↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
PR
77/139

美しき毒



 部屋《へや》はわずかな明《あ》かりに照《て》らされ、薄闇《うすやみ》がゆるやかに広《ひろ》がっていた。


 衣《ころも》は乱《みだ》れ、床《ゆか》には無造作《むぞうさ》に落《お》ちた帯《おび》が影《かげ》を引《ひ》く。


 香《こう》の残《のこ》り香《が》と、わずかに混《ま》じる体温《たいおん》の気配《けはい》。


 静《しず》まり返《かえ》った空間《くうかん》に、まだ消《き》えきらぬ熱《ねつ》だけが、名残《なごり》のように漂《ただよ》っていた。



 宇良《うら》はゆるやかに身《み》を起《お》こす。


 肩《かた》から滑《すべ》り落《お》ちる髪《かみ》を、指先《ゆびさき》で払《はら》う。


 その仕草《しぐさ》は、あくまで優雅《ゆうが》で、隙《すき》がない。


 対《たい》する男《おとこ》――重臣《じゅうしん》ヨモガイは、満《み》ち足《た》りたように息《いき》を吐《つ》き、寝台《しんだい》に身《み》を預《あず》けていた。


 わずかに翳《かげ》る瞼《まぶた》の奥《おく》には、先《さき》ほどまでの熱《ねつ》に浸《ひた》った快楽《かいらく》の残滓《ざんし》が残《のこ》っている。



「――相変《あいか》わらずいい女《おんな》だな」


 ヨモガイは寝台《しんだい》にもたれ、下卑《げび》た目《め》つきで宇良《うら》を舐《な》め回《まわ》すように見《み》つめた。


 素肌《すはだ》に上掛《うわが》けだけをまとう艶《なま》めかしい姿《すがた》――


 肩《かた》の曲線《きょくせん》、胸《むね》の陰影《いんえい》、腰《こし》の柔《やわ》らかさ。 


 いやらしく滑《すべ》る、その視線《しせん》には、軽薄《けいはく》で好色《こうしょく》な本性《ほんしょう》が滲《にじ》み出《で》ていた。



 隼比古《はやひこ》によく似《に》ている――と宇良《うら》は思《おも》う。


 男《おとこ》の姿《すがた》に、今《いま》は亡《な》き夫《おっと》の面影《おもかげ》が一瞬《いっしゅん》よぎる。



 愛《あい》などなかった。


 なのに、その面影《おもかげ》を思《おも》い出《だ》すだけで、胸《むね》の奥《おく》に寒々(さむざむ)しい虚無《きょむ》が広《ひろ》がる。



 ――反吐《へど》が出《で》る。


 この下品《げひん》な男《おとこ》にも。


 この男《おとこ》に体《からだ》を許《ゆる》す自分《じぶん》にも。


 軽薄《けいはく》な男《おとこ》と。


 自分《じぶん》の身体《からだ》と。


 愛情《あいじょう》のかけらもない結婚《けっこん》の影《かげ》。


 すべてが、胸《むね》の奥《おく》で渦《うず》を巻《ま》く。



 ヨモガイは、ミナギの父《ちち》の時代《じだい》から重臣《じゅうしん》として仕《つか》えてきた男《おとこ》である。


 かつては権威《けんい》を振《ふ》りかざし、好《す》き勝手《かって》に振《ふ》る舞《ま》える自由《じゆう》があった。


 だが今《いま》は、若《わか》きミナギの目《め》が鋭《するど》く光《ひか》り、その下《もと》で思《おも》うままには行動《こうどう》できぬ苛立《いらだ》ちが胸《むね》にくすぶる。


 表向《おもてむ》きは従順《じゅうじゅん》を装《よそお》わねばならぬ義務感《ぎむかん》が、その自負《じふ》と誇《ほこ》りを締《し》め付《つ》け、静《しず》かに火花《ひばな》を散《ち》らしていた。



「若造《わかぞう》め」


 忌々(いまいま)しくそう言《い》うと、小《ちい》さく舌打《したう》ちをする。


 宇良《うら》は、ヨモガイを静《しず》かに見据《みす》えながら薄《うす》く微笑《ほほえ》む。


 ミナギの厳《きび》しい目《め》の下《もと》で、この浅《あさ》ましい男《おとこ》こそが、宇良《うら》がつけいる宮中《きゅうちゅう》のわずかな隙間《すきま》であった。



 宇良《うら》は、乱《みだ》れた帯《おび》を拾《ひろ》い上《あ》げると、指先《ゆびさき》で軽《かる》く払《はら》った。


 布《ぬの》の擦《こす》れる音《おと》だけが、静《しず》かな室内《しつない》に細《ほそ》く響《ひび》く。


「そういえばよ――」


 ヨモガイは、ふと思《おも》い出《だ》したように鼻《はな》を鳴《な》らした。


「例《れい》の娘《むすめ》の話《はなし》は、もう聞《き》いてるだろうがな。ミナギ様《さま》の命《いのち》を救《すく》ったってやつだ」


 その口《くち》ぶりには、敬意《けいい》の欠片《かけら》もない。


 既《すで》に広《ひろ》く知《し》れ渡《わた》っている事実《じじつ》を、あえて軽《かる》く扱《あつか》っているだけだ。


 宇良《うら》は、帯《おび》を結《むす》ぶ手《て》を止《と》めない。


「……ええ」


 短《みじか》く、素気《そっけ》なく返《かえ》す。



 ――アサ。


 その名《な》が、頭《あたま》の奥《おく》で静《しず》かに浮《う》かぶ。


「ふん、まだ線《せん》の細《ほそ》い小娘《こむすめ》だがな」


 ヨモガイは肩《かた》を揺《ゆ》らして笑《わら》う。


「俺《おれ》の好《この》みじゃあねえが……あと二《に》、三年《さんねん》もすりゃあ、まあ見《み》られるようにはなるだろうよ」


 下卑《げび》た視線《しせん》が、どこか遠《とお》くをなぞる。



 宇良《うら》の指《ゆび》が、わずかに止《と》まった。 


 ――くだらない。


 内心《ないしん》で、冷《ひ》ややかに切《き》り捨《す》てる。


 その程度《ていど》の価値《かち》しか見出《みいだ》せぬ男《おとこ》。


 やはり、この男《おとこ》は使《つか》うに値《あたい》するだけの存在《そんざい》でしかない。



 娘《むすめ》のことなら、以前《いぜん》から知《し》っている。


 息子《むすこ》ハヤトが不思議《ふしぎ》と懐《なつ》いている侍女《じじょ》。


 ミナギが自《みずか》ら投馬国《とうまこく》へ連《つ》れ帰《かえ》った時点《じてん》で、一度《いちど》は目《め》を留《と》めた。


 ゆえに、しばらくは動向《どうこう》を追《お》っていたが――


 特《とく》に目《め》を引《ひ》くものもなく、印象《いんしょう》に残《のこ》らぬ存在《そんざい》だった。


 だからこそ、深入《ふかい》りはしなかった。


 利用価値《りようかち》が見《み》えなかったからだ。


(――見誤《みあやま》ったかしら)


「……あれだけのことを成《な》せる力《ちから》があるような娘《むすめ》には、とても思《おも》えませんでしたけれど」


「だろうな」


 ヨモガイは肩《かた》をすくめる。


「だが今《いま》や宮中《きゅうちゅう》は大騒《おおさわ》ぎよ。臣下《しんか》も侍女《じじょ》も兵《へい》も、あの娘《むすめ》を拝《おが》むような目《め》で見《み》やがる」


 鼻《はな》で笑《わら》う。


「まるで国《くに》でも救《すく》ったかのような――大《たい》した持《も》ち上《あ》げようだ」


 救《すく》った。


 それはもう、疑《うたが》いようのない事実《じじつ》。


 功《こう》が際立《きわだ》つほど、人《ひと》は理性《りせい》ではなく感情《かんじょう》を優先《ゆうせん》する。


「挙《あ》げ句《く》の果《は》てには――」


 ヨモガイは、わざとらしく間《ま》を置《お》く。


「后《きさき》に、なんて声《こえ》まで出《で》てきてる」


 軽薄《けいはく》な笑《わら》い。


 だがその内容《ないよう》は、軽《かる》くない。



 アサ。


 あの娘《むすめ》を起点《きてん》に、何《なに》かが動《うご》いている。


 そこに、ミナギ自身《じしん》の庇護《ひご》が重《かさ》なれば――


(……跳《は》ねるのも、道理《どうり》)


 以前《いぜん》の評価《ひょうか》が、静《しず》かに覆《くつがえ》る。



 ただの娘《むすめ》ではない。


 ならば。


 触《ふ》れてみる価値《かち》はある。


 宇良《うら》は、かすかに唇《くちびる》の端《はし》を上《あ》げた。


 誰《だれ》にも気取《けど》られぬ、微《かす》かな笑《え》み。



 その背後《はいご》から――


「なあ……」


 ヨモガイの声《こえ》は、妙《みょう》に湿《しめ》っていた。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》、遠慮《えんりょ》の欠片《かけら》もなく腕《うで》が回《まわ》る。


「もう一度《いちど》くらい、いいだろう?」


 欲《よく》を隠《かく》そうともしない、粘《ねば》つくような響《ひび》き。


「……お戯《たわむ》れが過《す》ぎますわ」


 柔《やわ》らかく、たしなめるような声音《こわね》。


 微笑《びしょう》さえ含《ふく》ませて、角《かど》を立《た》てぬ言《い》い方《かた》。


 指先《ゆびさき》が、そっと男《おとこ》の腕《うで》に触《ふ》れる。


「あまりに何度《なんど》もお求《もと》めになられるものだから……今日《きょう》は疲《つか》れてしまいましたの」


 やわらかく、静《しず》かに。


 だがその裏《うら》で――


(……気色《きしょく》が悪《わる》い)


 触《ふ》れられている場所《ばしょ》が、ひどく不快《ふかい》に思《おも》える。


 皮膚《ひふ》の上《うえ》に残《のこ》る熱《ねつ》が、汚《よご》れのように感《かん》じられた。


 この男《おとこ》の欲望《よくぼう》も、視線《しせん》も、息遣《いきづか》いも。



 それでも。


 宇良《うら》は、微笑《ほほえ》みを崩《くず》さない。


 ゆるやかに身《み》を捩《よじ》り、するりと腕《うで》の内《うち》から抜《ぬ》ける。


 あくまで自然《しぜん》に。


 拒《こば》まれたと悟《さと》らせぬように。


「また、いずれ――」


 含《ふく》みを持《も》たせた声音《こわね》。


 餌《えさ》を完全《かんぜん》には断《た》たない。


 その言葉《ことば》に、ヨモガイの鼻《はな》が鈍《にぶ》く鳴《な》る。


 口元《くちもと》がだらしなく緩《ゆる》み、目《め》の奥《おく》に、あからさまな欲《よく》が滲《にじ》んだ。



 ――愚《おろ》かな男《おとこ》。


 宇良《うら》の瞳《ひとみ》の奥《おく》で、冷《つめ》たい光《ひかり》がゆるやかに沈《しず》む。


 やがてそれすらも表《おもて》には滲《にじ》ませず、何事《なにごと》もなかったかのように、静寂《せいじゃく》だけが残《のこ》った。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。