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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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纏う朝




 薄明《はくめい》の光《ひかり》が、簀《す》の隙間《すきま》からやわらかく差《さ》し込《こ》んでいた。


 まだ夜《よる》の名残《なごり》を残《のこ》す空気《くうき》の中《なか》――その支度《したく》は、すでに始《はじ》まっていた。



 室《へや》の隅《すみ》に据《す》えられた桶《おけ》から、ゆるやかに湯気《ゆげ》が立《た》ちのぼる。


 薬草《やくそう》を煮出《にだ》した湯《ゆ》は、淡《あわ》く色《いろ》づき、かすかに青《あお》い香《かお》りを含《ふく》んでいた。


「こちらへ」


 促《うなが》されるまま、アサは戸惑《とまど》いながらも足《あし》を進《すす》める。


 衣《ころも》を外《はず》される。


 抵抗《ていこう》する間《ま》もなく、流《なが》れるような手《て》つきで。


 やがて――


 その身《み》は、静《しず》かに湯《ゆ》へと沈《しず》められた。


 ぬるい温《ぬく》もりが、足先《あしさき》から、腰《こし》へ、胸《むね》へと広《ひろ》がっていく。


 薬湯《やくとう》は肌《はだ》にまとわりつくようにやわらかく、ただ温《あたた》めるだけではない何《なに》かを含《ふく》んでいた。


 指先《ゆびさき》が触《ふ》れる。


 侍女《じじょ》たちの手《て》。


 布《ぬの》が、肩《かた》を、腕《うで》を、背《せ》を、ゆっくりと滑《すべ》っていく。


 擦《こす》るのではない。


 なぞるように、しかし逃《のが》さぬように。


 やがて、柔《やわ》らかな刷毛《はけ》のようなものが使《つか》われる。


 泡立《あわだ》てられた薬液《やくえき》が肌《はだ》に広《ひろ》げられ、さらに細《こま》やかに磨《みが》き上《あ》げられていく。


 光《ひかり》を受《う》けて、肌《はだ》が変《か》わる。


 曇《くも》りが消《き》え、淡《あわ》く、なめらかに。


 まるで、元《もと》からそうであったかのように。



 やがて、湯《ゆ》から引《ひ》き上《あ》げられる。


 滴《したた》る水《みず》を、布《ぬの》が静《しず》かに吸《す》い取《と》っていく。


 そして――


 小《ちい》さな器《うつわ》がいくつも運《はこ》ばれる。


 香油《こうゆ》。


 とろりとした液《えき》が、掌《てのひら》にとられ、肌《はだ》へと落《お》とされる。


 肩《かた》へ。


 腕《うで》へ。


 背《せ》へ。


 指《ゆび》が滑《すべ》る。


 塗《ぬ》り広《ひろ》げるたび、肌《はだ》に薄《うす》い艶《つや》が宿《やど》る。


 乾《かわ》きを封《ふう》じるように、内側《うちがわ》へ閉《と》じ込《こ》めるように。


 香《かお》りが立《た》つ。


 強《つよ》くはない。


 だが、確《たし》かに残《のこ》る。


 草《くさ》と花《はな》のあわい。


 清《きよ》らかで、どこか現実《げんじつ》から遠《とお》ざけるような香《かお》り。


 髪《かみ》にも、わずかに含《ふく》ませられる。


 指《ゆび》が通《とお》り、油《あぶら》がなじむ。



 そのまま、布《ぬの》がかけられ、次《つぎ》の支度《したく》へと移《うつ》っていく。


 背後《はいご》に回《まわ》った侍女《じじょ》の指《ゆび》が、そっと髪《かみ》に触《ふ》れた。


 長《なが》く伸《の》びた髪《かみ》が、櫛《くし》で丁寧《ていねい》に解《と》かれていく。


 引《ひ》かれるたび、さらさらと音《おと》を立《た》て、光《ひかり》を弾《はじ》いた。


「……綺麗《きれい》な髪《かみ》……」


 誰《だれ》かが、ぽつりとこぼす。


 アサは答《こた》えられず、ただ視線《しせん》を落《お》とした。


 いく筋《すじ》にも分《わ》けられ、編《あ》まれ、結《ゆ》わえられていく。


 指《ゆび》が通《とお》るたびに、形《かたち》が整《ととの》う。


 乱《みだ》れは消《き》え、流《なが》れが生《う》まれ、ひとつの意志《いし》を持《も》ったかのように収束《しゅうそく》する。


 やがて、ひとりの侍女《じじょ》が前《まえ》に回《まわ》った。


 小《ちい》さな器《うつわ》を手《て》にしている。


 白《しろ》い粉《こな》。


 細《こま》やかな白粉《おしろい》が、刷《は》くように肌《はだ》へ重《かさ》ねられていく。


 肌《はだ》が、変《か》わっていく。


 光《ひかり》を受《う》けて、淡《あわ》く、やわらかく。


 まるで別《べつ》の誰《だれ》かのもののように、輪郭《りんかく》がぼやけ、整《ととの》えられていく。



 次《つぎ》に、別《べつ》の器《うつわ》。


 深《ふか》い赤《あか》。


 鈍《にぶ》く光《ひかり》を帯《お》びた粉《こな》――辰砂《しんしゃ》。


 小《ちい》さな器《うつわ》から取《と》られた粉《こな》が、ほんのわずか、指先《ゆびさき》で頬《ほお》へと置《お》かれる。


 擦《す》り込《こ》むのではなく、息《いき》を吹《ふ》きかけるように、淡《あわ》く広《ひろ》げられていく。


 血《ち》の色《いろ》のようだが、生々(なまなま)しさはない。


 静《しず》かに、内側《うちがわ》から灯《とも》るような赤《あか》。


 唇《くちびる》にも、薄《うす》く。


 ほんの触《ふ》れるほどの量《りょう》で、色《いろ》が宿《やど》る。


 何《なに》もしていないはずなのに、


 顔《かお》が、語《かた》りはじめる。


 仕上《しあ》げに、目元《めもと》へと影《かげ》が落《お》とされる。


 炭《すみ》を細《ほそ》く引《ひ》き、輪郭《りんかく》をわずかに際立《きわだ》たせるだけ。


 それだけで、視線《しせん》の深《ふか》さが変《か》わる。


 最後《さいご》に、衣《ころも》が運《はこ》ばれる。


 腕《うで》を通《とお》され、重《かさ》ねられ、結《むす》ばれる。


 柔《やわ》らかな布《ぬの》が、肌《はだ》を滑《すべ》る。


 今《いま》まで身《み》につけていた粗《あら》い衣《ころも》とは、まるで違《ちが》っていた。


 指先《ゆびさき》で触《ふ》れれば、するりと逃《に》げるような滑《なめ》らかさ。


 幾重《いくえ》にも重《かさ》なる布《ぬの》が、アサの身体《からだ》を包《つつ》んでいく。



 次《つぎ》に――


 小《ちい》さな箱《はこ》が開《ひら》かれた。


 中《なか》には、幾筋《いくすじ》もの首飾《くびかざ》りが収《おさ》められている。


 青緑《あおみどり》の玉《たま》。


 赤褐色《せきかっしょく》の小《ちい》さな玉《たま》。


 それらを連《つら》ねた細《ほそ》かな飾《かざ》り。


 「……これは……?」


 思《おも》わず尋《たず》ねる。


「大切《たいせつ》な御方《おかた》がお召《め》しになるものです」


 侍女《じじょ》は、それ以上《いじょう》を語《かた》らなかった。



 長《なが》く垂《た》れた飾《かざ》りが、衣《ころも》の上《うえ》でゆるやかな弧《こ》を描《えが》く。


 ひとつ身《み》につけるたびに――


 アサは、自分《じぶん》の身体《からだ》が少《すこ》しずつ遠《とお》ざかっていくような気《き》がした。



 

 白《しろ》い衣《ころも》。


 赤褐色《せきかっしょく》の帯《おび》。


 青緑《あおみどり》と赤《あか》の玉《たま》を重《かさ》ねた首飾《くびかざ》り。


 丁寧《ていねい》に結《ゆ》い上《あ》げられた髪《かみ》。


 ひとつひとつは小《ちい》さなものなのに――

 それらが重《かさ》なるにつれて、アサの姿《すがた》は、少《すこ》しずつ別《べつ》のものへと変《か》わっていった。


 これから与《あた》えられる役目《やくめ》を、その身《み》に刻《きざ》むための装《よそお》いだった。


 

 すべてが終《お》わったとき、


 侍女《じじょ》のひとりが、そっと磨《みが》かれた銅鏡《どうきょう》を差《さ》し出《だ》した。


「……お目通《めどお》しください」


 促《うなが》され、アサはおそるおそる視線《しせん》を上《あ》げる。


 映《うつ》ったものを見《み》て、息《いき》を呑《の》んだ。


 そこにいるのは、自分《じぶん》であって、自分《じぶん》ではない。


 白《しろ》く整《ととの》えられた肌《はだ》。


 淡《あわ》く宿《やど》る紅《べに》。


 静《しず》かに結《ゆ》い上《あ》げられた髪《かみ》。


 そして、余計《よけい》なものを削《そ》ぎ落《お》とされたような、凛《りん》とした佇《たたず》まい。


(……誰《だれ》……?)


 喉《のど》の奥《おく》で、かすかな音《おと》が鳴《な》る。


 けれど、目《め》を逸《そ》らせなかった。


 侍女《じじょ》たちは、一歩《いっぽ》退《しりぞ》き、深《ふか》く頭《あたま》を下《さ》げた。


 その姿《すがた》は、まるで完成《かんせい》したものを前《まえ》にした職人《しょくにん》のように。


 あるいは――


 供物《くもつ》を捧《ささ》げ終《お》えた者《もの》のように、静《しず》かだった。




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