向け、小さくうなずく。
「見事にございます」
飾り気のない言葉。
侍女たちが整えた姿を、そのまま認めるような口調だった。
そして間を置かずに続ける。
「――準備は整っております」
その一言で、部屋の空気が変わる。
ミナギの表情が静かに引き締まった。
「耶馬台の使者が到着いたしました。間もなく対面となります」
タヅマは続ける。
「その前に――お二人へ、ひとつお願いがございます」
視線がアサへ。
続いてミナギへ向けられる。
「本日の場では、お二人が仲睦まじいご様子であることを、お見せいただきたく存じます」
静かに言葉が落ちる。
ミナギは黙ったままアサを見た。
アサも視線を受け、動けなくなる。
タヅマは変わらぬ表情で続けた。
「アサ殿が、王と深く結ばれたお方であると、はっきり伝える必要がございます。そのためにも、お振る舞いでお示しください」
しばらく沈黙が流れる。
「……振る舞い、とは」
アサが、おそるおそる尋ねた。
「簡単に申しますと」
ほんの少しだけ、タヅマの口元がやわらぐ。
「仲の良い男女として、自然に振る舞っていただければ結構です」
「自然に、とは何だ」
ミナギがわずかに眉を寄せる。
「視線を交わし、言葉を交わし、互いに近くいることをためらわぬこと」
さらりと答える。
「必要であれば――触れ合うことも」
ぴたりと、空気が止まった。
アサの肩が、小さく震える。
ミナギの思考も、一瞬止まる。
触れる?
誰が。
誰に。
どこを。
思考が、妙な方向へ流れかける。
「それは……」
ミナギは口を開くが、その先が続かない。
タヅマは穏やかに補足する。
「わざとらしく見えては逆効果でございます」
その言葉に、返す言葉はなかった。
アサが、おずおずと口を開く。
「あの……わ、私……どうすれば……」
困り切った声だった。
タヅマは少しだけやさしく答える。
「難しく考える必要はございませぬ」
少し言葉を選び、
「普段より、ほんの少しだけ近くに」
その一言が、不思議なほど重く響く。
アサの頬が、ほんのりと赤くなる。
「今のお二人は、少し距離がございます」
言いながら、二人の間へ視線を向ける。
確かに。
互いを意識しすぎるあまり、わずかな隙間ができていた。
アサは固まったまま動けない。
(……触れる……?)
その言葉だけが頭の中を巡る。
「ご安心ください」
タヅマは静かに続けた。
「過度なことをお願いするつもりはございませぬ。自然に近く見えれば、それで十分です」
だが、その「自然」が一番難しい。
誰も、それは口にはしなかった。
「……試しに」
タヅマが一歩下がる。
「今、この場で少しだけ距離を縮めてみてください」
また静けさが戻る。
ミナギとアサの目が合う。
すぐに逸れる。
気まずい。
「……行くぞ」
ミナギが低く言う。
アサは小さくうなずく。
一歩。
その一歩だけで、二人の距離は近づいた。
空気が変わる。
近い。
先ほどより、ずっと近い。
淡い香油の香りが、ふわりと届く。
ミナギは小さく喉を鳴らした。
アサも視線の置き場に困る。
見ればいいのか。
逸らすべきなのか。
分からない。
結局、そっと見てしまう。
目が合う。
その瞬間、二人とも小さく固まった。
ぎこちない沈黙だけが流れる。
タヅマはその様子を静かに見つめた。
(……先が思いやられますな)
心の中で、小さく息をつく。
あまりにも初々《ういうい》しい二人。
駆け引きとは無縁の、まっすぐな反応。
取り繕うことさえできない、不器用さ。
外交の場では危うさもある。
だが、その一方で。
だからこそ、人の心を動かす力もある。
作られた親しさよりも。
本物の戸惑いの方が、ずっと伝わることもある。
タヅマは静かに口を開いた。
「……よろしい」
短く区切るような声だった。
「そのままで」
二人が、はっと顔を上げる。
「無理に取り繕う必要はございませぬ」
落ち着いた声が続く。
「むしろ、そのままの方が――」
少しだけ言葉を切り、
「真実らしく見えるでしょう」
作られたものではない距離。
ぎこちなくても、本当の想いがある近さ。
それこそが、何よりの答えになる。
まだ戸惑いを抱えたままの二人。
それでも。
さっきより少しだけ。
二人の距離は、確かに近づいていた。




