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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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誰のためでもなく



 逃《に》げ場《ば》のない静《しず》けさに、アサは小《ちい》さく息《いき》を吸《す》った。


「……正直《しょうじき》に申《もう》しますと」


 少《すこ》しだけ言《い》い淀《よど》み、それでも続《つづ》ける。


「今《いま》の自分《じぶん》が、どういう立場《たちば》なのか、時々(ときどき)わからなくなるのです」


 言《い》いながら、視線《しせん》がわずかに揺《ゆ》れる。


「みんな優《やさ》しく、気遣《きづか》ってくれるのは有《あ》り難《がた》いのですが……その優《やさ》しさが、少《すこ》しだけ遠《とお》く感《かん》じて……」


 最後《さいご》は、ほとんど独《ひと》り言《ごと》のようだった。


 ハヤトはまだ槍《やり》を振《ふ》り回《まわ》している。


 その無邪気《むじゃき》な音《おと》だけが、かすかに救《すく》いのように響《ひび》く。


 アサはそれを見《み》て、少《すこ》しだけ肩《かた》の力《ちから》を抜《ぬ》いた。


「……すみません。変《へん》なことを」


 そう言《い》って笑《わら》おうとするが、うまく形《かたち》にならなかった。


「役目《やくめ》がないと、自分《じぶん》が何《なん》なのか分《わ》からなくなってしまって……少《すこ》し、落《お》ち着《つ》かなくて」



 沈黙《ちんもく》が落《お》ちる。


 庭《にわ》の風《かぜ》が、草《くさ》を揺《ゆ》らした。


「……分《わ》かりますわ」


 宇良《うら》がぽつりと口《くち》を開《ひら》いた。


「役目《やくめ》を失《うしな》った自分《じぶん》に、意味《いみ》があるのかどうかと問《と》う感覚《かんかく》は、私《わたし》にも覚《おぼ》えがございます」


 視線《しせん》はアサではなく、少《すこ》し遠《とお》くを見《み》ている。


「自分《じぶん》の意思《いし》を持《も》つことよりも、持《も》たぬことの方《ほう》が正《ただ》しいとされる場所《ばしょ》で生《い》きてきましたから」


 宇良《うら》はそこで初《はじ》めて、わずかに目《め》を伏《ふ》せた。


 アサの表情《ひょうじょう》が、かすかに曇《くも》る。


「……それは、さぞお辛《つら》かったですね……」


 宇良《うら》の喉《のど》が、わずかに動《うご》く。


「――え?」


「だって……嫌《いや》だと感《かん》じることを、嫌《いや》だと言《い》えないのは」


 アサは少《すこ》し俯《うつむ》きながら言《い》う。


「自分《じぶん》の意思《いし》を持《も》てないまま従《したが》うしかないのは――とても苦《くる》しく……辛《つら》いことだと思《おも》いましたので」


 言《い》い切《き》った瞬間《しゅんかん》、自分《じぶん》の言葉《ことば》の輪郭《りんかく》に気《き》づいたのか、アサの顔《かお》が、さっと青《あお》ざめた。


「あっ……」


 小《ちい》さく息《いき》が跳《は》ねる。


「も、申《もう》し訳《わけ》ありません、今《いま》のは……!」


 慌《あわ》てて、取《と》り繕《つくろ》うように言葉《ことば》を重《かさ》ねる。


 

 呆然《ぼうぜん》とする宇良《うら》。



 ――幼《おさな》い頃《ころ》の記憶《きおく》がよぎる。


 

『お前《まえ》は美《うつく》しい。だから使《つか》える』


『相手《あいて》が欲《ほ》しがる顔《かお》をしろ。お前《まえ》の顔《かお》ではなく、相手《あいて》の望《のぞ》む顔《かお》だ』


『お前《まえ》にあるのは選《えら》ぶ権利《けんり》ではない。選《えら》ばれる価値《かち》だけだ』


 

 それは父《ちち》の声《こえ》だったのか。


 それとも――


 兄《あに》、阿久良《あくら》のものだったのか。


 

 選《えら》ばれるための教育《きょういく》。


 相手《あいて》を喜《よろこ》ばせるための所作《しょさ》。


 笑《わら》うための訓練《くんれん》。


 拒《こば》むことさえ許《ゆる》されぬ日々(ひび)。


 

 ……辛《つら》かった?


 私《わたし》はずっと、辛《つら》かったのか――?


 

 思考《しこう》が、凍《こお》りつく。


 呼吸《こきゅう》の仕方《しかた》さえ、どこかぎこちない。


 宇良《うら》は、ただその場《ば》に立《た》ち尽《つ》くす。



 その異変《いへん》に気《き》づき、アサは戸惑《とまど》う。


(どうしよう……失礼《しつれい》なことを……)


 触《ふ》れてはならないものに触《ふ》れてしまった気《き》がする。


「――そ、そうだ……宇良様《うらさま》は、何《なに》がお好《す》きですか?」


 少《すこ》しだけ明《あか》るさを装《よそお》った声《こえ》。


 だが、押《お》しつけがましさはない。


「お好《す》きなもの、とか……ございますか?」


 宇良《うら》は答《こた》えられない。



 好《す》き。



 その言葉《ことば》が、妙《みょう》に遠《とお》い。


 何《なに》が好《す》きか――ではなく、


 何《なん》と答《こた》えれば相手《あいて》が満足《まんぞく》するか。


 そればかりを、いつも先《さき》に考《かんが》えていた。


 すべては、選《えら》ばれるための答《こた》え。


 では、自分《じぶん》は何《なに》を好《この》んでいたのか。



 ――空白《くうはく》。



 だが、確《たし》かに――かつてはあったはずだ。


 記憶《きおく》を、手繰《たぐ》る。


 

 柔《やわ》らかな草《くさ》の感触《かんしょく》。


 指先《ゆびさき》に絡《から》む細《ほそ》い茎《くき》。


 陽《ひ》に透《す》ける花弁《かべん》の色《いろ》。


 小《ちい》さな手《て》で、不器用《ぶきよう》に編《あ》んでいた。


 輪《わ》にして、頭《あたま》に乗《の》せて――


(……ああ)


「――草花《くさばな》で、冠《かんむり》を……」


 気《き》づけば、声《こえ》がこぼれていた。


 その一言《ひとこと》を聞《き》いた瞬間《しゅんかん》、アサの顔《かお》が、ぱっと明《あか》るくなる。


「本当《ほんとう》ですか!」


 声《こえ》が弾《はず》む。


「私、それ、得意《とくい》でして……!」


 少《すこ》し身《み》を乗《の》り出《だ》し、そのままハヤトの元《もと》へ歩《あゆ》み寄《よ》ると、耳元《みみもと》に顔《かお》を寄《よ》せる。


「ね、ハヤト様《さま》。あれ、やりましょうか」


 小声《こごえ》で、こしょこしょと囁《ささや》く。


 ハヤトの表情《ひょうじょう》が、みるみるほどけていく。


 花《はな》が開《ひら》くような笑《え》み。


 二人《ふたり》はくすくすと笑《わら》い合《あ》い、すぐに草花《くさばな》へと手《て》を伸《の》ばす。


 細《ほそ》い茎《くき》を選《えら》び、折《お》らぬようにしならせ、絡《から》め、編《あ》み込《こ》む。


 迷《まよ》いのない手《て》つき。


 ハヤトも真似《まね》をするが、うまくいかない。


 眉《まゆ》を寄《よ》せるその手《て》に、アサがそっと重《かさ》ねる。


「ここを、こうして……」


 教《おし》え込《こ》むのではなく、寄《よ》り添《そ》うように。


 宇良《うら》は、それを呆然《ぼうぜん》と見《み》ていた。


 ただ、初《はじ》めて――


 自分《じぶん》が、これまで空《から》っぽだったのだと気《き》づく。



 風《かぜ》が吹《ふ》く。


 草花《くさばな》が、静《しず》かに揺《ゆ》れる。


 忘《わす》れていた感触《かんしょく》が、指先《ゆびさき》に蘇《よみがえ》る。


(……好《す》き、だった)


 それは誰《だれ》のためでもなく、


 ただ自分《じぶん》が、そうしたかった記憶《きおく》。


 

「――母上《ははうえ》!」


 弾《はず》む声《こえ》とともに、ハヤトが駆《か》け寄《よ》る。


 小《ちい》さな手《て》が、きゅっと宇良《うら》の衣《ころも》を掴《つか》む。


「できました!」


 背伸《せの》びをして、冠《かんむり》を差《さ》し出《だ》す。


 少《すこ》し不揃《ふぞろ》いな、野花《のばな》の輪《わ》。


 幼《おさな》い指《ゆび》の跡《あと》が、そのまま残《のこ》っている。


 それを、そっと宇良《うら》の頭《あたま》に載《の》せる。


 ふわりと、草《くさ》の匂《にお》いが立《た》ちのぼる。


 その瞬間《しゅんかん》。


 宇良《うら》の呼吸《こきゅう》が、止《と》まる。


 視界《しかい》のすぐ近《ちか》くに、ハヤトの笑顔《えがお》。


 その向《む》こうに、アサの笑顔《えがお》。


 どちらも、眩《まぶ》しいほどに真《ま》っ直《す》ぐで。


「僕《ぼく》が作《つく》ったんです。上手《じょうず》にできましたか?」


 期待《きたい》に満《み》ちた瞳《ひとみ》。


 答《こた》えなければならない。


 そう思《おも》うのに――言葉《ことば》が出《で》てこない。


 アサが、やわらかく口《くち》を添《そ》える。


「とても、よくお出来《でき》になっています」


 穏《おだ》やかな声《こえ》。


「今度《こんど》は、宇良様《うらさま》もご一緒《いっしょ》にいかがですか?」


 

 ――過去《かこ》の自分《じぶん》。


 忘《わす》れ去《さ》られて、押《お》し込《こ》められたままの少女《しょうじょ》の影《かげ》。


 誰《だれ》にも触《ふ》れられず、誰《だれ》のためでもなく、ただ役目《やくめ》だけを背負《せお》わされていた自分《じぶん》。


 その影《かげ》が、柔《やわ》らかな光《ひかり》に染《そ》まる。


 宇良《うら》の胸《むね》の奥《おく》で、何《なに》かがほどける。


 きつく、固《かた》く、絡《から》みついていたものが。


 長《なが》い時間《じかん》をかけて縛《しば》られていたものが。


 静《しず》かに、音《おと》もなく、緩《ゆる》んでいく。



(……空《から》っぽ?)


 ――違《ちが》う。


 そんなはずはない。


(私《わたし》は……)


 視線《しせん》が、無意識《むいしき》にハヤトへと落《お》ちる。


 小《ちい》さな手《て》。


 自分《じぶん》を掴《つか》む温《ぬく》もり。


(私《わたし》には――)


 その事実《じじつ》が、静《しず》かに胸《むね》へ落《お》ちる。


 ふっ、と息《いき》がほどけるように、宇良《うら》の唇《くちびる》がわずかに緩《ゆる》んだ。


 それは気《き》づかぬほど微《かす》かな、けれど確《たし》かな笑《え》みだった。


「……ええ」


 ようやく、声《こえ》になる。


 かすれてはいるが、確《たし》かな意思《いし》を帯《お》びている。


「ご一緒《いっしょ》いたしましょう」


 その言葉《ことば》は、誰《だれ》のためでもなく。


 初《はじ》めて、自分《じぶん》で選《えら》んだものだった。




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