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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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静かな決着

伊都国へ帰る志摩。

その出発を前に、アサと最後の言葉を交わします。



 夕刻《ゆうこく》の光《ひかり》が、廊《ろう》に静《しず》かに滲《にじ》んでいた。


 傾《かたむ》きはじめた陽《ひ》は長《なが》い影《かげ》を引《ひ》き、柱《はしら》の輪郭《りんかく》を淡《あわ》く金《きん》に縁取《ふちど》っている。



 明日《あす》には、この地《ち》を発《た》つ。


 伊都国《いとこく》へ帰《かえ》るための準備《じゅんび》はすでに整《ととの》っている。


 それなのに、志摩《しま》の足取《あしど》りはどこか重《おも》かった。



 ひとつ息《いき》を吐《は》く。


「……まったく」


 呟《つぶや》きが、廊下《ろうか》の空気《くうき》に溶《と》ける。


 思《おも》い出《だ》すのは、ミナギの前《まえ》で気丈《きじょう》に宣言《せんげん》した自分《じぶん》の言葉《ことば》。



『婚姻関係《こんいんかんけい》を解消《かいしょう》いたしましょう』



『たとえ政《まつりごと》の縁《えにし》で結《むす》ばれたとしても……わたくしは、妻《つま》であるわたくしを一番《いちばん》に想《おも》ってくださる殿方《とのがた》が良《よ》いのですわ』




 志摩《しま》は誇《ほこ》り高《たか》い。


 だからこそ、自分《じぶん》の決断《けつだん》を後悔《こうかい》するようなことはしない。


 それでもなお。


 胸《むね》の奥《おく》に残《のこ》るのは、理屈《りくつ》では説明《せつめい》できない空洞《くうどう》だった。



 志摩《しま》は歩《あゆ》みを止《と》める。


 長《なが》い影《かげ》の中《なか》で、もう一度《いちど》だけ小《ちい》さく息《いき》を吐《は》いた。


「……あの御方《おかた》は」


 静《しず》かな声《こえ》が、わずかに空《そら》を仰《あお》ぐ。


 妙《みょう》にあっさりしたミナギを思《おも》い出《だ》す。


 引《ひ》き留《と》めるでもなく。


 縋《すが》るでもなく。


 ただ事実《じじつ》として受《う》け入《い》れたミナギの態度《たいど》。


(そういうところが、腹立《はらだ》たしいのよ)


 志摩《しま》の唇《くちびる》が、わずかに歪《ゆが》む。


 少《すこ》しでも、こちらに気持《きも》ちを残《のこ》すような――そんな隙《すき》を期待《きたい》していた。


 だが実際《じっさい》は違《ちが》った。


 迷《まよ》いがなかったのは、自分《じぶん》の宣言《せんげん》だけではない。


 ミナギもまた、何《なに》ひとつ取り乱《みだ》すことなく、静《しず》かに身《み》を引《ひ》いた。


 

 志摩《しま》は、ミナギの距離《きょり》の内側《うちがわ》に一歩《いっぽ》も踏《ふ》み込《こ》めなかった自分《じぶん》を、静《しず》かに噛《か》みしめる。


 あの柔《やわ》らかな笑《え》みも。


 理性的《りせいてき》な受《う》け止《と》めも。


 引《ひ》き際《ぎわ》のあっさりとした潔《いさぎよ》さも。


 すべてが均(・)衡(・)の(・)中(・)の(・)ミ(・)ナ(・)ギ(・)だった。


(崩《くず》せなかった)


 その事実《じじつ》だけが、あとから遅《おく》れて胸《むね》に沈《しず》む。


「少《すこ》しくらい……引《ひ》き留《と》めてくださってもいいのに……」


 低《ひく》くこぼれた声《こえ》には、苛立《いらだ》ちと未練《みれん》が混《ま》ざっていた。


「……本当《ほんとう》に、ずるい方《かた》」


 夕陽《ゆうひ》に溶《と》けるように、そう呟《つぶや》いて。


 志摩《しま》はもう一度《いちど》だけ、小《ちい》さくため息《いき》を落《お》とすと、再《ふたた》び歩《ある》き出《だ》す。


 だが足取《あしど》りは、先《さき》ほどよりわずかに乱《みだ》れていた。


 まだ完全《かんぜん》には切《き》れていない想《おも》いが、静《しず》かに尾《お》を引《ひ》いている。



 ふと、足《あし》を止《と》める。


 その先《さき》から歩《ある》いてくる人影《ひとかげ》に気《き》づいたからだった。


 ――アサだった。


 一瞬《いっしゅん》、視線《しせん》が交《まじ》わる。


 空気《くうき》がわずかに止《と》まり、互《たが》いの存在《そんざい》だけが輪郭《りんかく》を持《も》つ。


「……あら」


 志摩《しま》が先《さき》に口《くち》を開《ひら》く。


 声音《こわね》は変《か》わらない。


 絹《きぬ》を滑《すべ》らせたように柔《やわ》らかく、しかしその奥《おく》には、寸分《すんぶん》の隙《すき》も許《ゆる》さぬ冷《つめ》たい観察《かんさつ》が宿《やど》っている。


 アサは一瞬《いっしゅん》だけ目《め》を瞬《またた》かせると、すぐに姿勢《しせい》を正《ただ》した。


「志摩様《しまさま》」


 丁寧《ていねい》な一礼《いちれい》。


 その所作《しょさ》は変《か》わらず端正《たんせい》で、しかし以前《いぜん》よりわずかに硬《かた》さを帯《お》びている。


 志摩《しま》はゆっくりと視線《しせん》を落《お》とし、アサの全身《ぜんしん》を一度《いちど》なぞるように見《み》た。



「――あなたの舞《まい》、見事《みごと》だったわ」


 細《ほそ》められた瞳《ひとみ》が、静《しず》かに評価《ひょうか》を刻《きざ》む。


「おとなしく見《み》えて、案外《あんがい》、肝《きも》が据《す》わっているのね」


 アサは両手《りょうて》を胸元《むなもと》でわずかに振《ふ》り、困《こま》ったように首《くび》をすくめた。


「そ、そのような……身《み》に余《あま》るお言葉《ことば》にございます」


 頬《ほお》にはうっすらと朱《あか》が差《さ》し、指先《ゆびさき》が衣《ころも》の端《はし》を落《お》ち着《つ》かなくつまむ。


 褒《ほ》め言葉《ことば》を真正面《ましょうめん》から受《う》け止《と》めきれず、そっと逃《に》がしてしまうような、控《ひか》えめな照《て》れ。


 志摩《しま》はその様子《ようす》を見《み》て、わずかに目《め》を細《ほそ》めた。


 アサの様子《ようす》を見《み》た瞬間《しゅんかん》。


 志摩《しま》の胸《むね》の奥《おく》に、説明《せつめい》のつかない熱《ねつ》がひとつ落《お》ちた。


 守《まも》られているようで、無防備《むぼうび》で。


 触《ふ》れれば簡単《かんたん》に形《かたち》が崩《くず》れてしまいそうな危《あや》うさ。


 ――加虐心《かぎゃくしん》が、静《しず》かに沸《わ》き起《お》こる。



 ふと視線《しせん》を横《よこ》へ流《なが》す。


「私《わたし》は明日《あす》、国《くに》へ帰《かえ》るわ」


 言葉《ことば》は淡々(たんたん)としている。


 しかし。


「……でもまだ、あの御方《おかた》を完全《かんぜん》に諦《あきら》めたわけではない――」


 志摩《しま》はそこで、初《はじ》めて刃《やいば》のような本音《ほんね》を混《ま》ぜた。


「と、言《い》ったらどうする?」


 本心《ほんしん》のすべてではない。


 ただ、簡単《かんたん》に諦《あきら》めたと思《おも》われるのも癪《しゃく》だった。


 その曖昧《あいまい》さを、志摩《しま》はよく分《わ》かっていた。


 あるいは、ほんの軽《かる》い意趣返《いしゅがえ》し。



 空気《くうき》が、ほんのわずかに張《は》る。


 アサは、すぐには返《かえ》さなかった。


 夕陽《ゆうひ》が睫毛《まつげ》の影《かげ》を頬《ほお》へ落《お》とし、沈黙《ちんもく》だけが一瞬《いっしゅん》、厚《あつ》みを増《ま》す。


 やがて、ゆっくりと顔《かお》を上《あ》げた。


「……人《ひと》の心《こころ》の在《あ》り方《かた》や行《ゆ》く先《さき》までは、私《わたし》には、どうにもできません」


 柔《やわ》らかい声音《こわね》。


「ただ――」


 その表情《ひょうじょう》には、揺《ゆ》れはなかった。


「私《わたし》は、ミナギ様《さま》のお心《こころ》の在《あ》り方《かた》を、そのまま大事《だいじ》にしたいと思《おも》っております」


 その一言《ひとこと》は、まっすぐだった。


 静《しず》かに揺《ゆ》るがない確信《かくしん》のかたち。


 どこか余裕《よゆう》さえ感《かん》じられるその面持《おもも》ちに、志摩《しま》の瞳《ひとみ》が、わずかに揺《ゆ》らぐ。


「――ですから」


 穏《おだ》やかに言葉《ことば》を続《つづ》ける。


「そのことは、私《わたし》の手《て》の外《そと》にございます」



 沈黙《ちんもく》。


 廊下《ろうか》の空気《くうき》が、完全《かんぜん》に止《と》まる。


 志摩《しま》は思《おも》わず、まじまじとアサを見据《みす》える。


 先《さき》ほどまで抱《いだ》いていた、控《ひか》えめで従順《じゅうじゅん》な少女《しょうじょ》の像《ぞう》が崩《くず》れる。


 視線《しせん》を外《はず》せない。


 アサの瞳《ひとみ》は澄《す》んでいる。


 鋭利《えいり》な刃《やいば》のような圧《あつ》でもなく、相手《あいて》を絡《から》め取《と》るような妖《あや》しさでもない。


 ただ、真《ま》っ直《す》ぐな瞳《ひとみ》。


 濁《にご》りがない。


 怯《おび》えがない。



 志摩《しま》は、ほんの一瞬《いっしゅん》だけ息《いき》を忘《わす》れる。


(……この目《め》)



 ミナギが伏《ふ》した時《とき》。


 息《いき》も細《ほそ》く、熱《ねつ》に浮《う》かされ、意識《いしき》の境界《きょうかい》すら曖昧《あいまい》になっていたあの瞬間《しゅんかん》。


 自分《じぶん》は、そこにいただけだった。


 声《こえ》をかけることはできた。


 手《て》を握《にぎ》ることもできた。


 だが、それ以上《いじょう》は何《なに》ひとつ、届《とど》かなかった。


 志摩《しま》は、ゆっくりと目《め》を伏《ふ》せる。


(結局《けっきょく》、私《わたし》は)


 何《なん》の役《やく》にも立《た》たなかった。


 状況《じょうきょう》を動《うご》かしたのは、自分《じぶん》ではない。


 あの場《ば》で、ためらいなく動《うご》き、迷《まよ》いなく踏《ふ》み込《こ》んだのは、


 ――アサだった。


 ミナギの命《いのち》を繋《つな》いだのは、この少女《しょうじょ》だった。


 強《つよ》く澄《す》んだ、この瞳《ひとみ》で。



 唇《くちびる》が、わずかに歪《ゆが》む。


(……最初《さいしょ》から)


 志摩《しま》は、ゆっくりと目《め》を閉《と》じる。


(勝負《しょうぶ》にすら、なっていなかったのね)


 胸《むね》の奥《おく》に、冷《つめ》たいものが落《お》ちる。


 悔《くや》しさでもない。


 怒《いか》りでもない。


 もっと静《しず》かで、もっと厄介《やっかい》な感情《かんじょう》。


 認《みと》めざるを得《え》ないという感覚《かんかく》だった。


 ただ、喉《のど》の奥《おく》で小《ちい》さく笑《わら》う。


 乾《かわ》いた、自嘲《じちょう》のような笑《わら》い。



 夕陽《ゆうひ》を受《う》けたアサの瞳《ひとみ》は、光《ひかり》を返《かえ》すように静《しず》かに澄《す》んでいる。


 その透明《とうめい》さが、腹立《はらだ》たしいほどに眩《まぶ》しい。


(……ほんと、嫌《いや》になるわね)


 志摩《しま》はゆっくりと呼吸《こきゅう》を整《ととの》え、わずかに顎《あご》を引《ひ》いた。


 胸《むね》の奥《おく》に残《のこ》っていた微細《びさい》なざらつきは、すでに表層《ひょうそう》からは消《き》えている。


 姿勢《しせい》を正《ただ》す。


 感情《かんじょう》の余韻《よいん》を、そっと畳《たた》むようにして奥《おく》へと収《おさ》める。


 そして、穏《おだ》やかな声音《こわね》で口《くち》を開《ひら》いた。


「アサ」


 呼《よ》びかけに、アサが静《しず》かに顔《かお》を上《あ》げる。


 志摩《しま》はその瞳《ひとみ》を一瞬《いっしゅん》だけ見《み》つめ、わずかに目《め》を細《ほそ》めたあと、柔《やわ》らかく言葉《ことば》を続《つづ》けた。


「またいつか、会《あ》いましょう」


 それは別《わか》れの挨拶《あいさつ》でありながら、完全《かんぜん》な終止符《しゅうしふ》ではない。


「そのときまで、お互《たが》いに無事《ぶじ》でいられたらいいわね」


 冗談《じょうだん》めかした調子《ちょうし》を帯《お》びながらも、その実《じつ》、時代《じだい》の不確《ふたし》かさを知《し》る者《もの》の現実感《げんじつかん》が滲《にじ》んでいる。


 戦《いくさ》も。


 政《まつりごと》も。


 境《さかい》も。


 すべてが揺《ゆ》らぐ時代《じだい》。


 再(・)会(・)という言葉《ことば》が、約束《やくそく》ではなく願《ねが》いに近《ちか》いことを、互《たが》いに理解《りかい》していた。


 アサは一瞬《いっしゅん》だけ瞬《まばた》きをし、微笑《ほほえ》んだ。


「……はい」


 そして静《しず》かに頭《あたま》を下《さ》げる。


「志摩様《しまさま》も、どうかお元気《げんき》で」


 丁寧《ていねい》で、揺《ゆ》らぎのない返答《へんとう》。


 志摩《しま》はそれを受《う》け取《と》り、小《ちい》さく頷《うなず》いた。


 そして、静《しず》かに踵《きびす》を返《かえ》す。


 夕陽《ゆうひ》の名残《なごり》が、その背《せ》を淡《あわ》く染《そ》める。


 一度《いちど》も振《ふ》り返《かえ》らないまま、志摩《しま》は廊下《ろうか》の奥《おく》へと消《き》えていく。


 その歩《あゆ》みは先《さき》ほどよりも静《しず》かで、しかし、わずかな軽《かる》さを含《ふく》んでいた。





 Xはこちら

 https://x.com/sugarpine144292


 世界観や詳細設定などはこちら 

 https://kakuyomu.jp/users/deub1wfdsil8oeo2h0c0wsmle/news


 オリジナル曲など

 https://youtube.com/@cobacoba6499?si=K9SayXLng5BD4vAZ


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