消せぬ笑顔
重臣たちが居並ぶ高殿の間には、張り詰めた静謐が満ちていた。
外では風が鳴っているはずなのに、その気配すら遠い。
篝火が、ぱちりと小さく弾ける。
その音が合図であったかのように、クラジが身を乗り出した。
「――いっそ」
低く、しかし抑えきれぬ熱を孕んだ声。
「アサ様を、正式に后としてお迎えしては如何にございますか」
言葉が落ちた瞬間――ぴたりと、空気が止まる。
クラジの眼は、燃えていた。
かつてはただ、王――ミナギ一人へ向けられていた忠誠が、今や、もうひとつの対象を得ている。
――アサ。
あの一件以来、彼にとってアサはただの娘ではなく、護るべきもの。
触れさせてはならぬものとなっていた。
そして今、その存在に、外から手が伸びようとしている。
「我が国の王の后――その立場となれば」
クラジの声がさらに低く沈む。
「耶馬台といえど、軽々しく手出しはできませぬ」
后とは単なる寵愛の対象ではない。
国そのものと結びついた「格」であり、政治そのものだ。
そこに触れるということは、即ち国を敵に回すことに等しい。
ゆえに――最も分かりやすく、最も強い防壁。
だが。
重臣たちは互いに視線を交わしながらも、口を開かない。
賛も否も、軽々しく言えぬ領域に踏み込んでいると、誰もが悟っていた。
そして。
その中心にいる者も――動かなかった。
ミナギは、黙したままだった。
視線を落としている。
表情は読めない。
だがその内では、確かに何かが揺れていた。
(……后に)
外に対する威圧としては十分すぎる。
耶馬台の使者とて、その意味を理解せぬはずがない。
王の后。
その一言で、アサはもはや奪える存在ではなくなる。
だが。
(……それで、いいのか)
脳裏に、アサの笑顔が浮かぶ。
飾り気もなく、作為もなく。
誰かに見せるためですらない、ただこぼれるような笑み。
あの無邪気さ。
あの、何にも縛られていない軽やかさ。
それが――
后という立場を与えた瞬間、果たして同じままでいられるのか。
守るため。
奪わせないため。
その名目で。
――囲う。
逃げ場を失わせる形で。
本人が望むかどうかとは無関係に。
それは守ることと、どこまで同義なのか。
あるいは。
ただ――手の内に置きたいだけではないのか。
失うことを恐れるあまり、奪われる前に、自ら縛ろうとしているだけではないのか。
沈黙が続く。
誰もが、ミナギの言葉を待っている。
決断を下せるのは、彼しかいない。
だが――
ミナギは、なおも口を開かなかった。
ただ静かに。
視線を落としたまま。
胸の奥に浮かぶ、あの笑顔を、消すこともできずに。
「――お待ちを」
低く、しかし場を裂くような声が落ちる。
タヅマだった。
重臣たちの視線が一斉に集まる中、彼はゆるやかに一礼する。
「クラジ殿の申される通り、后という立場は、外に対する牽制としても、これ以上なく強い楔となりましょう」
タヅマは、その意を受け止めた上で、静かに口を開いた。
「――しかし」
空気が、わずかに張り詰めた。
「それは同時に、我ら自らが動きを縛ることにもなります」
数名の重臣が、わずかに眉を動かす。
「后となれば、もはや一個の娘ではありませぬ。儀礼、血統、継承――すべてが絡みます。軽々と動かすことも、隠すこともできなくなる」
クラジの眉がぴくりと動くが、遮りはしない。
タヅマはそのまま続ける。
「ゆえに、折衷の策を」
静かに、しかし明確に。
「正式な冊立は行わず。されど、王の庇護下にある特別な位として扱う」
言葉を選びながら、その輪郭を示していく。
「名目は曖昧に。しかし実態は宮中においては最上位の保護を与え、外に対しては王の寵愛深き者としてのみ見せる」
静かに、しかし明確に。
「――内々の誓約に留めるのがよろしいかと」
ざわり、と場が揺れる。
「すなわち、外には明かさぬまま、事実上の庇護下に置く、ということか」
クラジが、低く唸る。
「左様にございます」
タヅマは頷いた。
「耶馬台の使者に対しては、明言は避けつつも、軽々しく触れてよい存在ではないと悟らせる……曖昧にしておくことで、相手に読みを強いる形となりましょう」
ツヅミは腕を組み、しばし沈黙したのち、吐き捨てるように言う。
「いささか、ぬるい」
空気が、ぴんと張る。
「守るなら、徹底的に守ればよい。半端は隙を生みますぞ」
「承知しております」
タヅマは即座に応えた。
「ですが――」
一瞬だけ、視線がミナギへ向く。
「守ることと、縛ることは、紙一重にございます」
その言葉は、静かに、しかし確かに落ちた。
ミナギの胸の奥で、何かが、かすかに触れる。
タヅマは続ける。
「今はまだ、選びを急ぐ時ではないかと。耶馬台の出方を見極める余地を残しつつ、アサ殿の身を確保する――その両立が肝要にございます」
沈黙。
先ほどとは違う、思考のための沈黙だった。
ミナギは、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、先ほどよりもわずかに深く、静まっている。
(……急ぐな、か)
胸の内で、タヅマの言葉が反芻される。
守るという名のもとに。
どこまでを、奪わずにいられるのか。
囲わずに守ることなど、本当に可能なのか。
何も変えずに、何も失わせずに、ただ外だけを遮るなど――
そんな都合のいい均衡が、存在するのか。
それとも――
どこかで必ず、削ることになるのか。
あの笑顔を。
あの無垢を。
守るために、と言いながら。
「……タヅマの案」
低く、抑えた声が落ちる。
石に染み込む水のように、静かに場へ広がった。
ぴたりと、すべての動きが止まる。
「採る」
張り詰めていた空気が、ゆるやかにほどける。
止まっていた流れが、再び動き出す。
クラジは腕を組んだまま、低く息を吐く。
その表情に不満は残る。
だが、覆す気配はない。
王の決断として、受け入れている。
他の重臣たちも同様だった。
誰もが完全に満足しているわけではない。
だが、この場で取り得る最善の均衡であることは理解していた。
決は、下された。
だが――
ミナギのその胸の奥に残った揺らぎだけは、なおも消えることなく。
静かに、しかし確かに、そこに在り続けていた。




