美しき毒
部屋はわずかな明かりに照らされ、薄闇がゆるやかに広がっていた。
衣は乱れ、床には無造作に落ちた帯が影を引く。
香の残り香と、わずかに混じる体温の気配。
静まり返った空間に、まだ消えきらぬ熱だけが、名残のように漂っていた。
宇良はゆるやかに身を起こす。
肩から滑り落ちる髪を、指先で払う。
その仕草は、あくまで優雅で、隙がない。
対する男――重臣ヨモガイは、満ち足りたように息を吐き、寝台に身を預けていた。
わずかに翳る瞼の奥には、先ほどまでの熱に浸った快楽の残滓が残っている。
「――相変わらずいい女だな」
ヨモガイは寝台にもたれ、下卑た目つきで宇良を舐め回すように見つめた。
素肌に上掛けだけをまとう艶めかしい姿――
肩の曲線、胸の陰影、腰の柔らかさ。
いやらしく滑る、その視線には、軽薄で好色な本性が滲み出ていた。
隼比古によく似ている――と宇良は思う。
男の姿に、今は亡き夫の面影が一瞬よぎる。
愛などなかった。
なのに、その面影を思い出すだけで、胸の奥に寒々しい虚無が広がる。
――反吐が出る。
この下品な男にも。
この男に体を許す自分にも。
軽薄な男と。
自分の身体と。
愛情のかけらもない結婚の影。
すべてが、胸の奥で渦を巻く。
ヨモガイは、ミナギの父の時代から重臣として仕えてきた男である。
かつては権威を振りかざし、好き勝手に振る舞える自由があった。
だが今は、若きミナギの目が鋭く光り、その下で思うままには行動できぬ苛立ちが胸にくすぶる。
表向きは従順を装わねばならぬ義務感が、その自負と誇りを締め付け、静かに火花を散らしていた。
「若造め」
忌々しくそう言うと、小さく舌打ちをする。
宇良は、ヨモガイを静かに見据えながら薄く微笑む。
ミナギの厳しい目の下で、この浅ましい男こそが、宇良がつけいる宮中のわずかな隙間であった。
宇良は、乱れた帯を拾い上げると、指先で軽く払った。
布の擦れる音だけが、静かな室内に細く響く。
「そういえばよ――」
ヨモガイは、ふと思い出したように鼻を鳴らした。
「例の娘の話は、もう聞いてるだろうがな。ミナギ様の命を救ったってやつだ」
その口ぶりには、敬意の欠片もない。
既に広く知れ渡っている事実を、あえて軽く扱っているだけだ。
宇良は、帯を結ぶ手を止めない。
「……ええ」
短く、素気なく返す。
――アサ。
その名が、頭の奥で静かに浮かぶ。
「ふん、まだ線の細い小娘だがな」
ヨモガイは肩を揺らして笑う。
「俺の好みじゃあねえが……あと二、三年もすりゃあ、まあ見られるようにはなるだろうよ」
下卑た視線が、どこか遠くをなぞる。
宇良の指が、わずかに止まった。
――くだらない。
内心で、冷ややかに切り捨てる。
その程度の価値しか見出せぬ男。
やはり、この男は使うに値するだけの存在でしかない。
娘のことなら、以前から知っている。
息子ハヤトが不思議と懐いている侍女。
ミナギが自ら投馬国へ連れ帰った時点で、一度は目を留めた。
ゆえに、しばらくは動向を追っていたが――
特に目を引くものもなく、印象に残らぬ存在だった。
だからこそ、深入りはしなかった。
利用価値が見えなかったからだ。
(――見誤ったかしら)
「……あれだけのことを成せる力があるような娘には、とても思えませんでしたけれど」
「だろうな」
ヨモガイは肩をすくめる。
「だが今や宮中は大騒ぎよ。臣下も侍女も兵も、あの娘を拝むような目で見やがる」
鼻で笑う。
「まるで国でも救ったかのような――大した持ち上げようだ」
救った。
それはもう、疑いようのない事実。
功が際立つほど、人は理性ではなく感情を優先する。
「挙げ句の果てには――」
ヨモガイは、わざとらしく間を置く。
「后に、なんて声まで出てきてる」
軽薄な笑い。
だがその内容は、軽くない。
アサ。
あの娘を起点に、何かが動いている。
そこに、ミナギ自身の庇護が重なれば――
(……跳ねるのも、道理)
以前の評価が、静かに覆る。
ただの娘ではない。
ならば。
触れてみる価値はある。
宇良は、かすかに唇の端を上げた。
誰にも気取られぬ、微かな笑み。
その背後から――
「なあ……」
ヨモガイの声は、妙に湿っていた。
次の瞬間、遠慮の欠片もなく腕が回る。
「もう一度くらい、いいだろう?」
欲を隠そうともしない、粘つくような響き。
「……お戯れが過ぎますわ」
柔らかく、たしなめるような声音。
微笑さえ含ませて、角を立てぬ言い方。
指先が、そっと男の腕に触れる。
「あまりに何度もお求めになられるものだから……今日は疲れてしまいましたの」
やわらかく、静かに。
だがその裏で――
(……気色が悪い)
触れられている場所が、ひどく不快に思える。
皮膚の上に残る熱が、汚れのように感じられた。
この男の欲望も、視線も、息遣いも。
それでも。
宇良は、微笑みを崩さない。
ゆるやかに身を捩り、するりと腕の内から抜ける。
あくまで自然に。
拒まれたと悟らせぬように。
「また、いずれ――」
含みを持たせた声音。
餌を完全には断たない。
その言葉に、ヨモガイの鼻が鈍く鳴る。
口元がだらしなく緩み、目の奥に、あからさまな欲が滲んだ。
――愚かな男。
宇良の瞳の奥で、冷たい光がゆるやかに沈む。
やがてそれすらも表には滲ませず、何事もなかったかのように、静寂だけが残った。




