影
宮兵見習いのチガヤのお話です。彼には、誰にも知られていない、もうひとつの顔があり……
チガヤには、誰も知らない顔がある。
宮兵見習い。
アオバたちと肩を並べて訓練する。
槍を振り、汗を流し、時には叱られ、時にはくだらない話に笑う。
背は低い。
身体も細い。
年若い少年にしか見えない。
だから、誰も思わない。
この少年が、夜の闇へ紛れれば、別の顔を持つことなど。
投馬国には、王や将ですら知らぬ影がいる。
国へ伸びる脅威を見張り、その芽が大きくなる前に摘み取る。
時には、誰にも気づかれぬまま。
時には、存在そのものをなかったことにするように。
その一人が、チガヤだった。
もっとも。
本人は、それを誇っているわけではない。
国を守る使命。
王への忠誠。
仲間を守るため。
そんな大層なことを、考えたことすらない。
必要だから、やる。
命じられたから、やる。
ただ、それだけ。
その夜も、チガヤは闇の中にいた。
夜の宮は、眠りについている。
高殿の向こうには、薄雲に覆われた月。
その淡い光が、屋根の端や柱をぼんやりと浮かび上がらせている。
木々の梢を渡る風が、葉を擦る。
遠くで夜鳥が一声鳴いた。
その声も、すぐに闇へ溶けていく。
静かだった。
あまりにも静かで――
だからこそ。
小さな音さえ、異様なほど鮮明に響いた。
――ざり。
土を踏む音。
男が振り返った。
何かを察した、その瞬間。
月明かりの下で、銀の線が走った。
短刀が、男の腕を浅く裂く。
「――っ」
声が漏れかける。
だが。
その前に、チガヤの手が男の口を塞いだ。
刃に塗られていた痺れ毒が、すぐに効き始める。
男の身体から力が抜けた。
膝が折れる。
チガヤは倒れる身体を支えた。
最後まで静かに。
男は、糸を切られた人形のように、チガヤの腕の中で力を失った。
胸が、かすかに上下している。
生きている。
それで十分だった。
チガヤは無言で短刀を拭う。
月明かりの乏しい夜だが、その手は迷わない。
血はほとんど出ていなかった。
いつも通りだ。
男の懐へ手を差し入れ、木簡を取り出す。
目を通す。
戻す。
縄で手足を縛る。
終わり。
手順は変わらない。
感想もない。
尋問するのは別の役目だ。
チガヤの仕事は捕まえるところまで。
それ以上でも、それ以下でもない。
――もっとも。
最近は少し多い。
チガヤは男を見下ろした。
今月に入って、何人目だろう。
数える気にもならない。
荷に紛れて入りこんだ者。
商人を装っていた者。
旅人のふりをして宮の様子を探っていた者。
先日など、使者の従者にまで紛れ込んでいた。
何故増えているのか。
誰が背後にいるのか。
そこまで考えるのは、チガヤの仕事ではない。
その時だった。
――ざく。
落葉を踏む音。
チガヤの目が、すっと細くなる。
人の気配。
一人ではない。
二人。
足音の間隔。
重さ。
歩く速度。
そのすべてを、ほとんど無意識に読み取る。
チガヤは迷わなかった。
男の身体を抱え上げる。
そして一歩、木立の奥へ退いた。
もう一歩。
闇の濃い場所へ。
身体を木の幹へ寄せる。
息を止める。
気配を消す。
「……あー眠ぃ」
聞き慣れた声がした。
チガヤの眉が、ほんのわずかに動く。
「だから見回り中だって言ってるだろ」
もう一人が呆れたように返す。
アオバ。
モモジ。
見慣れた二人だった。
木立の向こうから、二人の姿が現れる。
アオバは槍を肩に担いでいる。
隣では、モモジが松明を掲げている。
橙色の炎が、夜風に煽られて揺れた。
そのたびに、二人の顔が明るくなったり、暗くなったりする。
「相変わらず何も起きねぇなあ」
「何も起きないのが一番だろうが」
「なんか腹減ってきた」
「緊張感のない奴だな。もっと集中しろよ」
「だって暇なんだから仕方ねぇだろ」
「だからって見回り中に寝るなよ」
「寝てねぇよ」
「さっき目、閉じてただろ」
「考え事してたんだよ」
「嘘つけ」
モモジが笑う。
アオバも呆れながら、口元をわずかに緩める。
その様子を、チガヤは木陰から黙って見ていた。
――暇?
チガヤの目が細くなる。
誰のせいで、自分が今月だけでも五人目を縛っていると思っているのか。
宮兵が「暇」でいられるのは、暇で済むように、誰かが夜の闇を這い回っているからだ。
――自分だ。
チガヤは小さく息を吐いた。
いっそ。
今、出ていって後ろから蹴り飛ばしてやろうか。
ほんの一瞬だけ。
本当に、ほんの少しだけ。
そんな考えが浮かんだ。
だが。
その時だった。
――ぐるるるる……
夜の静けさの中に、妙に低く、長い音が響いた。
「……」
モモジが足を止める。
アオバも立ち止まった。
「……今の音」
モモジは自分の腹を押さえながら、ゆっくり顔を上げる。
「ヒシンのいびきみてぇじゃなかったか?!」
「……は?」
アオバが呆れた顔を向ける。
だがモモジは、それどころではなかった。
「いや、マジで!」
興奮したように声を弾ませる。
「あの……こう……喉の奥から響いてくる、ぐるるる……ってやつ!」
「知らねぇよ」
「知ってるだろ!」
真剣な顔で、モモジが首を振る。
「同じだって! 今のは完全に同じ音色だったぞ!」
「意味が分からん」
「ほら、あいつ寝てる時、最初は静かなんだけどよ――」
モモジが声を低くする。
「……ぐるるるる……って鳴って」
さらに喉を震わせ、
「……んごっ」
「やめろ」
「それから――」
「やめろって」
アオバが小声で怒鳴る。
「……ふがっ! って」
「……」
アオバはしばらくモモジを見つめた。
そして。
「……ふっ」
堪えきれなかった。
「ははっ……!」
「ほら! やっぱ面白ぇだろ!」
アオバは肩を震わせながら笑う。
「お前が……お前が馬鹿すぎるんだよ……!」
二人の笑い声が、夜の宮に小さく響いた。
木陰に潜むチガヤは、無言のまま二人を見ていた。
――何をやってるんだ、こいつら。
そう思いながらも。
チガヤの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
不思議だった。
さっきまで張り詰めていた身体から、力が抜ける。
ほんのわずか。
それだけだった。
――知らなくていい。
そう思う。
アオバも。
モモジも。
他の宮兵たちも。
何も知らなくていい。
昼になれば、また訓練をする。
くだらない話をして。
腹を空かせて。
笑って。
夜になれば、安心して眠ればいい。
そのために、自分が闇の中にいる。
それでいい。
チガヤは、そう思った。
いや。
もしかすると。
そう思うことにしていた。
二人の声が遠ざかっていく。
やがて足音も聞こえなくなった。
チガヤは木陰から出る。
地面に横たわっていた男を、肩へ担ぎ上げる。
ずしり、と重い。
小柄な身体には、不釣り合いな重さだった。
それでも。
チガヤの足は止まらない。
一歩。
二歩。
夜の草を踏み分ける。
月が雲の向こうへ隠れた。
闇が、いっそう濃くなる。
その闇の中へ。
少年の姿が、ゆっくりと溶けていく。
やがて。
何も見えなくなった。
風だけが木々を揺らしている。
葉の擦れる音が、かすかに響く。
投馬の宮は。
何事もなかったかのように、静かな夜を取り戻していた。
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