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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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揺らぐ心



 ――消《き》えた。


 あの婚姻《こんいん》が。


 あれほど重《おも》く、揺《ゆ》るがないものだと思《おも》っていた決定《けってい》が。


 あっけなく。


(……どうして)


 理由《りゆう》が分《わ》からない。



 だが。


 胸《むね》の奥《おく》で、何《なに》かがわずかに浮《う》き上《あ》がる。


 押《お》し込《こ》めていたはずのもの。


 諦《あきら》めたはずのもの。


 ――期待《きたい》。


 それが、ほんの微《かす》かに顔《かお》を出《だ》す。


 だめだ、と。


 すぐに思《おも》う。


(……違《ちが》う)


 これは、そういう話《はなし》じゃない。


 自分《じぶん》は関係《かんけい》ない。


 きっと、国《くに》の都合《つごう》。


 別《べつ》の思惑《おもわく》。


 そう、分《わ》かっているのに。


 それでも。


 ほんの少《すこ》しだけ。


 も(・)し(・)か(・)し(・)た(・)ら(・)という考《かんが》えが、消《き》えてくれない。



 ミツは、にやにやとこちらを覗《のぞ》き込《こ》む。


「なに、その顔《かお》」


 面白《おもしろ》がるように。


「やっぱり気《き》になるんじゃないの?」


「ち、ちが……」


 反射的《はんしゃてき》に否定《ひてい》する。


 だが、その言葉《ことば》は弱《よわ》い。


 ――やめて。


 言《い》いかけて、声《こえ》にならない。


 胸《むね》の奥《おく》が、ひどく騒《さわ》がしい。


 喜《よろこ》んではいけない。


 期待《きたい》してはいけない。


 分《わ》かっているのに。


 アサはぎゅっと唇《くちびる》を噛《か》みしめた。



 揺《ゆ》れる。


 覚悟《かくご》を決《き》めたはずの心《こころ》が。


 ほんの一言《ひとこと》で、こんなにも簡単《かんたん》に。 


 ――揺《ゆ》らされてしまう。


 ミツはくすくすと笑《わら》いながら、まだ何《なに》か言《い》いたげにこちらを覗《のぞ》き込《こ》んでいる。


 アサはそれを受《う》け流《なが》す余裕《よゆう》もなく、ただ視線《しせん》を落《お》とし、胸《むね》のざわめきを押《お》し込《こ》めていた。

 


 その時《とき》――


 部屋《へや》の向《む》こうで、気配《けはい》が止《と》まる。


 一瞬《いっしゅん》の間《ま》。


 垂《た》らされた布《ぬの》が、かすかに揺《ゆ》れた。


 外《そと》の気配《けはい》が、ひとつ。


 息《いき》を潜《ひそ》めるように、そこに留《とど》まる。


 やがて。


 音《おと》もなく、その布《ぬの》がそっと持《も》ち上《あ》げられる。


 空気《くうき》が、変《か》わる。


 アサの肩《かた》が、わずかに震《ふる》えた。


 ミナギだった。


 ミツが一瞬《いっしゅん》きょとんとし、すぐに口元《くちもと》を押《お》さえる。


 立《た》ち上《あ》がり、背筋《せすじ》がすっと伸《の》びる。


 そして、深《ふか》く頭《こうべ》を垂《た》れた。


「――ミナギ様《さま》」


 つい先《さき》ほどまでの気安《きやす》さは消《き》え、完全《かんぜん》に宮中(きゅうちゅう)の者《もの》としての振《ふ》る舞《ま》い。


 ミナギは短《みじか》く頷《うなず》く。


「見舞《みま》いか」


 簡潔《かんけつ》な問《と》い。


「はい。アサの様子《ようす》を伺《うかが》いに」


 淀《よど》みのない応答《おうとう》。


 礼《れい》を失《しっ》さず、しかし過不足《かぶそく》もない。


 ミツは顔《かお》を上《あ》げると、ほんの一瞬《いっしゅん》だけ――


 ちらりとアサを見《み》た。


 そして。


 口元《くちもと》に、わずかな笑《え》みを浮《う》かべる。


 誰《だれ》にも気《き》づかれぬほどの、小《ちい》さなもの。


(……やっぱり)


 そう言《い》いたげに。


 すぐにその気配《けはい》を消《け》し、再《ふたた》び頭《こうべ》を下《さ》げる。


「それでは、私《わたし》はこれで失礼《しつれい》いたします」


 丁寧《ていねい》に一礼《いちれい》。


 足音《あしおと》を忍《しの》ばせるように、静《しず》かに退《しりぞ》く。



 静寂《せいじゃく》が落《お》ちる。


 ――二人《ふたり》きり。


 アサは、恐《おそ》る恐《おそ》る顔《かお》を上《あ》げた。


 視線《しせん》が、合《あ》う。


 ――逸《そ》らされない。


 それどころか。


 まっすぐに、見《み》ている。


 あまりにも自然《しぜん》に。


 まるで、それが当《あ》たり前《まえ》であるかのように。


 胸《むね》が、強《つよ》く跳《は》ねる。



 ミナギはゆっくりと歩《あゆ》み寄《よ》る。


 距離《きょり》が、詰《つ》まる。


 アサの前《まえ》で足《あし》を止《と》めると、ミナギは身《み》を屈《かが》めた。


 視線《しせん》の高《たか》さが、揃《そろ》う。


「起《お》きていてよかったのか」


 低《ひく》い声《こえ》。


「も、もう大丈夫《だいじょうぶ》です……」


 思《おも》わず早口《はやくち》になる。


 ミナギは、目《め》を離《はな》さない。


 じっと、確《たし》かめるように。


「……嘘《うそ》だな」


 ぽつり。


 そのまま、手《て》が伸《の》びる。


 頬《ほお》に触《ふ》れる。


「……ッ」


 びくりと肩《かた》が跳《は》ねた。


 指先《ゆびさき》はひどく静《しず》かで、温《あたた》かい。


 逃《に》げようとするより先《さき》に、なぞられる。


「まだ熱《ねつ》がある」


 眉《まゆ》がわずかに寄《よ》る。


 本気《ほんき》で案《あん》じている顔《かお》。



 指《ゆび》が、わずかに動《うご》く。


 頬《ほお》から、耳《みみ》の後《うし》ろへ。


 髪《かみ》を払《はら》う。


 整《ととの》えるように。



 どうして。


 こんなにも甘《あま》いのだろう。


 頬《ほお》に触《ふ》れる手《て》も。


 髪《かみ》を払《はら》う仕草《しぐさ》も。


 心配《しんぱい》そうに細《ほそ》められる瞳《ひとみ》も。


 そのひとつひとつが、まるで壊《こわ》れ物《もの》を扱《あつか》うようで。


 自分《じぶん》だけに向《む》けられていることが、まだ現実《げんじつ》だと思《おも》えない。


 嬉《うれ》しいはずなのに。


 胸《むね》がいっぱいになって。


 息《いき》の仕方《しかた》まで、忘《わす》れてしまいそうだった。



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