日神呼の影
――耶馬台国。
祈りと祭祀が積み重なり、目に見えない気配が満ちている場所。
そこにいるのは、大巫女にして女王。
人では届かない場所へ踏み込んだ者。
呪いそのものだとさえ呼ばれる存在。
――日神呼。
その名は、噂だけでも異様だった。
命も魂も見通す。
祈りで天を動かし、呪いで地を縛る。
そんな話まで囁かれている。
理屈では測れない。
そう思わせる何かがあった。
その時、不意に――
記憶が閃いた。
暗く沈んだ意識の底。
ミナギの中に巣食う「闇」と向き合った、あの時。
引きずり込まれ、沈みかけた瞬間。
耳に響いた声。
――老女の声だった。
かすれているのに、不思議なほど澄んでいた。
黄金に輝く鳥。
闇を裂くように羽ばたき、光を撒き散らしていた存在。
あれは夢だったのか。
それとも――
(……まさか)
アサの喉が、わずかに鳴った。
ミナギは黙ったまま兵の報告を聞き終えると、ゆっくり視線を上げた。
「……耶馬台からの使者――」
低く押し殺した声。
そこにあったのは驚きではない。
使者の来意を見極めようとする、王としての慎重さだった。
(何を伝えに来る)
(それとも、何かを確かめに来るのか)
一瞬、思考が沈む。
「ただの使いではあるまい」
低い声には、確信があった。
耶馬台国は盟国だ。
古くから祭祀と盟約で結ばれ、互いに刃を向けることはない。
だからこそ、正式な使節を無下にすることはできない。
まして相手は、日神呼自らの使者。
その重みは、どの国の王よりも大きい。
ふと、その視線が横へ流れる。
向けられた先は、アサだった。
(……狙いは、アサか)
ミナギの胸の奥に、鈍い重みが落ちる。
ゆっくりと息を吐いた。
アサの中にあるもの。
その気配を初めて感じ取った時から、心のどこかで分かっていた。
(いずれ――誰かが気付く)
そう思ったのは、一度ではない。
だからこそ、できるなら隠しておきたかった。
遠ざけ、必要以上に表へ出さないように。
だが。
(よりにもよって、耶馬台か)
力を求める者は他にもいる。
しかし耶馬台は違う。
あの国は、一度「視た」ものを見過ごさない。
神の気配を宿す者を、そのまま放っておく国ではない。
その事実が、静かに腹の底を冷やしていく。
(手放す気など、ない)
その思いだけは、はっきりしていた。
だが同時に、別の考えも浮かぶ。
(守りきれるのか)
(この先も、俺の手の内に置いたままで)
視線は、なおアサから外れない。
その奥には、整理しきれない迷いがあった。
自分が何か大きなものの中心へ置かれようとしている。
アサは、その空気をまだ理解できずにいた。
冷や汗を浮かべながら、ただミナギの視線の意味を探る。
耶馬台という名の重さも。
今、何が動き始めているのかも。
まだ、はっきりとした形にはなっていなかった。




