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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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居場所のない日々



 アサは、暇《ひま》だった。


 倒《たお》れてから、一月《ひとつき》。


 身体《からだ》の回復《かいふく》は思《おも》っていたより早《はや》く、もう普段《ふだん》の暮《く》らしに困《こま》らない程度《ていど》には戻《もど》っていた。


 だからこそ、すぐに侍女《じじょ》の務《つと》めへ戻《もど》ろうとした。


 けれど――周囲《しゅうい》は、それを許《ゆる》さなかった。



「まだ無理《むり》をなさってはいけません」


「大切《たいせつ》なお身体《からだ》です。もうしばらくお休《やす》みください」


 そんな言葉《ことば》が、当《あ》たり前《まえ》のように重《かさ》なっていく。


 そして少《すこ》しずつ、アサの居場所《いばしょ》を奪《うば》っていった。


 仕事《しごと》は任《まか》せてもらえない。


 細《こま》かな用事《ようじ》すら回《まわ》ってこない。


 代《か》わりに与《あた》えられるのは、丁寧《ていねい》すぎるほどの気遣《きづか》いと、必要以上《ひつよういじょう》の休養《きゅうよう》。


 その結果《けっか》――


 アサは、役目《やくめ》を持《も》たない侍女《じじょ》として、ただ時間《じかん》だけを持《も》て余《あま》すことになった。



 だから日中《にっちゅう》は、宮中《きゅうちゅう》を歩《ある》いて過《す》ごしていた。


 仕事《しごと》を奪《うば》われた今《いま》、暇《ひま》を埋《う》める方法《ほうほう》は、それくらいしかなかった。



 石畳《いしだたみ》の回廊《かいろう》は綺麗《きれい》に整《ととの》えられ、真《ま》っすぐ続《つづ》いている。


 高《たか》い木《き》の柱《はしら》。


 太《ふと》い梁《はり》が渡《わた》され、その上《うえ》には厚《あつ》く葺《ふ》かれた茅《かや》の屋根《やね》が伸《の》びている。


 深《ふか》い軒《のき》が回廊《かいろう》に影《かげ》を落《お》とし、風《かぜ》が通《とお》るたび、乾《かわ》いた木《き》の香《かお》りと、かすかに残《のこ》る甘《あま》い香《こう》の匂《にお》いが混《ま》ざった。



 行《ゆ》き交《か》う宮仕《みやづか》えの者《もの》たちは、以前《いぜん》とは明《あき》らかに違《ちが》っていた。


 視線《しせん》が、少《すこ》し長《なが》く残《のこ》る。


 すれ違《ちが》う時《とき》、歩《あゆ》みがわずかに遅《おそ》くなる。


 何《なに》かを確《たし》かめるように、頭《あたま》を下《さ》げる者《もの》もいる。


 侍女《じじょ》たちは小声《こごえ》で話《はな》していても、アサが近《ちか》づくと自然《しぜん》に口《くち》を閉《と》じた。



 アサは、ゆっくりと顔《かお》を上《あ》げる。


 高《たか》い天井《てんじょう》。


 差《さ》し込《こ》む光《ひかり》。


 整《ととの》えられた宮《みや》。


 その中心《ちゅうしん》に、自分《じぶん》だけが置《お》き去《ざ》りにされているような気持《きも》ちになる。



 アサは小《ちい》さく息《いき》を吐《は》きながら歩《ある》いているうちに、気《き》づけば練武場《れんぶじょう》の近《ちか》くまで来《き》ていた。


 開《ひら》けた庭《にわ》の向《む》こうで、宮仕《みやづか》えの兵《へい》たちが列《れつ》を作《つく》り、掛《か》け声《ごえ》を響《ひび》かせながら動《うご》いていた。


 槍《やり》が空《くう》を切《き》る音《おと》。


 木《き》と木《き》がぶつかる乾《かわ》いた音《おと》。


 揃《そろ》った足音《あしおと》が、大地《だいち》に一定《いってい》のリズムを刻《きざ》んでいく。


 汗《あせ》。


 緊張《きんちょう》。


 張《は》りつめた空気《くうき》。


 それは、先《さき》ほどまで歩《ある》いていた静《しず》かな回廊《かいろう》とは、まるで別《べつ》の場所《ばしょ》だった。


 アサは境目《さかいめ》で足《あし》を止《と》め、しばらく眺《なが》めていた。




「アサー!」


 突然《とつぜん》。


 遠《とお》くから明《あか》るい声《こえ》が響《ひび》く。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》。


 小《ちい》さな影《かげ》が、こちらへ駆《か》けてきた。


 ハヤトだった。


 手《て》には、子供用《こどもよう》に削《けず》られた槍《やり》を握《にぎ》っている。


 走《はし》るたびに、それを嬉《うれ》しそうに振《ふ》り回《まわ》していた。


「見《み》て見《み》て! 今日《きょう》、先生《せんせい》に褒《ほ》められたんだ!」


 そこにあったのは、以前《いぜん》と変《か》わらない真《ま》っすぐな瞳《ひとみ》だった。


 違《ちが》うのは、少《すこ》しだけ背《せ》が伸《の》びたこと。


 槍《やり》を構《かま》える姿《すがた》も、少《すこ》しずつ様《さま》になっている。


 それでも。


 その無邪気《むじゃき》さだけは、何《なに》も変《か》わっていなかった。


 アサは、その姿《すがた》を見《み》て、ほんの少《すこ》し肩《かた》の力《ちから》を抜《ぬ》いた。


(……ああ)


 この子《こ》は変《か》わらない。


 周囲《しゅうい》の評価《ひょうか》も。


 人《ひと》との距離《きょり》も。


 今《いま》の自分《じぶん》を包《つつ》む空気《くうき》も。


 何《なに》も関係《かんけい》なく、ただいつも通《どお》りに向《む》かってきてくれる。


 そのことが、不思議《ふしぎ》なくらい胸《むね》を落《お》ち着《つ》かせた。



 アサは自然《しぜん》と笑《え》みを浮《う》かべ、しゃがみ込《こ》む。


「すごいですね、ハヤト様《さま》」


 そう言《い》うと、ハヤトは誇《ほこ》らしそうに胸《むね》を張《は》った。


 そして、もう一度《いちど》槍《やり》を構《かま》え直《なお》す。


 そのまっすぐな姿《すがた》を見《み》つめながら、アサは静《しず》かに目《め》を細《ほそ》めた。



 その時《とき》だった。


 ふと、空気《くうき》が変《か》わった。


 軽《かる》い足音《あしおと》ではない。


 草《くさ》を踏《ふ》む音《おと》さえ乱《みだ》れない、静《しず》かな歩《あゆ》み。



 アサは無意識《むいしき》に背筋《せすじ》を伸《の》ばした。


 視線《しせん》の先《さき》に現《あらわ》れたのは、宇良《うら》だった。


 ゆるやかに結《ゆ》われた髪《かみ》。


 乱《みだ》れのない装《よそお》い。


 柔《やわ》らかな微笑《ほほえ》み。


 けれど、その瞳《ひとみ》の奥《おく》には、簡単《かんたん》には読《よ》めないものがあった。


「まあ、ここにいたのね」


 穏《おだ》やかな声《こえ》。


 それなのに、その場《ば》の空気《くうき》が少《すこ》しだけ変《か》わる。


「母上《ははうえ》!」


 ハヤトは嬉《うれ》しそうに手《て》を振《ふ》った。


 その隣《となり》で、アサは一瞬《いっしゅん》だけ息《いき》を止《と》める。



 怖《こわ》いわけではない。


 ただ、宇良《うら》という人《ひと》は、見るたびに印象《いんしょう》が変《か》わる。


 優《やさ》しく見《み》える時《とき》もある。


 けれど、その奥《おく》に冷《つめ》たい何《なに》かを感《かん》じる時《とき》もある。


 まるで、自分《じぶん》の心《こころ》を見透《みす》かされているように思《おも》うことさえあった。



 アサは静《しず》かに頭《あたま》を下《さ》げる。


「宇良様《うらさま》――」


 声《こえ》が少《すこ》し硬《かた》くなる。


「そんなに畏《かしこ》まらなくてもいいのよ」


 宇良《うら》は柔《やわ》らかく笑《わら》った。


 その視線《しせん》が、一度《いちど》ハヤトへ向《む》く。


 槍《やり》を握《にぎ》り、楽しそうにしている息子《むすこ》。


 そこには、母《はは》としての優《やさ》しさが一瞬《いっしゅん》だけ浮《う》かんだ。


「今日《きょう》は、随分《ずいぶん》張《は》り切《き》っているわね」


「はい! 先生《せんせい》に、腰《こし》の落《お》とし方《かた》と、それから振《ふ》り方《かた》がいいって言《い》われました!」


 嬉《うれ》しそうに話《はな》すハヤトを見《み》て、宇良《うら》は小《ちい》さく頷《うなず》いた。


 そして再《ふたた》び、アサへ視線《しせん》を戻《もど》す。


 その目《め》が、ほんの少《すこ》し細《ほそ》まった。


「――身体《からだ》の具合《ぐあい》はいかが?」


 何気《なにげ》ない問《と》いかけ。


 けれど、それはただの気遣《きづか》いではないように聞《き》こえた。


「おかげさまで、問題《もんだい》なく……」


「そう」


 宇良《うら》は静《しず》かに受《う》け止《と》める。


 そして、わずかに首《くび》を傾《かし》げた。


 笑《え》みは変《か》わらない。


 けれど、その奥《おく》の空気《くうき》だけが少《すこ》し変《か》わる。


「――問題《もんだい》ない、という割《わり》には」


 視線《しせん》が、アサの顔《かお》を見る。


「少《すこ》し、浮《う》かないお顔《かお》をしていますわね?」


 声《こえ》は優《やさ》しい。


 けれど、その言葉《ことば》から逃《に》げることはできなかった。


 アサは一瞬《いっしゅん》、言葉《ことば》を失《うしな》う。


 喉《のど》の奥《おく》に何《なに》かがつかえたように、息《いき》だけが小《ちい》さく揺《ゆ》れた。


 視線《しせん》が落《お》ちる。


 足元《あしもと》の砂利《じゃり》を見《み》つめる。


 沈黙《ちんもく》が、ゆっくりと伸《の》びていく。


(言《い》ってもいいのだろうか)


 迷《まよ》いが、表情《ひょうじょう》の端《はし》に浮《う》かぶ。


 けれど、宇良《うら》の視線《しせん》は逸《そ》れなかった。


 急《せ》かすこともなく。


 答《こた》えを求《もと》めることもなく。


 ただ静《しず》かに、そこにいた。



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