静かな決着
伊都国へ帰る志摩。
その出発を前に、アサと最後の言葉を交わします。
夕刻の光が、廊に静かに滲んでいた。
傾きはじめた陽は長い影を引き、柱の輪郭を淡く金に縁取っている。
明日には、この地を発つ。
伊都国へ帰るための準備はすでに整っている。
それなのに、志摩の足取りはどこか重かった。
ひとつ息を吐く。
「……まったく」
呟きが、廊下の空気に溶ける。
思い出すのは、ミナギの前で気丈に宣言した自分の言葉。
『婚姻関係を解消いたしましょう』
『たとえ政の縁で結ばれたとしても……わたくしは、妻であるわたくしを一番に想ってくださる殿方が良いのですわ』
志摩は誇り高い。
だからこそ、自分の決断を後悔するようなことはしない。
それでもなお。
胸の奥に残るのは、理屈では説明できない空洞だった。
志摩は歩みを止める。
長い影の中で、もう一度だけ小さく息を吐いた。
「……あの御方は」
静かな声が、わずかに空を仰ぐ。
妙にあっさりしたミナギを思い出す。
引き留めるでもなく。
縋るでもなく。
ただ事実として受け入れたミナギの態度。
(そういうところが、腹立たしいのよ)
志摩の唇が、わずかに歪む。
少しでも、こちらに気持ちを残すような――そんな隙を期待していた。
だが実際は違った。
迷いがなかったのは、自分の宣言だけではない。
ミナギもまた、何ひとつ取り乱すことなく、静かに身を引いた。
志摩は、ミナギの距離の内側に一歩も踏み込めなかった自分を、静かに噛みしめる。
あの柔らかな笑みも。
理性的な受け止めも。
引き際のあっさりとした潔さも。
すべてが均衡の中のミナギだった。
(崩せなかった)
その事実だけが、あとから遅れて胸に沈む。
「少しくらい……引き留めてくださってもいいのに……」
低くこぼれた声には、苛立ちと未練が混ざっていた。
「……本当に、ずるい方」
夕陽に溶けるように、そう呟いて。
志摩はもう一度だけ、小さくため息を落とすと、再び歩き出す。
だが足取りは、先ほどよりわずかに乱れていた。
まだ完全には切れていない想いが、静かに尾を引いている。
ふと、足を止める。
その先から歩いてくる人影に気づいたからだった。
――アサだった。
一瞬、視線が交わる。
空気がわずかに止まり、互いの存在だけが輪郭を持つ。
「……あら」
志摩が先に口を開く。
声音は変わらない。
絹を滑らせたように柔らかく、しかしその奥には、寸分の隙も許さぬ冷たい観察が宿っている。
アサは一瞬だけ目を瞬かせると、すぐに姿勢を正した。
「志摩様」
丁寧な一礼。
その所作は変わらず端正で、しかし以前よりわずかに硬さを帯びている。
志摩はゆっくりと視線を落とし、アサの全身を一度なぞるように見た。
「――あなたの舞、見事だったわ」
細められた瞳が、静かに評価を刻む。
「おとなしく見えて、案外、肝が据わっているのね」
アサは両手を胸元でわずかに振り、困ったように首をすくめた。
「そ、そのような……身に余るお言葉にございます」
頬にはうっすらと朱が差し、指先が衣の端を落ち着かなくつまむ。
褒め言葉を真正面から受け止めきれず、そっと逃がしてしまうような、控えめな照れ。
志摩はその様子を見て、わずかに目を細めた。
アサの様子を見た瞬間。
志摩の胸の奥に、説明のつかない熱がひとつ落ちた。
守られているようで、無防備で。
触れれば簡単に形が崩れてしまいそうな危うさ。
――加虐心が、静かに沸き起こる。
ふと視線を横へ流す。
「私は明日、国へ帰るわ」
言葉は淡々としている。
しかし。
「……でもまだ、あの御方を完全に諦めたわけではない――」
志摩はそこで、初めて刃のような本音を混ぜた。
「と、言ったらどうする?」
本心のすべてではない。
ただ、簡単に諦めたと思われるのも癪だった。
その曖昧さを、志摩はよく分かっていた。
あるいは、ほんの軽い意趣返し。
空気が、ほんのわずかに張る。
アサは、すぐには返さなかった。
夕陽が睫毛の影を頬へ落とし、沈黙だけが一瞬、厚みを増す。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……人の心の在り方や行く先までは、私には、どうにもできません」
柔らかい声音。
「ただ――」
その表情には、揺れはなかった。
「私は、ミナギ様のお心の在り方を、そのまま大事にしたいと思っております」
その一言は、まっすぐだった。
静かに揺るがない確信のかたち。
どこか余裕さえ感じられるその面持ちに、志摩の瞳が、わずかに揺らぐ。
「――ですから」
穏やかに言葉を続ける。
「そのことは、私の手の外にございます」
沈黙。
廊下の空気が、完全に止まる。
志摩は思わず、まじまじとアサを見据える。
先ほどまで抱いていた、控えめで従順な少女の像が崩れる。
視線を外せない。
アサの瞳は澄んでいる。
鋭利な刃のような圧でもなく、相手を絡め取るような妖しさでもない。
ただ、真っ直ぐな瞳。
濁りがない。
怯えがない。
志摩は、ほんの一瞬だけ息を忘れる。
(……この目)
ミナギが伏した時。
息も細く、熱に浮かされ、意識の境界すら曖昧になっていたあの瞬間。
自分は、そこにいただけだった。
声をかけることはできた。
手を握ることもできた。
だが、それ以上は何ひとつ、届かなかった。
志摩は、ゆっくりと目を伏せる。
(結局、私は)
何の役にも立たなかった。
状況を動かしたのは、自分ではない。
あの場で、ためらいなく動き、迷いなく踏み込んだのは、
――アサだった。
ミナギの命を繋いだのは、この少女だった。
強く澄んだ、この瞳で。
唇が、わずかに歪む。
(……最初から)
志摩は、ゆっくりと目を閉じる。
(勝負にすら、なっていなかったのね)
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
悔しさでもない。
怒りでもない。
もっと静かで、もっと厄介な感情。
認めざるを得ないという感覚だった。
ただ、喉の奥で小さく笑う。
乾いた、自嘲のような笑い。
夕陽を受けたアサの瞳は、光を返すように静かに澄んでいる。
その透明さが、腹立たしいほどに眩しい。
(……ほんと、嫌になるわね)
志摩はゆっくりと呼吸を整え、わずかに顎を引いた。
胸の奥に残っていた微細なざらつきは、すでに表層からは消えている。
姿勢を正す。
感情の余韻を、そっと畳むようにして奥へと収める。
そして、穏やかな声音で口を開いた。
「アサ」
呼びかけに、アサが静かに顔を上げる。
志摩はその瞳を一瞬だけ見つめ、わずかに目を細めたあと、柔らかく言葉を続けた。
「またいつか、会いましょう」
それは別れの挨拶でありながら、完全な終止符ではない。
「そのときまで、お互いに無事でいられたらいいわね」
冗談めかした調子を帯びながらも、その実、時代の不確かさを知る者の現実感が滲んでいる。
戦も。
政も。
境も。
すべてが揺らぐ時代。
再会という言葉が、約束ではなく願いに近いことを、互いに理解していた。
アサは一瞬だけ瞬きをし、微笑んだ。
「……はい」
そして静かに頭を下げる。
「志摩様も、どうかお元気で」
丁寧で、揺らぎのない返答。
志摩はそれを受け取り、小さく頷いた。
そして、静かに踵を返す。
夕陽の名残が、その背を淡く染める。
一度も振り返らないまま、志摩は廊下の奥へと消えていく。
その歩みは先ほどよりも静かで、しかし、わずかな軽さを含んでいた。
Xはこちら
https://x.com/sugarpine144292
世界観や詳細設定などはこちら
https://kakuyomu.jp/users/deub1wfdsil8oeo2h0c0wsmle/news
オリジナル曲など
https://youtube.com/@cobacoba6499?si=K9SayXLng5BD4vAZ




