居場所のない日々
アサは、暇だった。
倒れてから、一月。
身体の回復は思っていたより早く、もう普段の暮らしに困らない程度には戻っていた。
だからこそ、すぐに侍女の務めへ戻ろうとした。
けれど――周囲は、それを許さなかった。
「まだ無理をなさってはいけません」
「大切なお身体です。もうしばらくお休みください」
そんな言葉が、当たり前のように重なっていく。
そして少しずつ、アサの居場所を奪っていった。
仕事は任せてもらえない。
細かな用事すら回ってこない。
代わりに与えられるのは、丁寧すぎるほどの気遣いと、必要以上の休養。
その結果――
アサは、役目を持たない侍女として、ただ時間だけを持て余すことになった。
だから日中は、宮中を歩いて過ごしていた。
仕事を奪われた今、暇を埋める方法は、それくらいしかなかった。
石畳の回廊は綺麗に整えられ、真っすぐ続いている。
高い木の柱。
太い梁が渡され、その上には厚く葺かれた茅の屋根が伸びている。
深い軒が回廊に影を落とし、風が通るたび、乾いた木の香りと、かすかに残る甘い香の匂いが混ざった。
行き交う宮仕えの者たちは、以前とは明らかに違っていた。
視線が、少し長く残る。
すれ違う時、歩みがわずかに遅くなる。
何かを確かめるように、頭を下げる者もいる。
侍女たちは小声で話していても、アサが近づくと自然に口を閉じた。
アサは、ゆっくりと顔を上げる。
高い天井。
差し込む光。
整えられた宮。
その中心に、自分だけが置き去りにされているような気持ちになる。
アサは小さく息を吐きながら歩いているうちに、気づけば練武場の近くまで来ていた。
開けた庭の向こうで、宮仕えの兵たちが列を作り、掛け声を響かせながら動いていた。
槍が空を切る音。
木と木がぶつかる乾いた音。
揃った足音が、大地に一定のリズムを刻んでいく。
汗。
緊張。
張りつめた空気。
それは、先ほどまで歩いていた静かな回廊とは、まるで別の場所だった。
アサは境目で足を止め、しばらく眺めていた。
「アサー!」
突然。
遠くから明るい声が響く。
次の瞬間。
小さな影が、こちらへ駆けてきた。
ハヤトだった。
手には、子供用に削られた槍を握っている。
走るたびに、それを嬉しそうに振り回していた。
「見て見て! 今日、先生に褒められたんだ!」
そこにあったのは、以前と変わらない真っすぐな瞳だった。
違うのは、少しだけ背が伸びたこと。
槍を構える姿も、少しずつ様になっている。
それでも。
その無邪気さだけは、何も変わっていなかった。
アサは、その姿を見て、ほんの少し肩の力を抜いた。
(……ああ)
この子は変わらない。
周囲の評価も。
人との距離も。
今の自分を包む空気も。
何も関係なく、ただいつも通りに向かってきてくれる。
そのことが、不思議なくらい胸を落ち着かせた。
アサは自然と笑みを浮かべ、しゃがみ込む。
「すごいですね、ハヤト様」
そう言うと、ハヤトは誇らしそうに胸を張った。
そして、もう一度槍を構え直す。
そのまっすぐな姿を見つめながら、アサは静かに目を細めた。
その時だった。
ふと、空気が変わった。
軽い足音ではない。
草を踏む音さえ乱れない、静かな歩み。
アサは無意識に背筋を伸ばした。
視線の先に現れたのは、宇良だった。
ゆるやかに結われた髪。
乱れのない装い。
柔らかな微笑み。
けれど、その瞳の奥には、簡単には読めないものがあった。
「まあ、ここにいたのね」
穏やかな声。
それなのに、その場の空気が少しだけ変わる。
「母上!」
ハヤトは嬉しそうに手を振った。
その隣で、アサは一瞬だけ息を止める。
怖いわけではない。
ただ、宇良という人は、見るたびに印象が変わる。
優しく見える時もある。
けれど、その奥に冷たい何かを感じる時もある。
まるで、自分の心を見透かされているように思うことさえあった。
アサは静かに頭を下げる。
「宇良様――」
声が少し硬くなる。
「そんなに畏まらなくてもいいのよ」
宇良は柔らかく笑った。
その視線が、一度ハヤトへ向く。
槍を握り、楽しそうにしている息子。
そこには、母としての優しさが一瞬だけ浮かんだ。
「今日は、随分張り切っているわね」
「はい! 先生に、腰の落とし方と、それから振り方がいいって言われました!」
嬉しそうに話すハヤトを見て、宇良は小さく頷いた。
そして再び、アサへ視線を戻す。
その目が、ほんの少し細まった。
「――身体の具合はいかが?」
何気ない問いかけ。
けれど、それはただの気遣いではないように聞こえた。
「おかげさまで、問題なく……」
「そう」
宇良は静かに受け止める。
そして、わずかに首を傾げた。
笑みは変わらない。
けれど、その奥の空気だけが少し変わる。
「――問題ない、という割には」
視線が、アサの顔を見る。
「少し、浮かないお顔をしていますわね?」
声は優しい。
けれど、その言葉から逃げることはできなかった。
アサは一瞬、言葉を失う。
喉の奥に何かがつかえたように、息だけが小さく揺れた。
視線が落ちる。
足元の砂利を見つめる。
沈黙が、ゆっくりと伸びていく。
(言ってもいいのだろうか)
迷いが、表情の端に浮かぶ。
けれど、宇良の視線は逸れなかった。
急かすこともなく。
答えを求めることもなく。
ただ静かに、そこにいた。




