静かなる波紋
あの一件を境に、宮中の空気は目に見えて変わった。
――いや、正確には。
変わったのは、アサに向けられる視線だった。
療養のために与えられた部屋。
やわらかな敷物。
清められた水。
整えられた衣。
侍女たちは入れ替わり立ち替わり、甲斐甲斐しく世話を焼く。
薬湯の温度を確かめ、衣の皺を整え、枕の高さまで何度も直す。
「お身体に障りはございませんか」
「無理はなさらぬよう」
「少しでも寒ければ、すぐに仰ってくださいませ」
その声はどれも柔らかく、丁寧で――
どこか、過剰だった。
あの厳しかった侍女頭でさえ、眉をひそめて言う。
「……大事な体です。少しでも異変があれば、すぐに申し出なさい」
戸惑いが、胸の奥に静かに溜まっていく。
皆が優しい。
だが同時に、妙に落ち着かない。
視線が合えば、すぐに逸らされる。
何か言いたげにして、結局言わない。
そわそわとした気配が、部屋の隅々に沈んでいる。
まるで――
触れてはいけないものを扱うように。
見舞いに来たミツに、アサは思い切って尋ねた。
「……ねえ、ミツ。なんだか皆、変じゃない?」
できるだけ何気なく。
「妙に優しいというか……丁寧というか――」
だがミツは、きょとんとした顔で瞬きをする。
「え? そりゃそうでしょ」
そして、あっけらかんと言った。
「だってあんた、ミナギ様の后になるんでしょ?」
思考が、止まった。
「……へ?」
間の抜けた声が漏れる。
「な……なんで、そうなるの……?」
ミツは不思議そうに首を傾げる。
「何でって……もう宮中じゃ噂の的よ。あんた、ミナギ様と――」
一瞬、言葉を選ぶようにしてから、にやりと笑う。
「――人目もはばからず、熱ぅ〜く抱き合ってたんだって?」
ぼん、と。
頭の中で何かが弾けた。
熱が、一気に顔へ上がる。
(……あ……)
思い出す。
あの時のこと。
必死だった。
ただ、無事でいてくれたことが嬉しくて。
それ以外、何も考えていなかった。
――周りなど、見えていなかった。
だが――
(……見られてた……?)
大勢に。
一気に、顔が熱を帯びる。
「ち、ちが……あれは……」
言葉にならない。
「何が違うのよ~」
ミツは楽しそうに笑う。
「だってそんなの見たら、誰だってそう思うって」
「え、ちょ、ちょっと待って……あれ、そんな……」
言葉がうまく出てこない。
ミツはけろりとしている。
「いつからそんな仲だったの? ずるいわよねぇ、黙ってるなんて……」
否定しようと、口を開く。
だが。
言葉が、出ない。
(……違う)
そう言いたいのに。
(違う、けど……)
胸の奥が、きしむ。
あのとき抱きしめられた温もり。
呼ばれた声。
すべてが、まだ残っている。
それを、完全に否定することが――
できない。
でも――
そうじゃない。
そんな関係じゃない。
そもそも――
(……あの人には、もう)
言葉にならない思いが胸を締めつける。
アサは唇を噛み、かすれるような声を漏らした。
「……ミナギ、様には、志摩様が……」
婚姻の話。
すでに決まった未来。
そこに、自分の居場所はない。
なのに周囲は、勝手に物語を作る。
すべてが、現実と噛み合っていない。
アサの言葉に、ミツはきょとんと目を瞬かせた。
「――ああ、婚姻の話なら」
あっさりと言う。
「なくなったらしいわよ」
「……え?」
アサは顔を上げた。
「……なく、なった……?」
聞き返す声は、自分でも分かるほど頼りない。
「うん」
ミツは頷く。
「急に決まって、急に消えたって感じ。上の人たち、バタバタしてるみたいだけど」
まるで他人事のように言う。
だが、その一言は――
アサの中に、静かに波紋を広げた。




