揺らぐ心
――消えた。
あの婚姻が。
あれほど重く、揺るがないものだと思っていた決定が。
あっけなく。
(……どうして)
理由が分からない。
だが。
胸の奥で、何かがわずかに浮き上がる。
押し込めていたはずのもの。
諦めたはずのもの。
――期待。
それが、ほんの微かに顔を出す。
だめだ、と。
すぐに思う。
(……違う)
これは、そういう話じゃない。
自分は関係ない。
きっと、国の都合。
別の思惑。
そう、分かっているのに。
それでも。
ほんの少しだけ。
もしかしたらという考えが、消えてくれない。
ミツは、にやにやとこちらを覗き込む。
「なに、その顔」
面白がるように。
「やっぱり気になるんじゃないの?」
「ち、ちが……」
反射的に否定する。
だが、その言葉は弱い。
――やめて。
言いかけて、声にならない。
胸の奥が、ひどく騒がしい。
喜んではいけない。
期待してはいけない。
分かっているのに。
アサはぎゅっと唇を噛みしめた。
揺れる。
覚悟を決めたはずの心が。
ほんの一言で、こんなにも簡単に。
――揺らされてしまう。
ミツはくすくすと笑いながら、まだ何か言いたげにこちらを覗き込んでいる。
アサはそれを受け流す余裕もなく、ただ視線を落とし、胸のざわめきを押し込めていた。
その時――
部屋の向こうで、気配が止まる。
一瞬の間。
垂らされた布が、かすかに揺れた。
外の気配が、ひとつ。
息を潜めるように、そこに留まる。
やがて。
音もなく、その布がそっと持ち上げられる。
空気が、変わる。
アサの肩が、わずかに震えた。
ミナギだった。
ミツが一瞬きょとんとし、すぐに口元を押さえる。
立ち上がり、背筋がすっと伸びる。
そして、深く頭を垂れた。
「――ミナギ様」
つい先ほどまでの気安さは消え、完全に宮中の者としての振る舞い。
ミナギは短く頷く。
「見舞いか」
簡潔な問い。
「はい。アサの様子を伺いに」
淀みのない応答。
礼を失さず、しかし過不足もない。
ミツは顔を上げると、ほんの一瞬だけ――
ちらりとアサを見た。
そして。
口元に、わずかな笑みを浮かべる。
誰にも気づかれぬほどの、小さなもの。
(……やっぱり)
そう言いたげに。
すぐにその気配を消し、再び頭を下げる。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
丁寧に一礼。
足音を忍ばせるように、静かに退く。
静寂が落ちる。
――二人きり。
アサは、恐る恐る顔を上げた。
視線が、合う。
――逸らされない。
それどころか。
まっすぐに、見ている。
あまりにも自然に。
まるで、それが当たり前であるかのように。
胸が、強く跳ねる。
ミナギはゆっくりと歩み寄る。
距離が、詰まる。
アサの前で足を止めると、ミナギは身を屈めた。
視線の高さが、揃う。
「起きていてよかったのか」
低い声。
「も、もう大丈夫です……」
思わず早口になる。
ミナギは、目を離さない。
じっと、確かめるように。
「……嘘だな」
ぽつり。
そのまま、手が伸びる。
頬に触れる。
「……ッ」
びくりと肩が跳ねた。
指先はひどく静かで、温かい。
逃げようとするより先に、なぞられる。
「まだ熱がある」
眉がわずかに寄る。
本気で案じている顔。
指が、わずかに動く。
頬から、耳の後ろへ。
髪を払う。
整えるように。
どうして。
こんなにも甘いのだろう。
頬に触れる手も。
髪を払う仕草も。
心配そうに細められる瞳も。
そのひとつひとつが、まるで壊れ物を扱うようで。
自分だけに向けられていることが、まだ現実だと思えない。
嬉しいはずなのに。
胸がいっぱいになって。
息の仕方まで、忘れてしまいそうだった。




