誰のためでもなく
逃げ場のない静けさに、アサは小さく息を吸った。
「……正直に申しますと」
少しだけ言い淀み、それでも続ける。
「今の自分が、どういう立場なのか、時々わからなくなるのです」
言いながら、視線がわずかに揺れる。
「みんな優しく、気遣ってくれるのは有り難いのですが……その優しさが、少しだけ遠く感じて……」
最後は、ほとんど独り言のようだった。
ハヤトはまだ槍を振り回している。
その無邪気な音だけが、かすかに救いのように響く。
アサはそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「……すみません。変なことを」
そう言って笑おうとするが、うまく形にならなかった。
「役目がないと、自分が何なのか分からなくなってしまって……少し、落ち着かなくて」
沈黙が落ちる。
庭の風が、草を揺らした。
「……分かりますわ」
宇良がぽつりと口を開いた。
「役目を失った自分に、意味があるのかどうかと問う感覚は、私にも覚えがございます」
視線はアサではなく、少し遠くを見ている。
「自分の意思を持つことよりも、持たぬことの方が正しいとされる場所で生きてきましたから」
宇良はそこで初めて、わずかに目を伏せた。
アサの表情が、かすかに曇る。
「……それは、さぞお辛かったですね……」
宇良の喉が、わずかに動く。
「――え?」
「だって……嫌だと感じることを、嫌だと言えないのは」
アサは少し俯きながら言う。
「自分の意思を持てないまま従うしかないのは――とても苦しく……辛いことだと思いましたので」
言い切った瞬間、自分の言葉の輪郭に気づいたのか、アサの顔が、さっと青ざめた。
「あっ……」
小さく息が跳ねる。
「も、申し訳ありません、今のは……!」
慌てて、取り繕うように言葉を重ねる。
呆然とする宇良。
――幼い頃の記憶がよぎる。
『お前は美しい。だから使える』
『相手が欲しがる顔をしろ。お前の顔ではなく、相手の望む顔だ』
『お前にあるのは選ぶ権利ではない。選ばれる価値だけだ』
それは父の声だったのか。
それとも――
兄、阿久良のものだったのか。
選ばれるための教育。
相手を喜ばせるための所作。
笑うための訓練。
拒むことさえ許されぬ日々。
……辛かった?
私はずっと、辛かったのか――?
思考が、凍りつく。
呼吸の仕方さえ、どこかぎこちない。
宇良は、ただその場に立ち尽くす。
その異変に気づき、アサは戸惑う。
(どうしよう……失礼なことを……)
触れてはならないものに触れてしまった気がする。
「――そ、そうだ……宇良様は、何がお好きですか?」
少しだけ明るさを装った声。
だが、押しつけがましさはない。
「お好きなもの、とか……ございますか?」
宇良は答えられない。
好き。
その言葉が、妙に遠い。
何が好きか――ではなく、
何と答えれば相手が満足するか。
そればかりを、いつも先に考えていた。
すべては、選ばれるための答え。
では、自分は何を好んでいたのか。
――空白。
だが、確かに――かつてはあったはずだ。
記憶を、手繰る。
柔らかな草の感触。
指先に絡む細い茎。
陽に透ける花弁の色。
小さな手で、不器用に編んでいた。
輪にして、頭に乗せて――
(……ああ)
「――草花で、冠を……」
気づけば、声がこぼれていた。
その一言を聞いた瞬間、アサの顔が、ぱっと明るくなる。
「本当ですか!」
声が弾む。
「私、それ、得意でして……!」
少し身を乗り出し、そのままハヤトの元へ歩み寄ると、耳元に顔を寄せる。
「ね、ハヤト様。あれ、やりましょうか」
小声で、こしょこしょと囁く。
ハヤトの表情が、みるみるほどけていく。
花が開くような笑み。
二人はくすくすと笑い合い、すぐに草花へと手を伸ばす。
細い茎を選び、折らぬようにしならせ、絡め、編み込む。
迷いのない手つき。
ハヤトも真似をするが、うまくいかない。
眉を寄せるその手に、アサがそっと重ねる。
「ここを、こうして……」
教え込むのではなく、寄り添うように。
宇良は、それを呆然と見ていた。
ただ、初めて――
自分が、これまで空っぽだったのだと気づく。
風が吹く。
草花が、静かに揺れる。
忘れていた感触が、指先に蘇る。
(……好き、だった)
それは誰のためでもなく、
ただ自分が、そうしたかった記憶。
「――母上!」
弾む声とともに、ハヤトが駆け寄る。
小さな手が、きゅっと宇良の衣を掴む。
「できました!」
背伸びをして、冠を差し出す。
少し不揃いな、野花の輪。
幼い指の跡が、そのまま残っている。
それを、そっと宇良の頭に載せる。
ふわりと、草の匂いが立ちのぼる。
その瞬間。
宇良の呼吸が、止まる。
視界のすぐ近くに、ハヤトの笑顔。
その向こうに、アサの笑顔。
どちらも、眩しいほどに真っ直ぐで。
「僕が作ったんです。上手にできましたか?」
期待に満ちた瞳。
答えなければならない。
そう思うのに――言葉が出てこない。
アサが、やわらかく口を添える。
「とても、よくお出来になっています」
穏やかな声。
「今度は、宇良様もご一緒にいかがですか?」
――過去の自分。
忘れ去られて、押し込められたままの少女の影。
誰にも触れられず、誰のためでもなく、ただ役目だけを背負わされていた自分。
その影が、柔らかな光に染まる。
宇良の胸の奥で、何かがほどける。
きつく、固く、絡みついていたものが。
長い時間をかけて縛られていたものが。
静かに、音もなく、緩んでいく。
(……空っぽ?)
――違う。
そんなはずはない。
(私は……)
視線が、無意識にハヤトへと落ちる。
小さな手。
自分を掴む温もり。
(私には――)
その事実が、静かに胸へ落ちる。
ふっ、と息がほどけるように、宇良の唇がわずかに緩んだ。
それは気づかぬほど微かな、けれど確かな笑みだった。
「……ええ」
ようやく、声になる。
かすれてはいるが、確かな意思を帯びている。
「ご一緒いたしましょう」
その言葉は、誰のためでもなく。
初めて、自分で選んだものだった。




