いつもの距離
「……あの」
思わず声が漏れる。
その瞬間、ミナギの指先がぴくりと動く。
アサは、何を聞きたいのか、自分でも分からないまま、視線を彷徨わせる。
「志摩様との婚姻の話……」
遠慮がちにこぼれたその声は、静かな室内にそっと響いた。
「なくなったって……」
言葉を選びながら、恐る恐るミナギを見つめる。
「……どうして?」
問いは細く、震えていた。
「ああ」
対するミナギは、あまりにもあっさりと頷く。
「振られたんだ」
さらり、と。
まるで他人事のような調子で言い切った。
アサは、しばし言葉を失った。
目を丸くし、そのまま固まる。
「俺はどうやら、志摩殿の好みの男ではなかったらしい」
アサは思わず首を振る。
(いや……まさか、そんなはず……)
脳裏に浮かぶ。
(あの瞳は……)
志摩の、ミナギを見つめる熱を帯びた視線。
(どう見ても……)
胸の内で否定が渦巻く。
ミナギはどこか、遠くを見るような目をしている。
その表情が、何だか――
「……平気?」
思わず口をついて出た言葉だった。
ミナギは一瞬だけ、きょとんと目を瞬かせた。
思いもよらない言葉だったのだろう。
わずかに肩の力が抜け、張りつめていた空気が静かにほどけていく。
そして、ふっと笑った。
「……そう見えるか?」
静かな声。
アサは答えられず、ただミナギを見つめる。
ミナギは視線を落とした。
「俺には……志摩殿を迎える覚悟が、足りなかったのだと思う」
ぽつり、と。
「政のために結ばれた縁であったとしても、彼女は俺の后となる道を、受け入れてくれていた」
「それなのに俺は……」
言葉を探すように、わずかに間を置いた。
「……俺が、もっと早く己の心と向き合えていればよかったのだろうな」
ミナギは、静かに息を吐いた。
「彼女は聡い人だ」
「俺の迷いを……俺自身より先に見抜いていたのだろう」
ミナギは、どこか寂しげに笑った。
その笑みには、自身の未熟さを受け入れるかのような、静かな寂しさが滲んでいた。
アサは何も言えずにいた。
どうすればいいのか、分からない。
ミナギが欲しい言葉を、自分は持っていない。
ただ――
この寂しそうな顔を、少しでも和らげたい。
そう思った。
迷った末、アサはおずおずと手を伸ばす。
そして――
ミナギの頭を、小さな子をあやすように、ぎこちなく撫でた。
一瞬の静寂。
次の瞬間――
「……っ、はは」
ミナギが吹き出した。
心の底から込み上げてきた可笑しさ、そのままの笑いだった。
「はは……っ、なんだそれは……」
言葉の途中でまた笑いが混じる。
目尻が緩み、普段は鋭さを帯びる眼差しも、今は完全にほどけている。
くつくつと、何度も波のように笑いが返ってくる。
「……俺にこんなことができるのは、お前くらいだな」
そう言って、ミナギはアサを見る。
その瞳にはまだ笑いの余韻が揺れているが、同時に、どこか柔らかくほどけた温度が宿っていた。
その顔は、いつもの彼そのものだった。
「……いつものミナギだ……」
ぽつり、とアサがこぼす。
安堵の滲んだ声音。
「え……?」
ミナギがわずかに首を傾げる。
「あ、いや、その……最近は……ずっと……」
言いかけて、アサは口ごもる。
脳裏に浮かぶのは、ここしばらくのミナギの姿。
どこか距離を置くような、冷たい眼差し。
その記憶が胸を締めつける。
「ちょっと……寂しかった、です」
消え入りそうな声。
ミナギの表情が、わずかに曇る。
「……」
一瞬、言葉を探すように沈黙し――
やがて、ゆっくりと視線を落とした。
「……お前を見ていると、決心が揺らぎそうだったものでな」
低く、静かな声。
「俺の勝手で傷つけた……すまない」
素直な謝罪だった。
アサは目を瞬かせる。
「決心が……それは――」
問いかける声は、先ほどよりもわずかに強い。
「どうして……?」
ミナギは顔を上げる。
「……さあ」
その瞳に、わずかな熱を宿して――
「どうしてだと思う?」
含みを持たせた声音。
アサの心臓が跳ねる。
視線を逸らせない。
逃げ場のない距離。
頬がみるみるうちに赤くなる。
「……っ」
言葉が出ない。
ただ、鼓動だけがうるさく響く。
再び、空気が甘く沈む――その瞬間。
「――失礼いたします!!」
荒い息をついた伝令の宮仕え兵が、勢いよく室内に飛び込んでくる。
張り詰めていた空気が、一気に断ち切られた。
ミナギは小さく息を吐き、わずかに肩をすくめる。
アサは、はっと我に返り、慌てて姿勢を正した。
乱れかけた呼吸を押し殺しながら、兵の顔を見る。
「――何事だ」
ミナギの声は、すでにいつもの調子へと戻っていた。
低く、揺るぎない。
兵は頭を垂れ、息を整える間も惜しむように告げる。
「はっ……耶馬台国より伝令にございます。近く、使者がこの地へ訪れるとのこと――」




