静謐なる軋轢
投馬の宮の奥――
灯火がひとつ、低く息づくように揺れている。
ミナギは、座したまま動かなかった。
呼び出したわけではない。
それでも――来る。
そう分かっていた。
衣擦れの音が、ひとつ。
タヅマが、音を立てずに膝をつく。
しばらく、二人の間に言葉はなかった。
沈黙だけが、静かに流れる。
やがて――
「……殿」
先に口を開いたのは、タヅマだった。
ミナギの視線が、わずかに上がる。
「ひとつ、申し上げておくべきことがございます」
声は、いつもと変わらない。
だが、その奥には、わずかな緊張があった。
タヅマは一度、ゆっくり息を整える。
そして――
「耶馬台国へ、文を出しました」
静かに告げた。
灯が、かすかに揺らめく。
「アサ殿への助力を仰ぐため――日神呼様へ」
ミナギは、しばらく何も言わなかった。
やがて視線を落とす。
「なるほど」
低く、腑に落ちた声。
「道理で、事が運びすぎる」
「……勝手なことをいたしました」
タヅマは深く頭を下げた。
「結果として、アサ殿の存在を――外へ知らせることになりました」
言い訳はしない。
自分のしたこととして、まっすぐに受け止めている。
「――いや」
ミナギの声が、静けさを破った。
「構わん」
タヅマが、わずかに顔を上げる。
ミナギは、真っ直ぐ前を見ていた。
「日神呼様の力添えがなければ――」
そこで、ほんの少し言葉が止まる。
胸の奥に、あの時の感覚が蘇った。
身体の内側から崩れていくような感覚。
「俺もアサも……今ここには、いないだろう」
迷いのない声だった。
タヅマは、ゆっくりと頭を下げる。
「……恐れながら」
声が、少し低くなる。
「その見込みに、賭しました」
ミナギの目が、わずかに細まる。
タヅマの言葉の先を、静かに読もうとしている。
「――だが」
やがて、ミナギが口を開いた。
「耶馬台が動けば、もう後には戻れん」
先ほどまでの静かな納得は消えていた。
声の底に、固い緊張が生まれている。
投馬と耶馬台は、代々、盟を結んできた。
祭祀と交易を通じて互いを支え、大きな災いには力を貸し合う。
その盟約は、両国の礎でもあった。
だからこそ、正式な使者を拒むことはできない。
「……日神呼様は、アサを連れて行く気だろうか」
ミナギは、わずかに目を伏せた。
「その可能性は、高いかと」
タヅマは否定しなかった。
むしろ、それを当然のこととして考えているようだった。
「――あの一件以来」
言葉を選びながら、淡々と続ける。
「アサ殿に対する宮中の評価は、著しく変化いたしました」
ミナギの視線が、わずかに上がる。
「信奉、と申してもよろしいかと」
タヅマは続けた。
「侍女も、兵も、宮に仕える者たちも――」
タヅマは、少し声を落とした。
「口に出さぬ者まで、同じように思い始めております」
そして。
「……あの娘こそ、と思う空気が、確かに広がっております」
ミナギは何も言わない。
ただ、部屋の空気が少し重くなった。
「ゆえに――」
タヅマは、さらに続ける。
「アサ殿を后に、という声も日を追うごとに増えております」
その瞬間。
ミナギの動きが止まった。
完全な静止だった。
――后に。
その言葉だけが、遅れて胸の奥へ落ちてくる。
「……耶馬台国がアサ殿を連れて行こうとすれば」
タヅマは顔を上げず、淡々と続ける。
「宮中の反発も、相応に生じましょうな」
ミナギは、わずかに眉を寄せた。
周りがアサを押し上げる。
手放すまいとする。
――本人の知らないところで。
そのことが、妙に心に引っかかった。
「……本人は、何も分かっていないだろうにな」
思い浮かぶのは、あの無防備な顔。
ほんの一瞬。
ミナギの口元が、わずかに緩んだ。
だが、それもすぐに消える。
小さく咳払いをひとつ。
自分の気持ちを隠すように、空気を戻した。
「……いずれにせよ」
声が、いつもの落ち着いたものに戻る。
「内がどう動こうと、向こうが引くことはない」
タヅマが、わずかに頷く。
「はい」
「むしろ――」
ミナギの目が、細くなる。
「価値があると見れば、なおさら来る」
灯火が、大きく揺れた。
タヅマは静かに頷く。
「はい。耶馬台にとって見出したものは、もはや交渉の外にございます」
少し間を置く。
「理ではなく――選別に近い」
タヅマは続けた。
「しかも、此度はこちらから文を出しております」
その意味は明らかだった。
――扉を開けたのは、こちらだ。
ミナギは、ゆっくり息を吐いた。
胸の奥に溜まっていたものを、少しずつ外へ出すように。
「……迎え入れるしかない、か」
独り言のように呟く。
「「どちらにせよ――耶馬台と事を構えるつもりはない」
静かな決意だった。
「ここで拒めば、無用な軋轢を生む」
少し間を置く。
「向こうが見に来るなら、見せてやればいい」
声は静かだった。
だが、その奥には、はっきりとした考えがある。
「こちらの場で、こちらのやり方でな」
主導権は渡さない。
言葉にしなくても、それは伝わった。
「そのように整えます」
タヅマは静かに頭を下げた。
ひとつ息を整え、ミナギは瞼を伏せる。
そして――ゆっくりと開いた。
(……来るなら来い)
その目は、深く澄んでいた。
退かない。
目を逸らさない。
だが――
譲りもしない。
灯は、揺れながらも消えなかった。
ただ静かに、二人の姿を照らし続けていた。
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